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発達障害の大学生が「時計を見なくてもいい場所」で笑った日《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》


2025/12/1/公開

 

記事:内山遼太(READING LIFE公認ライター)

 

※一部フィクションを含みます。

 

いつも時計を見ていた。

講義も、昼食も、バイトの時間も——すべてが”遅れないように”で埋め尽くされていた。

そんな彼が、ある日、腕時計を外してカフェの椅子に座った。

壁の時計を気にせず、ゆっくりとコーヒーを飲んだ。

「ここ、時間が止まってるみたいで落ち着くんです」

そう言って笑った彼の顔は、初めて”自由”の表情をしていた。

——

 

彼がセッションルームに来た日のことを、私は今でもよく覚えている。

 

ドアを開けた瞬間、彼の視線は壁の時計に向かった。一瞬の確認。それから私に会釈。そしてまた、時計。座る前にもう一度、時計。椅子に座ってからも、無意識のうちに腕時計を見る。まるで呼吸をするように、彼は”時間”を確認し続けていた。

 

「遅刻しないように来ました」

 

開口一番、彼はそう言った。約束の時刻より15分も早かったにもかかわらず、だ。

 

彼は大学2年生。ADHD(注意欠如・多動症)の診断を受けたのは高校3年の冬だった。それまで「努力が足りない」「やる気がない」と言われ続けてきた彼にとって、診断名は救いでもあり、新たな重荷でもあった。「できない自分」に名前がついた。だからこそ、彼は「できるようにならなければ」と自分を追い込んでいった。

 

彼の一日は、時計との戦いだった。

 

朝7時、スマホのアラーム3つ。7時10分、起床確認アラーム。7時半、家を出る時間アラーム。電車の中でも、到着予定時刻を何度も確認する。講義中は、終了時刻まであと何分かを計算し続ける。昼休みには、次の講義開始時刻までのカウントダウン。バイトのシフトは、1分単位で頭に入れている。

 

「遅刻したら、信用を失う。みんなに迷惑をかける。だから、絶対に遅れられないんです」

 

彼の言葉には、強い緊張が張り付いていた。

 

この「時間への過剰意識」は、ADHD傾向を持つ人によく見られる特徴のひとつだ。時間感覚のズレや、計画実行の困難さを自覚しているからこそ、その代償として”過剰な監視”が生まれる。時計を見続けることで、失敗を防ごうとする。しかしその緊張は、心身を消耗させていく。

 

実際、彼は慢性的な頭痛と肩こりに悩まされていた。夜も、翌日の予定が頭をめぐって眠れない。睡眠不足が集中力を奪い、それがまた「時間に遅れる不安」を強化する。悪循環だった。

 

「自分は、時計がないと生きていけないんです」

 

彼は、そう言った。それは諦めにも似た、静かな宣言だった。

 

 

 

ある日のセッションで、私は彼に尋ねた。

 

「もし、時計を見ないで過ごせる時間があったら、どんな気持ちになると思いますか?」

 

彼は少し考えて、首を横に振った。

 

「想像できないです。たぶん、不安で何もできなくなると思います」

 

「では、試してみませんか? ほんの少しだけ」

 

それが、「時計を外す」実験の始まりだった。

 

作業療法では、しばしば”あえて”何かを手放す体験を提案する。それは、失うことではなく、”別の感覚”を取り戻すためのプロセスだ。彼の場合、時計という安全装置を一時的に外すことで、「自分自身の内的リズム」に気づく可能性があった。

 

最初の課題は、セッションルーム内で過ごす30分間、時計を見ないこと。

 

「腕時計を外して、カバンにしまいましょう。部屋の時計も、布で隠しますね」

 

彼は戸惑った表情で腕時計を外した。その瞬間、彼の手が少し震えているのが見えた。

 

「何をすればいいんですか?」

 

「好きなことを。絵を描いてもいいし、粘土に触れてもいい。何もしなくてもいいです」

 

彼は迷いながら、水彩絵の具のセットを手に取った。それから、白い紙の前に座った。しかし、筆は動かなかった。彼の視線は、何度も布で覆われた壁時計の方へ向いた。

 

「今、何時くらいですかね……」

 

「気になりますか?」

 

「すごく気になります。次の講義に間に合うか不安で」

 

「大丈夫です。私が時間を見ています。ちゃんと間に合うようにお伝えしますね」

 

その言葉で、彼の肩が少しだけ下がった。

 

そして彼は、ゆっくりと筆を水につけた。青い絵の具を溶かし、紙の上に線を引いた。一本、また一本。特に何を描くわけでもなく、ただ筆を動かしていた。

 

時間の感覚が、少しずつ変わっていった。

 

最初の10分は、落ち着かなかった。しかしその後、彼は絵の具の色の混ざり方や、筆の感触に意識が向き始めた。紙に水が広がる様子を、じっと見つめていた。そして、ふと顔を上げたとき、彼は言った。

 

「あれ……もう終わりですか?」

 

「そうです。30分経ちました」

 

「え、もう? 全然気づかなかった……」

 

その瞬間、彼の表情が変わった。驚きと、少しの安堵が混じった表情。それは、”時間に追われない自分”を初めて体験した顔だった。

 

次のステップは、外の世界で試すこと。

 

私たちは、大学近くの小さなカフェに行った。そこは学生で賑わうチェーン店ではなく、静かな個人経営の喫茶店だった。壁には古い振り子時計があったが、あえてそれが見えない席に座った。

 

「ここで、1時間、時計を見ずに過ごしてみましょう」

 

彼は不安そうだったが、腕時計を外し、スマホもカバンにしまった。

 

最初に運ばれてきたコーヒーを、彼はゆっくりと口に運んだ。いつもなら、5分で飲み干して次の予定に向かうところだった。しかし今日は違った。カップの温かさ、コーヒーの香り、窓から差し込む午後の光——ひとつひとつを、味わうように感じていた。

 

「ここ、時間が止まってるみたいで落ち着くんです」

 

彼は、そう言って笑った。

 

それは、私が彼から初めて見た、心からの笑顔だった。緊張でこわばっていた表情が、柔らかくほどけていた。彼の中で、何かが変わり始めていた。

 

 

 

あれから3ヶ月が経った。

 

彼は今も、時計を持ち歩いている。約束の時間は守るし、スケジュールも管理している。でも、以前とは違う。

 

「時計を見るのは、必要なときだけでいいって気づいたんです」

 

彼は言う。

 

「ずっと、時計に支配されてた気がします。時間を確認することが目的になってて、何のために生きてるのかわからなくなってた」

 

発達障害支援の本質は、「できないことをできるようにする」ことではない。それは「安心して生きられる環境と感覚を取り戻す」ことだ。

 

彼にとって、時計は”道具”だった。しかし、いつの間にかそれは”檻”になっていた。時間に追われ、自分自身を見失っていた。作業療法が目指したのは、その檻から彼を解放することだった。

 

「時計を見ない」という体験は、単なる不安への曝露療法ではない。それは、「自分自身のリズムを感じ取る」という感覚の再起動だった。

 

人間には、本来、内的な時間感覚がある。空腹や疲労、興味の持続、集中の波——それらは、外側の時計ではなく、自分の身体と心が教えてくれる。しかし、外的な時間に過剰適応していると、その内的な声が聞こえなくなる。

 

彼が取り戻したのは、「自分の時間」だった。

 

時計を外したあの日、彼は初めて「今、この瞬間」に存在することができた。コーヒーの温かさ、光の柔らかさ、静けさ——それらは、時間に追われている間は見えなかったものだった。

 

そして、その「今」を味わえる自分を、彼は取り戻した。

 

今、彼は週に一度、あのカフェに通っている。時計を外して、ただコーヒーを飲む。何も生産的なことはしない。誰にも会わない。ただ、そこにいる。

 

「ここが、自分の再起動スイッチなんです」

 

彼はそう言った。

 

発達障害を持つということは、社会の”普通のリズム”に合わせることが難しいということでもある。でもそれは、自分自身のリズムが間違っているということではない。

 

大切なのは、「社会のリズムに従うこと」と「自分のリズムを生きること」のバランスを見つけることだ。

 

時計を見なくてもいい場所——それは、物理的な場所だけを指すのではない。それは、「自分を許せる時間」のことだ。

 

遅れてもいい。焦らなくてもいい。今、ここにいる自分を、ただ感じていい。

 

そんな時間を持つことが、彼にとっての「生きる力」になった。

 

作業療法士として、私が目指しているのは、クライアントに「できること」を増やすことではない。それは、「自分らしく生きられる感覚」を取り戻す手伝いをすることだ。

 

彼が笑ったあの瞬間、私は確信した。

 

心と身体の再起動は、何か大きなことを成し遂げることではない。それは、「時計を外して、コーヒーを飲む」ような、小さくて静かな営みの中にある。

 

そして、その小さな一歩が、人生を変えていく。

 

今日も、どこかのカフェで、彼は時計を外している。

 

そして、静かに笑っている。

 

それが、彼の”再起動スイッチ”だ。

 

 

※本文における用語の定義

 

停電: 心身の機能が一時的に失われ、感じる・考える・動くといった活動が停止している状態。統合失調症においては、幻聴への恐怖から「声を出す」という基本的なコミュニケーション機能が遮断され、世界とのつながりが断たれた状態を指す。

 

再起動: 停電していた心身の機能が、少しずつ回復し始める過程。完全な回復ではなく、音を出すことから始まり、声を出し、言葉を発するという段階的な変化を通じて、コミュニケーション能力が徐々に戻ってくる過程を意味する。

 

❏ライタープロフィール

内山遼太(READING LIFE公認ライター)

千葉県香取市出身。現在は東京都八王子市在住。

作業療法士。終末期ケア病院・デイサービス・訪問リハビリで「その人らしい生き方」に寄り添う支援を続けている。

終末期上級ケア専門士・認知症ケア専門士。新人療法士向けのセミナー講師としても活動中。

現場で出会う「もう一度◯◯したい」という声を言葉にするライター。

2025年8月より『週刊READING LIFE』にて《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》連載開始。

 

 

 

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