ビジネスを冷たくするもあたたかくするも自分次第《週刊READING LIFE Vol.333「ビジネス感覚」》
*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
2025/11/27 公開
記事 : 松本 萌 (READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
箱根に好きな宿がある。
元は出版会社の保養所で、周囲は今も保養所として使われている建物が多く、とても静かなところだ。
出版会社の施設だったことを意識して作られているのだろう。ロビーに入ると、吹き抜けのロビーの壁一面に本が置かれている。部屋にテレビがないのだが、たくさんの本の中から好きな本を持って部屋に行けるので、長い夜も全く飽きずに過ごせる。
その宿のことを知ったのは、コロナ禍のときだ。誰かを誘うのも気が引けて、一人で行くことにした。確か10月のことで、宿に着いた頃には日が傾き始めていた。部屋に荷物を置いた後、本で溢れているロビーに行き、気になる本がないか物色した。目に止まったのは動物の写真家星野道夫さんの写真集だった。夕日が差し込む中、コーヒーを片手に写真集を楽しんだ。
部屋にも数冊本が置かれており、その中から一冊手に取ってみた。その本はビジネス書で、人口減少や超高齢化の進むこれからの社会において、企業を支えるのはまだ見ぬ新規顧客ではなく、熱烈に愛してくれる「ファン」の存在だと書かれていた。
「なるほど」と思いつつ、しっくりとこなかった。
当時の私は「ビジネス」に対し冷たい、固い、血の通っていないクールなものというイメージを持っており、かたや「ファン」と聞くと好意や応援といった、温かいイメージを持っていた。そのためビジネスとファンを紐付けることに違和感を持っていた。
今ではビジネスにとってファンは欠かせず、そしてビジネスこそ血の通った温かいものでなければ続かないと確信している。そして自分の得意とするものを誰かのために役立てようというビジネス感覚がある人に周囲は好意を抱き、そしてファンになるのだと思っている。
ビジネスに対し冷たいイメージを持っていたのは、「仕事」というものの捉え方が影響している。私は仕事を「生きていく上で必要なもの」「途中で投げ出してはいけないもの」「辛いことがデフォルト」と捉えており、社会とは厳しい世界だと思っていたからだ。
幼いころ、平日の夜に父と一緒に食事を囲むことはそう多くはなかった。残業や接待で毎夜帰りが遅かったからだ。当時は土曜出社もあり、唯一の休みである日曜は9時くらいに父が起きてくるのだが、いつもムスッとした顔をしていた。いくら寝ても1週間分の疲れがとれなかったのだろうと今では想像できるが、当時の私はそんな父がとても怖く感じた。元々愛想の良いタイプではないものの、朝から不機嫌な顔をしている父を見て、「働くということはとても辛いこと」だと子供ながらに思っていた。
いざ自分が社会人になって働き始めると、嬉しいことや達成感ももちろんあるが、それと同じくらい嫌な思いや理不尽な思いもした。
そして自分が望むような評価を、周囲はしてくれないということを知った。若い頃は「こんなにも頑張ったのに、誰も褒めてくれない」とへこむこともあったが、上司や先輩たちは自分よりもたくさんの仕事をこなし、そして実績を出している人達なのだと思うと、評価を求めても仕方ないことと思うようになった。
仕事は辛く、そして思うようにいかないことがたくさんあるという考えが自分の中でできあがっていくにつれ、ビジネスとはクールで感情のない機械のようなものであり、ビジネス感覚とは理論的で効率性を重視し、思いやりや気遣いは二の次と捉えるようになった。
ある企業家との出会いが、そんな私の思いを変えてくれた。
その企業家は長年美容業界で働いており、今では自社ブランドの化粧品をいくつも作っている。
私がその企業家を知ったのは、コロナ禍の少し前だ。最初は「さすが美容のプロ、きれいだな」と思っていたが、きれいなだけの人ではなかった。
定期的にフェイスブックやインスタでメイクのライブをやっていたが、ある日「夜はフェイスブックで、朝はインスタで1000日連続メイクライブをします」と宣言したのだ。1000日といえば2年半以上だ。しかもフェイスブックとインスタ両方だなんて無理だろうと思っていたが、なんと本当に成し遂げたのだ! インスタライブ1000日目の朝は、フォロワーからのお祝いコメントが、ライブ中ひっきりなしに表示された。そして1000日をとうに過ぎた今でも、毎日朝のライブを続けている。
ライブの中で、たくさんのフォロワーがコメントをしたり質問をするのだが、メイクをしながら一人ずつアカウント名とコメントを読み上げてくれる。そして的確なアドバイスをくれる。このスタイルはライブを始めた当初から変わらない。
メイクの質問に対しては、どんな化粧品がよいか、どんな対応をすればよいか、メイクをするコツ等を惜しみなく教えてくれる。私は乾燥に悩んでいた時期、ライブ中に相談したところ対応方法を教えてくれ、試したら一発でよくなった。
中には仕事やプライベートの悩みをコメントするフォロワーもいる。そうするとメイクをする手を止め、アドバイスをしてくれる。話す内容は的確で、相談者を思いやる気持ちが言葉の端々に感じられる。
プロのメイクの技を見られることに加え、相談者はもちろんのこと、他の視聴者にも学びのあるアドバイスを聞くことのできるライブは、有料級ではないかと思うのだが、もちろん無料だ。見られなかった朝は、後でアーカイブを楽しむこともできる。
他の企業家のインスタライブを見ることがあるが、ここまで徹底してフォロワーに向き合っている人に、私は今まで出会ったことがない。
数を求めるのではなく、フォロワー一人一人を大切な存在と捉えて対応できるのはなぜか。それは企業家のメイクに対する情熱と、フォロワーへの感謝の気持ちのなせる技だと思っている。
ライブの中で、10代の頃に大火傷で入院したことや、入院中に出会った友人の影響で「自分の好きなことをやろう」と心に決めたこと、そしてやるならば常に自分のベストを尽くすことを課して今までやってきたことを語っていたことがある。
大半の人が経験したことがないような苦労話を、笑いながらサラッと話すこともある。他人には想像し難い辛い思いを何度もしたのだろうと思うのだが、今までのことを「全てよい経験」と話すときの顔は、とてもおだやかだ。
「私不器用だから色々なことはできないんだけど、メイクは大好きだから、この仕事をずっと続けてこれています」と語っていたことがある。「年齢を重ねると『もうこの歳だから……』と言う人がいますが、私は年齢を美しさに変えたいと本気で思っています。メイクでそのお手伝いをしたいんです」
自分の仕事をこよなく愛し、情熱を持って邁進する姿はとても清々しく、そして惹きつけられるものがある。
「自分の仕事が好き」と宣言し、「メイクの力で人を幸せにしたい」という熱い思いに溢れた朝のライブを5年程見続けている内に、私の中で仕事の捉え方が変わった。
仕事は辛いのが当たり前と思い込んでいたけれど、それって本当だろうか。
実績や成果が第一で、感情や思いやりは二の次なのがビジネスの世界だと捉えていたけれど、それって本当だろうか。
「仕事だからしかたない」「ビジネスの世界だからしかたない」と、諦めなくもいいのではないだろうか。
「仕事って楽しいよね」と言う世界は夢物語ではなく、現実であっていいのではないだろうか。
「これが私の使命」と思うことを、仕事で貫く生き方もいいのではないだろうか。
「私にはこれしかできない」というたった一つのものであっても、情熱をかけてやり続け、そしてそれを誰かのために活かせたら、たとえ実績や成果としてはほんの足らない結果だったとしても、最高なビジネスと言えるのではないだろうか。そしてそんな自分の仕事を「いいね!」「あなたのおかげで私は幸せだよ」と言ってくれるファンが一人でもできたら、そしてファンを大切に思い、向き合い続けるビジネス感覚を持ち続けていたら、いつまでも成長し続けるビジネスになっていくのではないかと思っている。
最近ChatGTPを使うようになり、気になることがあると質問している。試しに「ビジネスとはあたたかいものですか?」と聞いてみた。
すると「ビジネスは 冷たいものにも、あたたかいものにもなりうるものです。」「ビジネスそのものに温度はないけれど、扱う人の心によって温度が決まる。優しさや誠実さを持った人が行うビジネスは、自然とあたたかくなります」
ビジネスとは冷たいものだと思い込んでいたけれど、あたたかいものと思えばあたたかいものになる。自分の思い込みで決めつけていたことに気がつくと同時に、箱根の宿のことを思い出した。
箱根の宿には2回、そして長野の松本にある同系列の宿に1回行ったことがある。箱根の宿に2回目行った時は、誕生日間近だった。友人に「自分への誕生日プレゼントとして行ってくる」と話したところ、友人が宿に頼んで誕生日ケーキとプレゼントを準備してくれていた。一人だったので気恥ずかしかったが、友人の心遣いと宿の人の温かい笑顔が嬉しかった。
松本の宿に行ったときもちょうど誕生日間近だった。そろそろデザートとなったときに、「スーシェフからお祝いのプレートです」と、プレートにお祝いのメッセージが書かれたデザートが出てきた。今回は友人に言っていないのに、なぜだろうと驚いていたら「以前お誕生日のときに箱根に泊まっていただいていた記録がありましたので、お祝いのプレートを作らせていただきました」と宿からのおもてなしであることを教えてくれた。
数年前にあたたかいビジネスに触れていたのに、どうやら私はその時は気がついていなかったようだ。
ビジネスは冷たいものにも、あたたかいものにもなりうるのならば、私はあたたかいビジネスを提供できる感覚を持っている人でありたいと思う。どうすれば自分の仕事にあたたかいビジネスを活かせるか、目下思案中だ。
❏ライタープロフィール
松本萌(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
兵庫県生まれ。東京都在住。
2023年6月より天狼院書店のライティング講座を受講中。
「行きたいところに行く・会いたい人に会いに行く・食べたいものを食べる」がモットー。趣味は通算20年以上続けている弓道。弓道と同じくらい、ライティングも長く続けたいと思い、奮闘中。
人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
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