メディアグランプリ

あの日残った、白い一本の線


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

記事: 金 紘周(25年・年末集中コース)

運転免許を取って初めて練習をした日のことを、今でも妙に鮮明に覚えている。楽しかった。間違いなく。でも同時に、胸の奥に小さな不安が住みついたのも確かだった。大学に入学した最初の夏休み。初夏の空気にはまだ、春の名残のやわらかさが混じっていた。
「じゃ、行くよ」
運転席に座った僕が言うと、助手席の母はシートベルトをぎゅっと引いた。引きすぎて肩が少し浮き上がる。いつもの母より、明らかに硬い。家の駐車場に停まっている赤い車は、僕が小学生の頃からそこにいた。両親は「子どもが練習するために」と言って、十年近く同じ車に乗り続けていたらしい。エンジンをかける。ぶるん、と車体が小さく震えて、僕の心臓もそれに合わせて跳ねた。手汗でハンドルが少し滑る気がして、握り直す。

「……大丈夫?  無理しないでね」
母は慎重に言う。心配してるのは分かる。でも、その声の裏には別の感情も混じっていた。怖さ。祈り。僕は笑ってみせる。「大丈夫だって。ちゃんと教習所でやったし」妙な自信がありながらも、内心では「頼むから、何も起きないでくれ」と神頼みしていた。

住宅街を抜けるまでは、なんとかなると思っていた。問題は、大通りに出た瞬間だった。車の流れが一気に速くなり、後ろから迫ってくる気配がプレッシャーになる。信号、標識、右折レーン、歩行者。情報が一気に押し寄せてきて、頭が追いつかない。

「ちょっと、左寄りすぎ……!」
母の声が跳ねる。ハンドルを握る手が、知らないうちに力んでいた。車体は安定せず、左右に微妙に揺れる。

「わかってる!」
そう言いながら、教習所とは全く訳が違うことを痛感した。一時間ほど走るうちに、体は少し慣れてきた。それでも心はずっと張りつめたまま。母の声も、最初の悲鳴のような調子から、短い注意に変わっていった。帰り道、家の近くまで戻ってくると、母が少しだけ声を軽くなった。
 そして帰宅。最後の関門が待っていた。車庫入れだ。正直に言うと、教習所で本格的な車庫入れはやっていない。やったのは、車幅の倍くらいある広い場所での方向転換と、バックで入る練習くらい。家の駐車場は、まったく別物だった。何度も切り返しながら、慎重に下がる。ミラーを見る。目視する。止まる。母は息を止めているのが分かるほど静かだった。いったん止めて、切り返して、また少し下がる。慎重すぎるくらい慎重にやった。何度も切り返すたび、母が息を飲むのが伝わる。

「もう少し……もう少し……」
母の声が小さくなる。あとちょっとで、車体が枠に収まりそうだった。
いける。できる。そう思った、まさにそのタイミングだった。踏み込んだ足が、ほんの少しだけ深く入った。次の瞬間、エンジン音が急に吠えた。
「え、なに?」
車が、猛スピードで後ろへ。ほんの一拍、自分の脳が状況を理解できなかった。ブレーキじゃない。アクセルだ。僕の足が、間違えている。

「ちょっと!!」
母の声が裂ける。僕は慌てて足を上げ、今度こそブレーキを踏む。
止まった。

静寂。
耳の奥で、心臓の音だけがどくどく鳴る。母は言葉を失っている。僕も声が出ない。ほんの数秒。でもその数秒が、異様に長かった。衝撃音は、なかった。ただ、止まっている。奇跡みたいに。

「……止まった?」
母がやっと息を吐いて言う。
「止まった……」
僕は自分の声が震えているのに気づく。母は、笑ったのか泣いたのか分からない顔で、僕を見た。
「びっくりした……」
その言葉の最後が、少しだけ揺れていた。もう一度深呼吸して、僕たちは残りの車庫入れをやり直した。今度は、完全に“慎重すぎる”運転だった。母も途中から口数が減って、代わりに「うん、うん」と小さく頷くようになった。そして、最後。車体がすっと枠に収まって、サイドブレーキを引いた瞬間、世界の音が戻ってきた気がした。

「……できた」
僕が言うと、母は安堵の表情を浮かべた。車を降りて、ふたりで外に回った。そして、僕は見つけてしまった。前のドアから後ろのドアにかけて、まっすぐな白い線。うっすらと、でも確かに残る線。門扉の取っ手が車体をかすったのだとすぐ分かった。母は少し考えるようにしてから言った。

「まあ、そんなこともあるよ」

怒るでもなく、慰めすぎるでもなく。ただ事実として受け止めるような声だった。その一言で、胸の奥が少しだけ軽くなった。失敗しても、なんとかなる。そう教えてもらった気がした。

白い線は消えることはない。でもそれは、初めての運転と、母の叫び声と、奇跡的に止まったあの瞬間をまとめた印のようにも見えた。ワクワクと不安が入り混じったまま、僕のカーライフは始まった。完璧じゃないスタートだったけれど、たしかに踏み出した一歩目だった。免許を取ったって、急に大人になれるわけじゃない。間違える。焦る。怖がる。それでも、止まってくれる瞬間がある。そして誰かが、隣で息をしてくれている。夕方の風が少し冷たくなって、母が「家の中に入ろうか」と言った。僕はうなずいて、車の赤いボディをもう一度見た。白い線は、たしかにそこにあった。でも不思議と、それは“傷”というより、今日という一日の下線みたいにも見えた。僕たちは玄関へ向かって歩き出す。背中の方で、車が静かに光を受けている。この車で、僕は初めて“家族の時間”を運転したのだと、遅れて気づいた。

≪終わり≫

 

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