胸やけは、ゼンさんからの健康便り〜体に感謝「ありがとう」〜
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:ホーリープラネットえいこ(ライティング・ゼミ2025年11月開講)
※この記事はフィクションです。
「ただいま〜」
マンションの玄関を開けると、キジトラ猫の「リス」がニャーと鳴いて、足元に鼻先をこすりつけてきた。私はその小さな額を撫でながら、靴を脱ぐ。
「今日も、お留守番ありがとうね。外は、木枯らしが吹いているよ。今年のクリスマスは、ホワイトクリスマスかな」
私は森家光子、67歳。クリスマスで68になる。 近所のビジネスホテルで、フロントの仕事をしている。夫が体調を崩して入院したのを機に、「私も働こう」と決めたのが4年前の誕生日だった。家から徒歩5分。年齢不問の求人広告に背中を押されて面接に行くと、支配人が言った。
「フロントは文字を書く仕事も多いんです。若い人より、落ち着いた方が向いていますよ」
そうして私は、週3回から働き始めた。 元気だけが取り柄の私の老後は、もっと遠い先のことだと、漠然と考えていた。
〜ムカムカをともなう朝の目覚め〜
ナイト業務の翌朝、胸のあたりの不快感で目が覚めた。
「ムカムカ……また、今日もだわ」
昨夜は忘年会のお客様対応で大忙し。勤務が終わったのは日付が変わる少し前で、帰宅したら24時を過ぎていた。
フロントに立つと、“仕事の顔”に切り替わる。チェックインの列、鳴り止まない電話、鍵のトラブル。私は笑顔のまま頭の中で段取りを組み直す。胸の奥がきゅっと固くなるのがわかる。でも、それを誰にも見せない。
玄関でリスに迎えられ、私はリスに話しかける。
「リスちゃん、お腹ぺこぺこだよね。私もお腹ぺこぺこだわ」
冷蔵庫をのぞくと、ピザに唐揚げ、昨日の余り物のお惣菜。私はそれらを勢いよく胃に流し込み、罪悪感とともにそのままベッドに倒れ込んだ。
——その結果が、今朝のムカムカだ。
お客様には最高の笑顔とサービスを渡しているのに、自分の胃腸へのサービスは後回し。最近続く胸やけは、胃腸からの切実な訴え、すなわち「体との対話」を求める声なのかもしれない。
〜腸内ミクロ会議の様子〜
私の体の中は、目に見えない“にぎやかな町”だ。
その町内では、何兆もの菌たちが走り回っている。
「緊急事態だ! 門番は踏みとどまれ。今、胃酸が『リバース侵攻』を仕掛けてきた!」
冷静なゼン(善玉菌)が叫ぶ。 胃と食道の境目の“門”が、疲れと緊張でゆるんでいる。制御を失った胃酸が逆流して、食道という「平和な道」を荒らしていく。 そこへ短気なアク(悪玉菌)が笑う。
「っしゃ! 大チャンスだぜ! 宿主が『疲弊モード』に入ったら、俺らの『増殖バフ』がかかるからな!」
ヒヨリミ(日和見菌)たちは右往左往しながら、ゼンにそっと尋ねた。
「ゼンさん、ヤバくないですか? 宿主さん、深夜飯続きで完全に『ブラック勤務』ですよ。」
ゼンは一瞬、黙ってから言った。
「門番は完全に『キャパオーバー』だ。この『胸やけアラート』を、光子さんに届けるしかない。対話だ。どうか、この体の声に耳を傾けてくれ……」
その声は、私の体の奥のどこかで、確かに響いていた。
〜体からの「健康便り」〜
「胃の門番さんが、もう限界だよって教えてくれてるのね……」
私は胸のあたりに手を当て、静かに息を吐いた。
胸やけは、体という大切な住処の管理人である私に届いた「健康便り」だったのだ。
夢うつつの中で、便りの文章が浮かぶ。
『光子さま。あなたは本当に頑張っていらっしゃいます。
ですが疲労と緊張が続くと、私たちは力を発揮できません。
どうか、体をねぎらう時間と、胃腸にやさしい食べ方をしてください。
腸内細菌代表 ゼンより』
そして、便りには追伸があった。
『追伸。今夜から、できるところだけでいいので、ご協力をお願いします。
①夜食は「温かいもの一杯」にしてみてください。
②口に入れたら、よく噛んで「急がない食べ方」をしましょう。
③眠る前に、深呼吸を3回。門番が喜びます』
……あれ、私、二度寝していた?
時計を見ると午前10時を過ぎていた。
今日の勤務は17時から。
「今日は、胃腸のお休みの日にしよう」
私は熱い琵琶茶に梅干しと生姜を入れ、ゆっくり飲んだ。
膝のうえで、リスがゴロゴロと喉を鳴らしている。
胸のムカムカが、すこしだけ和らぐ。
その“和らぎ”は、体の奥にも伝わった気がした。
「酸の波が、引いたぞ」
門番の肩から、ふっと力が抜ける。
ゼンが静かにうなずくのが見えた。アクは舌打ちして、少し遠くへ退く。
そして私は思いつく。
フロントの立ち仕事の最中、60分ごとに3回、深呼吸をしてみることにした。 それは門番に向けた、私からの“やさしい語りかけ”になるだろう。
〜食卓を戻す、という小さな革命〜
出勤前、私は小さなおにぎりを一つ握った。
具は梅。あれこれ足さない。急がず、よく噛む。 ゼンさんからの「健康便り」の追伸を思い出す。
勤務中、私はこっそり“深呼吸タイム”を挟む。 電話を切ったあと。お客様をお見送りしたあと。 ゆっくり息を吸って、細く長く吐く。たったそれだけで、胸の奥の固さが少しゆるむ。
帰宅したのは深夜だった。リスが私の足元にそっと寄ってくる。
「ただいま。今日はね……。お味噌汁だけにするね」
温かい汁物を、ゆっくり、味わいながら飲む。 いつもより、ゆったりとぬるめの湯船に浸かりながら、深呼吸を3回して、今日一日、元気に働いてくれた体をやさしく撫でた。そして、お腹の中の門番さんに「今日もありがとう」と小さくささやいた。
〜希望の光が灯る朝〜
翌朝。ベランダが白む前に、私は台所に立った。 足元ではリスがニャーニャー鳴いている。
「お腹へったよ〜」
と言っているみたいだ。
冷蔵庫から大根を取り出す。薄切りにして、わかめと麩を添えて味噌汁に。
それから、おかゆを炊く。
湯気の立つお椀を前に、私は小さく決意した。
「誕生日からは、体想いの食卓に戻ろう。忙しい日も、味噌汁とご飯の時間は大切にしよう」
クリスマスには、夫も出張から帰ってくる。
これからの暮らしは、ゼンさんの「健康便り」をきっかけに、健やかに満ちていく気がした。
体調不良は、体からの大切なシグナルであり、健康便りなのだ。
「いただきます。腸内細菌のゼンさん、ありがとう!」
私はそっとお椀を持ち上げた。
湯気がふわりと立ちのぼる。
湯気の向こうで、ゼンさんが笑った気がした。
<おわり>
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