「あなたのために」の呪縛が取れたら人生楽になった《週刊READING LIFE Vol.65 「あなたのために」》
記事:鹿内智治(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
「あなたのためにずっと我慢してたんだよ!」
私は新卒でシステム開発をする会社に入った。銀行やクレジットカード会社のようにお客さんの大切なお金を管理するシステムを作る会社である。
システムを作り終えるまでには、2、3年とかかる場合もあって、大掛かりである。
関係者も500人以上となることもあった。
そんな大規模な仕事をする会社に入って私は後悔することになる。
なぜなら、新人であっても、容赦のない職場だったからだ。
手順書なんてものはまずない。任されることは誰もやったことがないことばかりだった。
自分のために自分で手順書を作っていく。そんな状況だった。
分からないことがあれば、知っていそうな人を自分から探して聞きにいかねば、仕事にならない。黙ってパソコンの前に居ても何も始まらない。フットワークの軽さが求められた。
打合せに出ると、「とりあえず議事録書いて」と言われる。
議事録を書くとよく分かるが、打合せの経緯や流れや発言者の意図する癖を抑えて参加しないと、発言者の意図を掴めず、ろくな議事録が書けない。
一言一句を議事録に書き起こすことは現実的にムリだし、書き起こせても誰も嬉しくない。要点のみ書いてある議事録を求められる。この要点を得る、というのが新人はとても難しかった。まず単語の意味で詰まる。「ライブラリ管理」「貸付実行」「環境定義ファイル」何を言っているのかさっぱり分からなった。あとで参加者に確認しにいくのだが、教えてもらったところで、分からないことがさらに増える。まるで迷路に迷いこんだ気分になるから、議事録を取るのは嫌いだった。
勝手が分からず、きつい状況は続いたが、数か月もすると、自分の役割も分かってきた。
1週間の流れがつかめてきて、自分はここにいてもいいと思えるようになってきた。
周りの人に、なにを担当している人か認識されるようになると、職場に居場所を感じられるようになり、気持ちも安定してきた。そう思っていると落とし穴が待っているものである。
システム開発のメインイベントのひとつに、「ユーザ確認」というのがある。
これは、プロジェクトの後半に、システムを実際にお客さんに使ってもらって、思い通りの画面になっているか、動きの感じはどうか確認してもらう大切な工程である。
お客さんはシステムに期待している。その理由は、システム導入はお客さんの社運がかかってることが多いからだ。システムを入れるとなると、数億円規模でお金がかかることがある。IT投資と聞いたことはないだろうか。システムは投資なのである。これまでの手作業が大幅に軽減されたり、間違いがなくなったり、人手がいらなくなって経費などを削減できたり。お客さんはさまざまな面で新しいシステムに期待しているのだ。だから、「ユーザ確認」にはお客さんのなかでも偉い人たちが来ることがある。もちろん、こちらも管理職たちが対応する。お互いの信頼を確かめ合う場でもあるのだ。
そんな大切な場面で私はヘマをした。
私は当時、試験用のシステムを起動する担当を担っていた。「ユーザ確認」の日も、いつも通りコマンドを入力して実行した。でも、システムが立ち上がってこない。
どうしたというのだ?
なんどやり直しても、いつもの画面にならない。
「もう自分には手が負えない」
すぐに自分より詳しい人に手当たり次第に声をかけた。
システムの状況をみてもらって、考えるうることを聞いた。
でも、誰も分からなかった。
約束の時間になってしまった。10名ほどお客さんたちが部屋に入ってきた。
しばらく待ってもらうように伝えてもらった。
好きなだけ使ってもらうように言っていたのに。
やばいどうにかしないとマズい。
結局、様子を見に来た上司がスペシャリストを連れてくれた。
システムの状況を見てもらって、様子を見てもらった。
約束の時間を30分以上も過ぎていた。
申し訳なくて、恥ずかしかしくて、その場から逃げ出したかった。
原因が分かった。結局、私が朝作業した手順に誤りがあったせいで、うまく起動されなかった。このとき1時間以上、お客さんを待たせてしまった。楽しみに来ていたお客さんの期待を裏切ったことと、上司の顔をつぶしてしまったことと、エンジニアたちに迷惑をかけてしまったことに申しわけない気持ちでいっぱいだった。
そのとき、上司や、エンジニアの人たちに謝った。泣きたかった。
でも、上司は私を責めなかった。そんな上司にもう迷惑をかけてはいけないと思った。
そのあと私も経験を積み、ひとつのプロジェクトを任された。
10数人規模の小さなプロジェクトである。私がプロジェクトのリーダーである。
リーダーなんて初めてだ。何をしたらいい?
とりあえず、先輩たちの真似をしてみた。
会議に出て、設計書を作り、計画書を書いた。
上司から、「で、これからの予定を作ってよ」と言われた。
初めてプロジェクト全体の予定を作り、チームメンバーに仕事を割り振って、進捗管理をするようになった。お世話になった上司に迷惑をかけてはいけないと思った。絶対に成功させてやるというより、失敗したくないと思った。
プロジェクトは遅れるものである。
納期は迫っていた。やったことのない作業をすると、後からやらねばならないことが分かることがある。加えて、初めての作業には問題がつきものである。
問題が起きれば、対処をして、同じ問題が起きないよう対応策を作り実行せねばならない。問題に対処している間は、予定していた仕事は進められない。
その遅れをカバーするために、残業時間が増えた。リーダーとして、メンバーたちの遅れもカバーしなければならなかった。いつのまにか、終電で帰るのが当たり前になっていた。それほど遅れがひどかった。リーダー失格だ。だから頑張らないと。
それに、上司には迷惑をかけてはいけない。リーダーがどうにかしなければいけない。
終電でも収まらなくなってきた。
土日も出勤するようになっていった。土日は実はとても仕事に集中できるのである。誰にも話しかけられないし、電話がかかってくることもない。とても仕事がはかどった。頑張っているわ、オレ。
食生活もひどくなっていった。
以前は家で妻の手料理を食べていたが、休日問わず遅くまで出勤するようになったせいで、外食ばかりになっていた。松屋、吉野家が毎日の夕食になっていた。味がしっかりしていてご飯を一気にかきこめる。食事に10分もかからない。時間の節約である。セットならばサラダも付いているから、健康には大丈夫と思っていた。これが甘かった。
そんな生活を始めて、数か月したころのこと。
私の体に異変が起き始めた。
いつものように通勤電車に乗っていると、急なお腹が痛み出した。これまで感じた痛みは明らかに違っていた。すぐに次の駅で降りて、ベンチで休んだ。そのとき初めて上司に、「体調不良で遅れる」と連絡を入れた。そのことを伝えることすら悩んだ。初めて、予定通りに出勤できずに申し訳ないと思った。自分はダメな社員だと思った。しばらくベンチで休んでいると痛みがおさまっていった。これなら出勤できると思った。
そんなことが数日続いたある日。私に限界がやってきたのだ。
急行電車に乗ったときのことだった。
座席に座っていると、急に心臓が「バクバクバクバク!」と鼓動が早くなった。
驚いているうちに、座っているのが急に恐くなってきた。すぐに電車から降りたくなった。脂汗も出てきた。指先がしびれてきた。息も苦しくなってきた。
酸素が薄く感じて、外の空気を吸いたくなった。
「とにかく降りたい」
でもあと5分は扉が空かない。急行電車だから。我慢するしかなかった。
人の少ない座席に移動した。火照った顔を冷やし、少しでも外の空気を吸うために、窓を開けた。目をぎゅっとつぶって「早く駅に着け」と思っていた。
駅に着いて、逃げるように降りた。
ベンチに座り「何が起きた?」「あれは何だ?」
あとで知ることになるが、私はこのときに車内でパニック発作を起こしていたのだった。
その日を境に、電車に乗るのが恐くなった。
またあの発作が起こるかと思うととても乗れない。
でも会社には、電車で行くしかない。我慢して乗るより他に方法がなかった。
発作を思い出すと気分が悪くなった。途中下車をしながらの通勤が始まったのだ。
リーダーを務めるプロジェクトの終わりは、残り1カ月に迫っていた。
これだけの時間と熱量を費やしてきたんだ。最後までやりきりたい。
なんとか体にムチを打って出勤した。
私の体調は別で、システムは無事に「ユーザ確認」を終えて、お客さんに「イメージ通りです。ありがとう。」と言ってもらえた。今度はヘマをすることなかった。
数日後、予定どおり、システムをお客さんのもとに納品することができた。
お客さんに喜んでもらえた。
上司からも高い評価をもらえた。
努力が認めてられて、なにより嬉しかった。
でも、本当に私は幸せなのだろうか。
これからどうしていこう。
電車が恐くて乗ることができない。
急行電車はとくに恐くて乗れない。新幹線なんてさらに無理だ。
こんな体で一体どうする。
プロジェクトが落ち着いたこともあり、少し時間があったので、これまでのことを振り返ってみた。
なぜ自分はあんなに仕事をしてしまったんだ?
体調不良を忘れるほど追い込んでしまったんだ?
答えはひとつ、見つかった。
それは、上司を困らせたくなかったから、かもしれないと思った。
以前上司に助けてもったこともあったが、入社当時から、上司に迷惑をかけたくないという思いは人一倍強かったように思う。
上司に気に入られたいのではない。嫌われてくないのだ。嫌われたら、何か大変なことが起きるようで、恐かったのだ。
なぜ、そんなことを無意識に感じていたのか?
その問いに対する答えは、ある本と出合いで、見つかった。
たまたま近所の本屋に入ったときのこと。なんとなく目に留まった本があった。
手にとってみると、帯には、「ストレスから解放される方法」と書いてあった。
原因不明の恐怖から解放されたいと思い、すぐ買って、家で読んでみた。
まえがきにこう書いて、ドキッとした。
「あなたの悩みは親に言えなかったことに起因している」
「たしかに。そうかもしれない」
そのとき、実家で過ごした日々がフラッシュバックのように思い出されたのだった。
「私はあなたのために我慢してたんだよ!」
私は3人姉弟の末っ子。長女、次女、長男(私)の構成である。よく姉たち2人に、なんかにつけていじめられた。
長女は真面目で勉強も頑張る努力家タイプ。次女は少しチャラくあまり成績はよくないが人当たりは良いタイプ。私は姉二人を足して2で割ったようなタイプだった。
次女は中学に上がると、急に親に反抗するようになっていった。
そのせいで、家庭のなかは荒れるようになっていった。
まず、父親が次女の生活での態度や行動を指摘する。
次女は指摘を無視したり、自分の都合の良いことを言ったりした。
それに対して、父親は次女をどなりつける。
次女も大声をあげて反抗する。
母親が止めに入る。
父親は、止めに入った母親に、「お前の育て方が悪いんだ!」とどなる。
近くで聞いてて最悪だと思っていた。
ゆっくりご飯を食べたいのに、親子のバトルが始める。しかもいつも同じ流れで始まる。いい加減にみんな分かれよと思っていた。少しは成長して学んでくれよと思っていた。特に次女に対して、おまえは馬鹿だ、と思っていた。反抗して何の得がある?何もいいことなんてない。なにもメリットがない。反抗すれば父親に嫌われて、おこずかいも減らされて、家のなかもめちゃくちゃになって、悪い事ばかり。何をそんなに反抗したいの?少しは学べよ。成長しろよ。気付けよ。お前のせいで、気分が台無しなんだよ。そう思っていた。
代わりに母親が可哀想でならなかった。何も悪いことをしてないのに、次女をかばっただけで父親から酷いことを言われてしまう。これはおかしい。この原因はすべて次女にある。次女がバカなことをするから悪いんだ。全て次女が悪い。そう思っていた。
そこで、自分だけは、母親を喜ばそうと思った。母親に自分だけは迷惑をかけてはいけないと思った。だから、友達と遊んで遅くなるときは必ず家に電話をした。成績も良い方が喜ぶと思って学校の勉強も頑張った。中学では常に学年で10番以内に入っていた。高校では進学校に入った。母親に喜んでもらいたくて、褒められたくて。そして、母親を困らせたくないから。
なのに、母親は私を全く褒めてくれなかった。
なぜこんながんばって結果も出しているのに。次女よりも母親を喜ばせているのに。
迷惑だって、かけたことなんてなかったのに。「母親のために」頑張ってきたのに、なぜか母親は褒めてくれなかった。
そんな思いが心のすみずっとにあって、この本を読んだときにあふれ出してきたのだ。
その本には、さらに、こう書いてあった。
「本当に言いたかったことは、面と向かって親に言うこと。そしたら肩の荷が下ります」
そんなの無理だと思った。母親に「あなたのために言いたいことを我慢していた」なんていまさら言えない。褒められたかったなんて、30歳の自分が言えることではない。だって、恥ずかしすぎる。無理だ。でも、当時はもう会社を辞めようと考えていた。原因不明の発作が恐くてどうしようもない状況だった。できれば、会社は辞めたくはない。普通の体調に戻りたい。気にしている場合ではなかった。この本に書いてあることを全てやろうと思った。
母親に直接言うために、いくつか手順を終わらせた。
そして、母親に実家に帰ることを伝えて、泊まることも伝えた。
夜ならば、母親と二人だけになれるから。
実家に帰った日の夜。
夕食を終えて、早めに風呂をすませた父はすでに寝室にいた。
リビングには私と母親の二人だけになった。
言うときだ。
「もっと褒めてほしかった」
そう言うだけだ。
でも母親を目の前にすると言葉が出てこない。
母親に申し訳なくて、困らせてしまうんじゃないかと思って、迷惑がかかるんじゃないかと思って。それに今までまともに反抗したことなんてなかった。もう恥ずかしい。言っても意味ないんじゃないかと思えて、逃げ出したかった。言おうとすると唇が震えた。
何しに実家に来たんだと思った。
言うためにここに来たんだ。きっとこれが人生のターニングポイントになると思った。母親に対する見えないバリアを壊せれば、なんか別の感覚が待っているかもしれないと思った。言ったら、何かが変わると思った。言え。言うんだ!
「あのさ…」
「なに?」
鼓動が早くなり、震えが大きくなった。
「なんで小さいころ、もっとオレに褒めてくれなかったの?」
止めていた思いが言葉になって溢れた。
「姉弟のなかで一番勉強できたのになんで褒めてくれなかったの?」
「我慢していたの、分からなかった?」
「お母さんが可哀想だったから」
「お母さんのために我慢してたんだよ」
「本当は言いたかったよ、嫌だって!」
涙が出た。
心臓のあたりが震えた。
何に泣いているのかよく分からなかったが、とにかく涙が出た。
何を言ったかはもう思い出せないが、ひとりしきり言い終えたときに思った。
きっと、母親は私に「ごめんね」と謝るだろうと。これだけ我が子を苦しめたのだから当然だろう。でも、母親の反応は違った。
「あなたが我慢したなんて、分かるわけない!」
「育てやすい子だと思ってたわよ!」
「いまさら言われたってどうしようもできないわよ!」
「え! 受け止めてくれないの?」
ショックだった。まさか反論されるとは思わなかった。何も言い返せなかった。
涙を拭きながら思った。母親も普通の人間だ、仕方ないと。
母親の反応は予想外だったが、でも、そんな反応どうでも良くなっていた。
「言えた! 母親にちゃんと反抗できた!」
自分ができないと思っていたことが言えて達成感に満ちていた。
自分が今まで我慢していたことを言えてスッキリしたのだった。
その日からしばらくして、人間関係で不思議なことが起き出した。
上司に対してあれだけ、遠慮していたのに、気軽に相談できるようになっていた。
相談することが恐くなくなっていたのだ。加えて、上司に悪い報告することにビクビクしていたが、恐がらずにできるようになっていた。さらに、これまで素直な気持ちを人前で言うのが恥ずかしかったが、遠慮なく言えるようになっていたのだ。
「え、これはあのとき、母親に言ったおかげ?」
あの日をさかえに、私についていた亡霊が取れたようだった。
仕事でのストレスが以前よりもなくなり、働きやすくなっていったのだ。
気づくと発作も出なくなり、発作の恐さも薄くなっていったのだ。
母親に本音をぶつけたら、人生がみるみる良くなっていったのだった。
あれだけで勇気出したことだったが、もう母親は忘れてしまっていた。
母親の記憶はなんて都合がいいのだろうか。
「あなたのため」の呪縛が取れたら人生が良くなった。
◽︎鹿内智治(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
東京都在住。明治大学卒。妻と息子と3人暮らし。
この記事は、天狼院書店の大人気講座・人生を変えるライティング教室「ライティング・ゼミ」を受講した方が書いたものです。ライティング・ゼミにご参加いただくと記事を投稿いただき、編集部のフィードバックが得られます。チェックをし、Web天狼院書店に掲載レベルを満たしている場合は、Web天狼院書店にアップされます。
http://tenro-in.com/event/103274