第6話 「希少なケース」《小説連載「株式会社ドッペルゲンガー」》
Web READING LIFEにて、新作小説の連載がスタートいたします!
近未来の日本で、最新科学技術で作り出した自分そっくりのアンドロイドを使用する人たちの群像劇。
編集長も太鼓判の作品です。ライター・吉田けいが創り出す、ダークな世界観をお楽しみください。
第5話はこちら!
記事:吉田けい(READING LIFE編集部公認ライター)
「橋本英介様のドッペルゲンガーをご用意いたしました。仕上がりはいかがでしょう?」
都内一等地にある株式会社ドッペルゲンガーの店舗。その一角で、私は私に瓜二つなアンドロイドと対面していた。どこにでもいるような、ごくありふれた日本人男性。店舗の店員さんに連れられて、どこか悪戯めいた眼差しで、私のことをじっと見つめてくる。
「……君は、私かな?」
「うん、橋本英介だよ」
声をかけると、アンドロイドはにこりと笑いながら応答した。私はこんな顔で笑うのだろうか。不思議な心地がしつつ、店員さんに頷いて見せると、事務手続きの説明が始まった。人間の脳をAIにコピーして、本人にそっくりなアンドロイドに入れたもの、それがドッペルゲンガー。機械を使って、記憶をシェアすることが出来るもう一人の自分だという。
「それでは、一週間のレンタル、どうぞお楽しみください」
私とドッペルゲンガーは、店員さんの笑顔に送り出され、街の中を歩き出した。ドッペルゲンガーは、私の少し後ろに立ち、私が行く方向についてくる。歩きながら、嬉しそうにきょろきょろと周囲を見回しているようだ。行き先は駅、ドッペルゲンガーもそのことを理解しているだろうか。電車の運賃は大人二人分。用意していた交通ICカードを渡すと、不思議そうな顔で眺める。改札にタッチして進むのだと教えると、顔を輝かせ、私より先に駅構内に入った電車に乗り、乗り換えをして、目的地の駅で降りる。私と見た目は全く同じだが、一人は仏頂面の私、もう一人のドッペルゲンガーは都度都度嬉しそうに、興味深げにあたりを見回しているのだった。
どちらも、無言だ。
やがて、目的地の病院に辿り付いた。病院の入り口で、私は私のドッペルゲンガーと向かい合い、初めて彼に話しかけた。
「……君は、航だね?」
「うん!」
私の年の男性にはまったく似つかわしくない、無邪気な笑顔を浮かべるアンドロイド。彼の笑顔を見て、ようやく私もどこか安堵したような心地になる。二人で病院の中に入り、何度も通った廊下を通り、小児科病棟のある病床を訪ねた。
「……航、来たよ」
声をかけると、ベッドの上で眠っていた少年が、ぱっと顔をこちらに向けた。小学四年生の、まだまだ子供らしい身体には、何本もチューブが繋がれている。鼻にもチューブが入れられた状態で、息子の航は、無邪気な笑顔を浮かべた。
「お父さん、それが僕のドッペルゲンガー!?」
私の横で、ドッペルゲンガーがそうだよ、と声を出す。年齢も体格も全く異なる二人が、同じ笑顔を浮かべ、やった、やった、と手を取り合ってはしゃいでいた。
見た目は私のドッペルゲンガーに、息子のAIが搭載されている。
それは、誰にも知られてはいけない、私と息子の秘密だった。
航の心臓に疾患が見つかったのは、航が生まれる前、検診のエコー検査だった。いつもニコニコしている先生がふと機械を動かす手を止めた。それから無言で、真剣な顔で何度も特定の場所を見ていて、緊張した空気になる。しばらくして、先天的な心疾患があると私と妻に告げられた。もう胎動も始まっていて、この子の命を絶つことなど考えられなかった。私達のところに来れば大丈夫、と思ってくれたに違いない、と妻と何度も言い合って、全力でこの子を支えていこう、と二人で誓い、力強く海を進む船のように生き抜いて欲しい、と、航という名前をつけた。
航の病気は心疾患だけではなかった。脊髄と神経系にも難病指定されている疾患があることが判明し、普通の子が歩き始める年齢になっても、寝返りすら自力ですることができなかった。いくつか複合して発症するのは希少なケースだそうだ。幸いだったのは、体調と症状をしっかり管理していれば寿命と言える年齢まで生存したケースはいくつもあるということだった。子供の頃からある程度訓練し、何度か手術を受ければ、将来的には自立歩行もできるかもしれない。その代わり、免疫が低い子供の頃は、病院で過ごすことがほとんどで、注射や投薬、いくつかの訓練をしなければならなかった。
身動きが取れない分を補うように、航はとても聡明だった。絵本を読むと喜び、それが児童書になり、漫画になり、アニメやゲームや映画になり、病院の外の世界の可能性を知っていった。勉強も訓練も熱心で、院内学級でスポンジが水を吸い込むように知識を吸収していた。
「お父さん、ぼく、はやく大人になって、手術を受けて、自分の足で走ってみたい!」
私と妻はそんな航に逆に励まされ、大切に大切に身の回りの世話をした。航は私達の宝物だった。
航はどうも、シャインというアイドルが好きなようだった。華やかな顔立ちの美人で、歌や踊りも上手い。ふわふわした喋り方だが、意外と教養があるようなことを言ったりもするし、常識もある。楽曲をダウンロードしてやると大喜びで何度もリピートして聞いていた。シャインが出演するテレビ番組を見て録画し、勉強や読書の合間に見ているようだった。シャインちゃんはいつも元気で優しいんだ。シャインちゃんは頑張り屋さんなんだ。ぼくもシャインちゃんみたいに頑張る。シャインちゃんが出てるドラマの原作が読んでみたいな。あのね、シャインちゃんがね……シャインちゃん、シャインちゃん。四六時中シャインちゃんだ。こんなに好きならいつか、体調がいい時にコンサートに連れていってやれたらいいな。そんなことを考えていると、シャイン☆シェアという企画が発表され、航と二人で食い入るようにその記者会見を見つめた。
シャインのドッペルゲンガーがファンのもとにやってきて、交流する。
「…………」
航は何も言わなかった。ただやせっぽちの頬を紅潮させて、身を乗り出して、病院のテレビの小さな画面を握りしめ、中の憧れのアイドルを見つめていた。私が応募してみようか、と言うと、私たちを心配させたくない時にする、優しい笑みを浮かべて首を振った。
「シャインちゃんのファンはいっぱいいるんだ、どうせ当選しないよ」
果たしてそうだろうか。
確かにこれだけ人気のアイドルなら応募は相当なものだろう。落選する人も相当な数になるのは航の言う通りだ。しかし、航のように重い病気と闘う子がこんなにも熱心に彼女を応援しているのだ。アイドルは人気商売だ、先方としても、そういうのを求めているんじゃないのか? そんな私の汚い大人の打算を航に言ったとしたら、病気でズルをしたくない、と反発されるだろうな、航はそういう子だ。でもな、航、それはズルなんかじゃない、お前は十分頑張っている。お前がシャインを応援してると伝わることは、きっと彼女も励ましてくれるに違いない。私は航に内緒でシャイン☆シェアに応募した。祈るような気持ちで過ごし、やはりというべきか、当選の通知が来た。せっかくなので、当日シャインのドッペルゲンガーが来るまで内緒にしていた。
「航くん、シャインだよ! キラキラ〜ッ」
テレビそのままのアイドルのドッペルゲンガーが、航の病室で可愛らしいポーズを決めて見せると、航は目をまんまるに見開いて驚いていた。サプライズ成功だ、大騒ぎする航を落ち着かせながら、妻と二人で微笑んだ。彼女のホテルを病院の近くに用意し、期間中の面会時間、航と過ごしてもらうことにした。彼女は朗らかに笑いながら、航の車椅子を押し、病院の中庭を散歩させてくれた。航とは彼女が出演しているテレビ番組の話をしたり、一緒に歌を歌ったり、映画やゲームに興じたりしているようだ。SNSでその様子がシェアされると、シャインさんだけでなく、航にもたくさんの応援メッセージが寄せられ、航も彼女も驚き喜んでいた。
「シャインちゃん、本当に本当にありがとう、ぼく、シャインちゃんのことずっと応援する!」
「うん、ありがとう、航くん! シャインも航くんのこと応援するよ、だってお友達になったもん!」
「ほんと? ぼくとシャインちゃん、友達?」
「うん、友達ともだち〜! 一緒にキラキラしよ〜、キラキラ〜ッ」
「き、キラキラ〜」
最終日、二人は旧知の親友のようになっていて、お互いのことを応援し続ける、と何度も約束した。記念撮影をして、そのデータをシェアして、シャインさんは名残惜しげに帰って行った。後日、彼女のSNSで航との一週間を振り返る投稿がされて、それは大きな反響を呼んだ。それで終わりだった。毎日病気と闘う航にとって、希少な心躍る日々になったことだろう。思い切って応募してよかったな。航はシャインさんとの写真を眺め、自分に寄せられたメッセージを何度も読み返し、思い出に浸っているようだ。楽しかったなあ、シャインちゃん優しかったなあ、と何度も何度も口にしていた。
しばらくして、航は塞ぎ込むことが多くなった。塞ぎ込むというよりは考え事をしているのだろうか? パソコンでインターネットをして、シャインさんのSNSの他に、何か調べ物をしているようだった。航もそろそろ思春期にさしかかる、何か思うところあるのかもしれない。治療や訓練は変わらず頑張っているし、何か言ってくるまで見守っていよう、と妻と話していた。とはいいつつ私はこっそりパソコンの閲覧履歴を見ていたのだが、見ているのはスポーツや旅行のサイトで、今までと特に変わりはない。ただ、シャインさんのようなドッペルゲンガーについて、そのユーザーのレビューを探し回っているようだった。
「……お父さん、お願いがあるんだ」
「ん、なんだ?」
ある日の病室で、航がぽつりと切り出してきた。来たか、と内心思ったが、平静を装って応じる。病室は相部屋だが、たまたま他の患者は談話室や検査などでベッドにいなかった。いや、航が誰もいない時を狙ったのかもしれない。
「……ドッペルゲンガーって、子供でも作れるのかなあ」
「……どうだろうなあ」
薄々そんな気がしていたのだ。航は自分のドッペルゲンガーを作ろうとしているのではないかと。航の閲覧履歴を見た時から、なんとなくそんな気がして、私なりにも調べていた。しかし、子供のドッペルゲンガー制作例はどれだけ調べても見つからなかった。それもそのはずで、そもそもドッペルゲンガーは成人していないと作ることができないのだ。株式会社ドッペルゲンガーのサイトにそのことが明記されていて、理由として、子供は人格形成の途中であり、メモリーシェアの影響を過度に受ける可能性があるから、と書かれていた。航もそのことを知っているのだろうか、聡いこの子のことだから、もう知っているのかもしれない。
何とも言えない返事をした私を見上げ、航は必死な顔で言葉を続けた。
「ドッペルゲンガー、すごく高いんでしょ、だから、ほんの何日か、レンタルでいいんだ、お父さん。ぼく、おやつも誕生日プレゼントもクリスマスも、何年でも我慢する」
「…………」
いつになく饒舌な息子に、私は言葉を発することが出来ない。
「シャインちゃんのドッペルゲンガーみたいに、ぼくのドッペルゲンガーを作って、歩いてるってどんな感じなのか知りたいんだ。お願い……」
「……航」
この子は生まれてからいろいろな重荷を背負わされて、何もかも我慢している。いつかその重荷を降ろして自由になることを励みにずっと頑張っているが、それだって確実に保証されているわけではない。一度だけでも、バーチャルでも、憧れる世界を体験してみたい。その思いは痛いほど分かるが、世の中には通る道理とそうではないものがあるのだ。
「……子供は、ドッペルゲンガーを作ってはいけないそうだよ」
「なんで!? ずっとじゃない、一回だけでいいんだ!」
「子供は、脳に負担が大きいから、だそうだよ」
「そんなのなんでもない! ずっと我慢してばっかりなんだ、負担が増えたっていい! お願いお父さん! ぼく、注射や訓練をがんばればいつかこうなれるんだって、ほんのちょっとだけでも知りたいんだ!」
どんな治療も笑顔で耐えている航が、ポロポロと涙をこぼしながら私に縋り付いてくる。私はもう何も言ってやることができず、そうだね、何でだろうな、と言いながら、息子の小さな背中を撫でてやるしかできなかった。
その日は、航は泣き疲れてそのまま眠ってしまった。面会時間が過ぎて帰宅する道すがら、私はまたスマホで株式会社ドッペルゲンガーのサイトを閲覧した。何度見ても、成人未満のドッペルゲンガーは作成不可という文言は変わることはなかった。子供が病気だからといって、そこを無理に押し通すわけにもいかない。シャインさんの企画に応募した時とは事情が違うのだ、それでは先方に迷惑をかけてしまう。しかし、何か、何かないのか。航の涙を思い出すと、会社概要、ドッペルゲンガーとは、契約までの流れ。何とはなしに、隅から隅までサイトを読み進めてしまう。電車に乗って、家まで歩いて。夕食と風呂の時だけスマホを離したが、それ以外はずっとドッペルゲンガーのことを調べ、読み続けていた。
「……レンタルなら、AI作成はすべて事前のアンケート入力で済むのか」
レンタルと購入では、AIもアンドロイドもその精度が違うのだそうだ。レンタルは価格を抑え、手続きを簡便にするために、少し簡略化されているようだ。事前に申し込むと、専用サイトのURLが案内されて、AI作成のためのアンケートに回答する。そのデータをもとにAIが作成され、レンタル当日は微調整をするだけなのだそうだ。
「…………」
メモリーシェアは本人と違う人格と実行しようとすると、エラーが起きて実施されないと書いてあった。だが、多少簡素化されたAIなら、最終調整が別人でも、例えば父と子であれば、クリアできるのではないか。私のドッペルゲンガーを作成することにして、アンケート項目だけ航に答えさせて、私が受け取りに行く。負担があるというが、何かあった時はもちろん自己責任だ。多少の負担というのは、体調を崩したりするような類のものだろうか。いつも航の様子を気にかけている私達なら、大事になる前に、負担を見極めることができるのではないか。
「……航」
私は吸い込まれるように、ドッペルゲンガーレンタル申込のボタンを押していた。
航に秘密の作戦を提案すると、飛び上がらんばかりに喜んだ。シャインさんが来た時以上ではないだろうか。その日が来るのを指折り数えて待ち、実際にドッペルゲンガーがやって来ると、今まで見たこともないほど興奮している様子が伺えた。
「お父さん、お父さん! メモリーシェアやってみていい!?」
「一日一回が目安だそうだから、今日やったら明日のこの時間までできないぞ」
「うん、いい! ここまで来た様子を知りたい!」
ドッペルゲンガーも同じ気持ちのようで、見た目は私、中身は息子が、うんうんとしきりに頷いている。私は苦笑いしながら、メモリーシェア用のヘッドギアを二人に装着してやった。航は私よりも頭が小さいので、端子がなにもないあたりにタオルを詰めて調節した。
「へー、VRゴーグルみたいに見えるのかな。わ、高い、広い! お父さんはいつもこんな風に見えるんだ!」
さっそく航がはしゃぎ始める。
「わあー、電車! 椅子は意外とフカフカしてるんだね」
「歩くのって早いなあ、車いすより早いなあ、当たり前かあ」
数分して、メモリーシェアは完了した。航は興奮した様子でヘッドギアを外し、すごかった! と何度も繰り返した。
「航、静かにしなさい、他のお友達もいるだろう」
「へへ、そうだった。ちょっと縦に揺れるもんなんだね、みんな気にならないの?」
「歩くときか?」
「うん」
「そうだなあ、言われてみれば揺れるなあ。もうずっとそうだから全然気にしていないなあ」
「そうなんだあ!」
声を潜めて、だが満面の笑みを浮かべて、航はうんうんと頷いた。その横で、ドッペルゲンガーも同じような顔で頷いている。私の顔が息子と同じ幼い表情をしているというのは、何とも言い表しがたい違和感があるが、それもこれも息子が喜んでくれるのならばどうでもいいことだ。
「ありがとう、お父さん、ありがとう!」
「レンタル返却まで、お父さんも仕事休みにしたからな。いろんなところに行こう」
「うん、楽しみ!」
息子の頭を撫でてやり、面会時間が過ぎたので、私は私と一緒に帰宅した。明日から一週間、息子と妻と外出。日帰りだが小旅行のようなものもする。息子の体調や時間を気にせず出かけられるレジャーは何年ぶりだろうか。しかも息子も一緒にそれを楽しむことができる。何の罪悪感や心配事もなく、心の底から楽しむことが出来る。何のことはない、息子のドッペルゲンガーが欲しかったのは私自身だったのかもしれない。晩酌をしながら妻にそう呟くと、私もよ、と妻は微笑み返した。
外出と日帰り旅行の行き先は、すべて息子のリクエストだ。まず最初は思いっきり運動してみたいとのことだったので、少し郊外のアスレチックにやって来た。小学校高学年くらいから、大人まで楽しめる、かなり本格的なアスレチックだ。そこに、平日の昼間から、中年男性二人がふうふう言いながら取り組むのだ、ちょっと異様な光景だった。
「これ、みんなこんなキツいの!?」
「いや……運動、不足の、お父さんがモデルに、なってる、から……」
「そうなんだ! キッツいね!」
ネットの途中で四苦八苦しているおっさんたちを見て、日頃からもっと運動した方がいいわよ、と妻は遊具の下でケラケラと笑っていた。
続いて翌日は、映画。大きなスクリーンで見るのは初めてだ。流行りのアニメ映画と、SF大作を続けてみた。食事機能も付けたので、ポップコーンやチュロスといった映画ならではのお菓子も満喫している。
「映画館だと低音が響くってこういうことだったんだね! おしりがビリビリする!」
確かにそうかもしれない。その感覚はメモリーシェアで航本人にも伝わったようで、おしりビリビリ! と笑い転げていた。
その後、バスで遠出して海へ。防水機能はついているが季節外れなので、波打ち際で戯れるのに留める。スポーツ観戦に、動物園、遊園地。山登り、ゲームセンター、あちこち行って、あっという間に一週間が過ぎていった。航本人はずっと病院のベッドで過ごしているのは変わらないのだが、ドッペルゲンガーが体験したことをメモリーシェアする度に、嬉しそうに顔を輝かせ、感想を矢継ぎ早に話し、日記や絵に書き記すのだった。
「楽しいなあ、楽しいなあ。はやく大人になって手術したいなあ。あと何年先かなあ」
ドッペルゲンガーの方の航は、よくそう呟いていた。その度に、もうすぐだよ、と私と妻で励ました。妻はドッペルゲンガーの航が寝てから、私がちゃんと五体満足に産んであげられれば、毎日こんな感じだったのかしらね、とこぼした。五体満足については、障害が発覚した頃に妻は何度も自分を責め、私はお前の責任ではないと言い続け、二人で乗り越えてきた。しかし、妻も航も、私も、本当は、心の奥底で、こちらが本当の航だったら、と願わずにはいられなかった。だが、三人、いや四人とも、それを口にする勇気はなかった。口にしてしまうと、ドッペルゲンガーを返却してから、日々を乗り越えていく気力がなくなってしまうような気がしたのだ。
今日はもう、ドッペルゲンガーを返却する最終日だ。私たちは近海周遊クルーズに乗って、美味しい食事を食べ、夕方ごろ病室に戻ってきた。航はこの日は朝からうとうとまどろんでいるような様子だった。
「航、ただいま。シェアしたら返却だよ」
「うーん……」
妻が声をかけるも、航は起きようとしなかった。熱があるのかな、と妻が航の額に手を当てるが、そういうわけではなさそうだ。念のため看護士に今日の様子を尋ねてみたが、眠そうな様子で、それ以外に数値に大きな変化は見られない、とのことだった。
「航、起きなさい。具合が悪いの?」
「んー、あれ……?」
私も声をかけると、航は少し顔を上げた。とろんとした眼差しで私を見て、妻と、ドッペルゲンガーを見ると、あやふやな表情で微笑んだ。
「病気の方の僕だあ。早く寝て、元気な方に戻らなきゃあ」
幸福そうな顔で、また目を閉じて、すうすうと寝息を立ててしまう。私達三人は顔を見合わせたが、誰も言葉を発することが出来なかった。眠る航を見下ろして、私はもう一度息子に声をかけ、揺り動かしてみる。
「航? 大丈夫か?」
返答はなく、眠ってしまっているようだ。メモリーシェアしているだけとはいえ、連日イベント続きで疲れたのだろうか。念のためナースコールして様子を見てもらったが、同じく眠っている、という回答だった。これが株式会社ドッペルゲンガーで危惧されていた影響というやつかな。健康な人間だって、ずっとデスクワークで頭を使うと疲労がたまる。そういった類のものなのだろう。ドッペルゲンガーは今日が返却期日だが、延長させてもらい、明日航が目を覚ましたら、シェアをして、それから返却しよう。そう考え、その日はまた三人で帰宅し、昨日の延長のように過ごした。
次の日になっても、航は目を覚ましていなかった。
面会時間が開始してすぐに訪ねたのだが、航は微笑んだような表情でぐうぐうと眠りこけていた。看護士に夜の様子を尋ねると、一度ナースコールがあったが、寝ぼけていたのか、夢がどうの、ととりとめのないことを呟いているだけだったらしい。数値に異常はなく、すぐにまた寝入ったそうだ。朝も目を覚まさず朝食を食べていないので、様子を見ているとのことだった。
「航。おーい。起きなさい」
昨日と同じようにゆすってみるが、やはり起きない。困ったね、と妻とドッペルゲンガーと話していると、航の主治医が、白髪頭の男性と、眼鏡をかけた中年の男性を連れて、航のベッドまでやって来た。
「おはようございます、橋本さん。航くんのことでちょっとお伺いしたい事がありまして」
「はい、ずっと寝ていると聞きました、ちょっと疲れさせてしまったようで」
「疲れさせたとは、何をなさったんですか?」
主治医はやって来た三人の中で一番若い男だが、一番きつい眼差しで私と航を──ベッドで眠っている航と、私の横でまごついているドッペルゲンガーの航を見比べた。
「そちらの、橋本さんにそっくりなのは、橋本さんのドッペルゲンガーというやつなのでしょうか」
医師の詰問は鋭い。
私は観念して、しどろもどろに説明をした。航がドッペルゲンガーが欲しいと言ったこと。子供ではドッペルゲンガーを作れないので、私のドッペルゲンガーを作ることにして、アンケートだけ航が答えたこと。うまくメモリーシェアできた様子だったので、この一週間、毎日一回、シェアを実施していたこと。話していくにつれ、主治医の顔はみるみる険しくなり、よくいう般若のような表情になった。対する白髪頭はどこか冷めた表情。もう一人の眼鏡の男はオロオロしながら主治医と私を見比べている。
「……あの、先生、こちらの方たちは?」
「自分は、航くんに治験をお願いしているミライクル製薬、営業の鮫島でございます。航くんの様子が変だと先生からご連絡いただきまして、お見舞いに参りました」
「さめじまさん……」
先にぱっと頭を下げたのは、中年眼鏡の方だ。ミライクル製薬の名前は覚えていた。航のためにもなって、同じ症状の子が多く救えるのならと治験を了承していたのだ。担当は別の人だったような気がするが、変わったのだろうか。もう一人、白髪頭の男は、値踏みするような目で私を見据えてから、わざとらしく深々と頭を下げた。
「……私は株式会社ドッペルゲンガーの社長、榑屋敷でございます。この度は弊社製品をご利用いただきありがとうございます」
「くれやしきさん……」
株式会社ドッペルゲンガーの社長が、一体なぜここに? 私が首を傾げていると、怒気もあらわに、主治医が言葉を続けた。
「僕が榑屋敷さんをお呼びいたしました、ドッペルゲンガーのことでご相談したい事があると会社に連絡しましたら、社長自らお越しいただきました。航くんは、度重なるドッペルゲンガーとのメモリーシェアで、自我が混乱している状態と思われます。精神科や心理学の領域で、僕は専門外です」
「じ、自我が混乱とは?」
「一般論になりますが、子供は、賢そうな、大人顔負けのことを言っても、まだその人格は形成途中です。簡単に他者や外部からの影響を受けて変化していきますし、自分と他人の区別も、自我という観点から見ると未発達です。その状態で、自分とは全然違うドッペルゲンガーとメモリーシェアしたので、どこからが自分で、どこからがドッペルゲンガーか、分からなくなってしまったのです」
「え……?」
「どうして禁止されていることを隠れてやったりしたんです!」
主治医は言葉を荒げ、私は思わず身をすくめながらドッペルゲンガーの航の方を見る。私にそっくりな航も、同じように困惑した顔をしていたが、ぼくはそこで寝てるぼくとは違うよ、とか細い声でつぶやいた。それはそうでしょう、と榑屋敷さんがゆっくりと頷く。
「おそらく、航くんは、ずっとドッペルゲンガーの方になりたいのでしょう。ご両親の前でこんな言葉は恐縮ですが、病弱な身体ではなく、自由のきくアンドロイドの身体をずっと使いたいと考えたのです」
「そんな……」
「航……!」
妻が口元を手で押さえ、その場に座り込んだ。ぎゅっと閉じた瞼から涙がにじみ、頬を伝っていく。私は呆然とベッドで眠っている航、主治医、榑屋敷さん、そしてドッペルゲンガーの航を見比べる。主治医はそんな私を見て、更にイラついた様子で言葉を続けた。
「現在航くんに投与している薬は、治験のものも含めて、こうした副作用が起こり得るものはありません。みなさんがいらっしゃる前に脳波の測定もしましたが、一般的な睡眠時の脳波と同様のものでした。ほぼドッペルゲンガーによるメモリーシェアの影響とみて間違いないかと思われます」
話に追いつけない私の横で、鮫島さんが、治験の薬は継続するのか、と主治医に質問している。主治医は問題ないと答え、鮫島さんは安心したようにため息をついた。私はため息どころではない。誰も喋らなくなったので、またおそるおそる口を開いた。
「それで──航は、どうしたらいいのでしょうか」
「さあ、目が覚めるのを待つしかないのじゃないでしょうか」
主治医の怒りの言葉はトゲトゲと尖っている。声もなく泣き続ける妻、その横で呆然と立ち尽くしているドッペルゲンガー。どうしてこんなことになってしまったんだ、私はただ航を喜ばせたかっただけなのに。私も呆然としていると、榑屋敷さんが、推測ですが、と口を開いた。
「メモリーシェアすれば、航くんは目を覚ますと思われます」
「本当ですか!?」
「はい。ただし、それは初期化し、レンタル開始時点に戻したドッペルゲンガーと実施していただくことになります」
「初期化……?」
榑屋敷さんは、眠り続ける航をじっと見つめながら頷いた。
「ここ数日、ドッペルゲンガーとして過ごした記憶を消すといえば伝わりますでしょうか。記憶の遡及は健常な大人でしたらエラーとなりますが、航くんのように不安定な状態なら成功するかと思われます」
幸せそうな、嬉しそうな微笑みを浮かべながら眠り続ける航。
不安げな、怯えたような眼差しで、皆を見比べているドッペルゲンガーの航。
「ドッペルゲンガーとして活動する前なら、ドッペルゲンガーになりたいとも思わないでしょう。そうすれば、眠る理由もないのですから、目覚めるのではないかと思われます」
「そ……それは、ぼくの楽しかった記憶を、なしにするってこと?」
「そうなりますね」
ドッペルゲンガーの航が、ぽかんと口を開けて、言葉に詰まる。
「じゃあ、ぼく、消えちゃうの?」
「航……」
妻が、涙をぬぐうのも忘れて、私そっくりのドッペルゲンガーを抱き寄せた。
怒りの表情の主治医。我関せずの製薬会社の営業。淡々とした、不気味にも思える表情の、株式会社ドッペルゲンガーの社長。全員が、私が次の言葉を発するのを待っている。
航。
お前、ドッペルゲンガーと比べて、この身体がどんなに辛いのか、知ってしまったんだな。
五体満足で、自由なら、人生はどんなにか楽しく美しいのか、知ってしまったんだな。
私は、健気に頑張るお前に、なんと残酷なことをしてしまったのだろう。
「ごめん……ごめんな、航……」
「メモリーシェアなさいますか?」
「……はい、ですが」
私の頬を、涙の粒がいくつもぼたぼたと転がり落ちた。
「今の航を、今の航のドッペルゲンガーで、シェアしてやってください」
「……私のお話をご理解していただけていますか?」
「はい、そのつもりです」
私は眠る航の髪をそっと撫でてやる。子供らしい、柔らかな髪質が私の指先をくすぐる。
「この子は、いつか自分が健康になった時のことを知りたいと言っていました。そのためなら何でも我慢すると。ドッペルゲンガーとの記憶を消しても、その時の想いまではきっと消えないでしょう」
「あなた……」
「負担を軽視して、独断でこんなことをしてしまったのは、私の責任です。このまま目が覚めることは、以前よりずっと辛いことなのかもしれません。けれど、ずっと辛い思いをしているこの子から、楽しい記憶を取り上げる権利が、私にあるのでしょうか。幸いこの子は、将来本当に健康になれる可能性がある。あり得ない夢ではなく、ちょっと未来を先取りしただけです。元に戻っても、きっと立ち直って、頑張ってくれるでしょう。私は、航が立ち直れるまで、横で励まし続けなければいけないと思います。それが親というものではないでしょうか」
「お父さん……」
妻が、ドッペルゲンガーが、泣きじゃくる私の背中をさすってくれた。榑屋敷さんは特に気を悪くした様子もなく、左様ですか、と呟いた。
「お客様の意思を尊重させていただきます」
「ありがとうございます」
営業の鮫島さんは、安心した様子ですぐに帰っていった。主治医と榑屋敷さんが立ち合いのもと、航とドッペルゲンガーの最後のメモリーシェアを行う。ドッペルゲンガーはずっと私の横にいたので、先ほどの私の言葉も眠る航に伝わる筈だ。だからきっと航は目覚めてくれる。シェアが終わると、航はゆっくり目を開いた。私たちが顔を覗き込んでいるのを見ると、恥ずかしそうに横を向く。おはよう、と私が声をかけると、うん、と返事が返ってきた。
「ぼく……ちょっと、このままでもいいかな、って、思ってた……」
ころころと、転がり落ちる、涙の粒。
「ずっと、注射、嫌だったんだ……」
「ごめんな、航……」
「ごめんなさい、航……」
私と妻は、泣きじゃくる航の手を握って、腕や足をさすってやるしか出来なかった。
メモリーシェアが終わったドッペルゲンガーは、榑屋敷が帰社するのに伴い、一緒に引き取られていくこととなった。慇懃な物腰で退席の挨拶をし、病院の駐車場に止めていた社用車に乗り込む。専属の運転手の運転で車は発進し、ドッペルゲンガーは物珍しそうに車内と車窓を見回していたが、ふと榑屋敷の顔を見て、首を傾げた。
「社長さん、ちょっと嬉しそうだね?」
「そう見えますか?」
「うん、見えるよ、笑ってる」
榑屋敷はふむ、と頷きながら、笑みを隠すように自分の顎に触れた。
「笑っていましたか」
「うん、なんかいいことあったの?」
「ありましたとも」
男は目を細めて、目の前の自社製品をじっくりと見つめる。
「とても希少なサンプルを手に入れることが出来ましたからね」
「ふーん?」
ドッペルゲンガーは首を傾げたが、榑屋敷はもうそれ以上言葉を発することはなかった。
専属社有車は二人を乗せ、株式会社ドッペルゲンガーを目指して進んでいった。
❏ライタープロフィール
吉田けい(READING LIFE公認ライター)
1982年生まれ、神奈川県在住。早稲田大学第一文学部卒、会社員を経て早稲田大学商学部商学研究科卒。在宅ワークと育児の傍ら、天狼院READING LIFE編集部ライターズ倶楽部に参加。趣味は歌と占いと庭いじり、ものづくり。得意なことはExcel。苦手なことは片付け。
この記事は、天狼院書店の大人気講座・人生を変えるライティング教室「ライティング・ゼミ」を受講した方が書いたものです。ライティング・ゼミにご参加いただくと記事を投稿いただき、編集部のフィードバックが得られます。チェックをし、Web天狼院書店に掲載レベルを満たしている場合は、Web天狼院書店にアップされます。
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