【連載第29回】《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》
記事:内山遼太(READING LIFE公認ライター)
※一部フィクションを含みます。
人工関節の手術を終えた翌朝、Aさんはベッドの上でじっと動けずにいた。痛みよりも深いところに、「怖さ」があった。着替えも、起き上がることも、すべてが「壊れてしまうかもしれない」に見えていた。そんな彼女が、一本のズボンに手を伸ばした。その瞬間に何が起きたのか——作業療法士として700人以上の回復を見てきた私が、忘れられない朝の話をする。
——
冬の朝の病室は、独特のにおいがする。
消毒液と、乾いた空気と、どこかしら緊張が混じったような——言葉にしにくいあの感じを、私はこの仕事を始めてからずっと胸の中に持ち続けている。その日も、白いカーテンの向こうから朝の光が差し込んでいた。
Aさん(仮名・70代)と初めて会ったのは、人工股関節置換術の翌朝だった。
手術は成功していた。担当医からも「経過は良好です」とお墨付きをもらっていた。それなのにAさんは、ベッドの上でじっと膝を揃えたまま、どこか遠くを見つめていた。
「先生、怖くて動けないのです」
声は小さかった。でも、その一言の重さは、私のそれまでの経験のすべてが受け止めようとするほど、ずっしりとしていた。
Aさんが恐れていたのは、痛みだけではなかった。
術前に「脱臼」の可能性についての説明を受けていた。人工股関節は、特定の角度に曲げすぎると外れてしまうことがある。それを丁寧に教えてもらえたことが、逆に彼女の身体の動きを凍らせていた。
知識が恐怖になる。医療の現場では、時々そういうことが起きる。
「自分が動くことで、何かが壊れてしまうかもしれない」
そう感じると、人は動かなくなる。それは怠慢でも弱さでもなく、ごく自然な反応だ。むしろAさんは、「ちゃんと守ろうとしていた」のだと私は思う。
私はしばらく、Aさんの隣に座っていた。
急かさなかった。説明もしなかった。ただ、カーテンの外をゆっくり流れる光の中で、彼女の呼吸のテンポに合わせるようにして、静かにそこにいた。
少し間があって、Aさんがぽつりと言った。
「着替え、自分でできるようになりますかね」
その言葉を聞いて、私は心の中で「あ、ここだ」と思った。
「じゃあ今日、ズボンを履いてみましょうか」
Aさんの目が、少し丸くなった。
「え、私が、自分で?」
入院してからずっと、着替えは看護師や娘さんに任せていたそうだった。「迷惑をかけたくなくて」と、彼女は少し申し訳なさそうに言った。
私は答えた。「迷惑なんかじゃないですよ。でも、Aさんが自分で履けたら、それはAさんにしかできないことです」
大げさな励ましではなかった。本当にそう思っていた。
靴下の先から慎重にズボンをかけて、脱臼しない角度を保ちながら少しずつ引き上げていく。私はリーチャー(補助具)の使い方を伝え、Aさんの手元をそっと見守った。
最初の試みは、うまくいかなかった。
「あ、届かない」「こっちだと怖い」
そのたびに私たちは少し立ち止まり、やり方を変えた。椅子の高さを調整した。補助具の角度を変えた。Aさんの「こっちはどう?」という小さな声に、「いいですよ、続けてみましょう」と返した。
試行錯誤の時間は、思ったより静かだった。
そして——。
Aさんの両手が、ゆっくりとズボンを腰まで引き上げた。
病室に、短い沈黙が生まれた。
Aさんはしばらく、自分の手元を見ていた。
それから、ふわっと——本当にふわっと——笑った。
「履けた」
たった二文字だった。でもその声の中に、私には何かがぎゅっと詰まっているのが聞こえた。恐怖の向こうへ行けた安堵。何かを取り戻したような、静かな手応え。「まだ、自分でできる」という——言葉になる前の感触。
私はその表情を、何度見ても慣れることができない。
何百人の患者さんと関わっても、こういう瞬間はいつも新鮮に胸を打つ。それがなければ、私はとっくにこの仕事をやめていたかもしれない、と思うくらいに。
Aさんはその日の夕方、娘さんに電話をかけた。
「今日ね、自分でズボン履いたよ」
娘さんが泣いていた、と翌日Aさんが教えてくれた。
この連載のタイトルは、「心と身体の再起動スイッチ」だ。
病気、怪我、加齢。人は様々な理由で、「動くこと」「やること」「誰かと関わること」から遠ざかっていく。その時間が長くなるほど、再び動き出すことは難しくなるように見える。
でも私は、長い年月この仕事を続けながら、確かめてきたことがある。
再起動スイッチは、必ずどこかにある。
そしてそれは、劇的な場面に現れるとは限らない。むしろ多くの場合、ズボンを履くような——日常の中のごく小さな動作の中に、静かに宿っている。
大切なのは、その「スイッチ」がどこにあるかを、一緒に探すことだ。
何が「できた」に変わる体験になるか。何が恐怖を上回る達成感になるか。それは人によって違う。マニュアルには書けない。だからこそ、目の前の「その人」を見ることから、すべては始まる。
Aさんは退院前日、こう言ってくれた。
「あの朝ズボン履けたとき、なんか泣きそうになったんですよ。自分でもびっくりして」
「わかります」と私は言った。
声に出してから、本当にそうだと思った。わかる、と思った。
少し個人的な話をさせてほしい。
数年前、私は自分の腕の機能に影響を与える疾患を経験した。
リハビリを受ける立場になって、初めて気がついたことがある。
「できない」は、想像以上に人を追い詰める。
身体的な痛みとはまた別の、じわりとした苦しさがある。「なんでこんなことが」「前はできていたのに」という感覚は、薬では和らげられない。夜、天井を見つめながら、そのことを何度も考えた。
そして同時に——「できた」という一瞬の体験が、どれほどの光をもたらすかも、その身で知った。
治す側にいるとき、「小さな達成」をどこかで軽く見ていた部分があったかもしれない。でも治された側になったとき、その「小さな達成」こそが人の心を動かすと、はっきりとわかった。
これが、この連載を書こうと思った出発点だ。
心と身体は、必ずまた動き出せる。
その再起動のスイッチを、一緒に探し続けたい——そう思いながら、今日もリハビリ室に立っている。
—
❏ライタープロフィール
内山遼太(READING LIFE公認ライター)
千葉県香取市出身。現在は東京都八王子市在住。
作業療法士。終末期ケア病院・デイサービス・訪問リハビリで「その人らしい生き方」に寄り添う支援を続けている。
終末期上級ケア専門士・認知症ケア専門士。新人療法士向けのセミナー講師としても活動中。
現場で出会う「もう一度◯◯したい」という声を言葉にするライター。
2025年8月より『週刊READING LIFE』にて《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》連載開始。
人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
お問い合わせ
■メールでのお問い合わせ:お問い合せフォーム
■各店舗へのお問い合わせ
*天狼院公式Facebookページでは様々な情報を配信しております。下のボックス内で「いいね!」をしていただくだけでイベント情報や記事更新の情報、Facebookページオリジナルコンテンツがご覧いただけるようになります。
■天狼院カフェSHIBUYA
〒150-0001 東京都渋谷区神宮前6丁目20番10号
MIYASHITA PARK South 3階 30000
TEL:03-6450-6261/FAX:03-6450-6262
営業時間:11:00〜21:00
■天狼院書店「京都天狼院」
〒605-0805 京都府京都市東山区博多町112-5
TEL:075-708-3930/FAX:075-708-3931
営業時間:10:00〜22:00
■天狼院書店「名古屋天狼院」
〒460-0002 愛知県名古屋市中区丸の内3-5-14先
Hisaya-odori Park ZONE1
TEL:052-211-9791
営業時間:10:00〜20:00
■天狼院書店「福岡天狼院」
〒810-0021 福岡県福岡市中央区今泉1-9-12 ハイツ三笠2階
TEL:092-518-7435/FAX:092-518-4149
営業時間:
平日 12:00〜22:00/土日祝 10:00〜22:00






