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片麻痺の若者が”洗濯バサミで服を干した”午後《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》


2025/12/1/公開

記事:内山遼太(READING LIFE公認ライター)

※一部フィクションを含みます。

 

友人とのバーベキューも、洗濯も、当たり前にできていた。交通事故による脳損傷。突然失われた右半身の自由。「もう一度、干してみようかな」と彼が洗濯バサミを掴んだ午後、空はやけに青かった。

——

 

佐藤翔太さん(仮名)は、28歳だった。IT企業で働き、週末はフットサルやバーベキューを楽しむ、どこにでもいる若者だった。その日も、友人とのドライブの帰り道だった。信号待ちをしていたところに、後ろから猛スピードで突っ込んできた車。気づいた時には、病院のベッドの上だった。脳挫傷。右片麻痺。高次脳機能障害の疑い。医師から告げられた診断は、彼の人生を一変させた。

 

「右手と右足が、思うように動かないかもしれません」その言葉の意味を、彼が本当に理解したのは、リハビリが始まってからだった。右手が上がらない。握れない。右足に力が入らない。歩けない。ベッドから起き上がるのにも、看護師の助けが必要だった。「なんで、俺が」彼は何度も、そう呟いた。

 

 

高齢者の脳卒中患者を数多く見てきた私も、若年者のケースには特別な思いがある。高齢者の場合、ある程度の「諦め」や「受容」が自然に生まれることがある。でも、20代や30代の若者にとって、障害は受け入れがたい現実だ。「これから結婚もしたかった」「仕事でもっと上を目指したかった」「友達と旅行に行きたかった」翔太さんは、リハビリ中に何度もそんな言葉を口にした。

 

特に辛かったのは、友人たちの反応だった。最初は心配して見舞いに来てくれた。でも、次第に足が遠のいていった。「気を使わせちゃうんだよな」翔太さんは苦笑いした。「みんな、どう接していいか分からないんだと思う。俺も、こんな姿見せたくないし」若いからこそ、プライドがある。若いからこそ、失ったものの大きさに打ちのめされる。私自身も脳卒中を経験したが、それは40代になってからだった。でも、もし20代で同じ経験をしていたら、彼と同じように絶望していただろう。

 

 

リハビリ病院では、様々な機能訓練が行われる。関節可動域訓練、筋力強化、歩行練習。どれも大切だが、私が最も重視するのは「生活動作」だ。人は、病院で一生暮らすわけではない。いつか家に帰り、社会に戻る。その時、必要なのは「検査で測れる機能」ではなく、「実際の生活でできること」だ。

 

「翔太さん、退院したら何がしたいですか?」ある日、私は尋ねた。彼は少し考えてから、こう答えた。「普通のことがしたい。洗濯とか、料理とか。母親に全部やらせたくないんです」その言葉に、私は希望を見た。「普通のことがしたい」という願いは、リハビリの最高のモチベーションになる。

 

翔太さんが選んだ生活動作の一つが、「洗濯物を干す」ことだった。一人暮らしをしていた頃、毎週日曜日に洗濯をしていた。ベランダで洗濯物を干しながら、音楽を聴く。それが、彼の週末のルーティンだった。「また、あの時間を取り戻したい」彼の目には、久しぶりに光が宿っていた。

 

洗濯物を干すという動作は、片麻痺患者にとって難易度が高い。両手を使う必要があり、洗濯バサミを操作するには細かい指の動きが求められる。でも、だからこそやりがいがある。難しいからこそ、できた時の達成感は大きい。まずは、洗濯バサミを開閉する練習から。片手だけで、親指と人差し指を使って開く。最初は全く開かなかった。力が入らず、バサミが手から滑り落ちた。「くそっ」翔太さんは悔しそうに呟いた。でも、諦めなかった。

 

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毎日、洗濯バサミと格闘する。開けるようになったら、次はタオルを挟む。タオルが挟めるようになったら、物干し竿に吊るす。一つずつ、クリアしていく。その度に、彼の表情が明るくなっていった。ある日、彼は私にこう言った。「先生、リハビリって筋トレだと思ってたんです。でも違うんですね」「どういうことですか?」「筋肉を鍛えるんじゃなくて、生活を取り戻すためにやるんだって、やっとわかりました」その理解こそが、リハビリの核心だった。

 

翔太さんの場合、最初の成功体験は「靴下を片手で干せた」ことだった。小さな成功だったが、彼にとっては大きな一歩だった。洗濯バサミを片手で開き、靴下を挟み、物干し竿に吊るす。そのすべてを、右手が動かない中でやり遂げた。「できた……」彼の声は震えていた。「俺、できたんだ」その瞬間から、彼のリハビリは加速した。靴下の次はタオル。タオルの次はシャツ。一つずつ、干せるものが増えていった。そして3ヶ月後、彼は洗濯機いっぱいの洗濯物を、すべて一人で干せるようになった。

 

 

退院が近づいたある日、翔太さんは母親にLINEで写真を送った。ベランダで洗濯物を干している自分の姿。片手で洗濯バサミを操作し、シャツを吊るしている場面だった。「お母さん、見て。一人で干せるようになったよ」その写真には、青空と白い洗濯物と、そして彼の誇らしげな表情が写っていた。母親からの返信は、すぐに来た。「翔太、すごいね。お母さん、泣いちゃった」

 

退院の日、翔太さんは病院のベランダでもう一度、洗濯物を干した。「最後に、ここで干したくて」彼は笑顔で言った。空は、驚くほど青かった。風が心地よく吹いて、洗濯物が揺れた。洗濯バサミを操作する彼の手は、もう迷いがなかった。「先生、ありがとうございました」すべて干し終えた後、彼は私に頭を下げた。「洗濯物を干せるようになって、自信がつきました。他のこともできるって思えるようになった」

 

彼にとって、洗濯物を干すことは、単なる家事動作ではなかった。それは「自分にもまだできることがある」という証明であり、「普通の生活に戻れる」という希望だった。事故で止まった人生が、再び動き出す。その「再起動スイッチ」が、洗濯バサミだったのだ。

 

❏ライタープロフィール

内山遼太(READING LIFE公認ライター)

千葉県香取市出身。現在は東京都八王子市在住。

作業療法士。終末期ケア病院・デイサービス・訪問リハビリで「その人らしい生き方」に寄り添う支援を続けている。

終末期上級ケア専門士・認知症ケア専門士。新人療法士向けのセミナー講師としても活動中。

現場で出会う「もう一度◯◯したい」という声を言葉にするライター。

2025年8月より『週刊READING LIFE』にて《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》連載開始。

 

 

 

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