メディアグランプリ

よしなにの果て — 期待値という名の幽霊 —


 

 

 

 

*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

記事:山本圭亮(2026年1月開講・渋谷/通信・4ヶ月コース)

「よしなに頼む」

 

この四文字を受け取ったことのない社会人は、おそらくいない。颯爽と席を立つ上司の背中を見送りながら、あなたは、一度は思ったはずだ。で、何をすればいいんだ。

 

「よしなに」は一見、裁量の委譲に見える。信頼の証のようにも聞こえる。だが少し立ち止まって考えると、その実態はずいぶん違う。

 

「よしなに」と言う人の多くは、自分が何を欲しいかを、まだ知らない。期待値は言語化される前の霧として、その人の頭の中に漂っている。霧は問いかけても出てこない。聞けばよいというものでもない。霧は、誰かが形にしたものを見て初めて、「違う」という輪郭を持ちはじめる。

 

相手の頭の中にまだ存在していないものを、外から当てることはできない。

 

これは怠慢の話ではない。悪意の話でもない。ただ、人は自分が何を欲しいかを、作られたものを見るまで知らないことがあるという、ごく普通の認知の話だ。

 

それを知っているかどうかで、「よしなに」を受け取った後の動き方はまったく変わる。例えば、このような経験をしたことはないだろうか。

 

田中部長が言った。

 

「じゃあ、あとはよしなに頼む」

 

山田はうなずいた。七年目の社員だ。「よしなに」の翻訳には慣れている。要するに何もわかってないんだな、と山田は思った。

 

三日後、山田は企画書を持って田中の部屋に入った。

 

田中はA4十二枚をめくり、眉間にしわを寄せた。

 

「なんか、違うな」

 

「どこが違いますか」

 

「全体的に」

 

山田は深呼吸をした。全体的に。全体的に、か。

 

「では、イメージに近いものはありますか」

 

「うーん……」田中は天井を見た。「もっとこう、ビジネスっぽいやつ」

 

「これはビジネス企画書です」

 

「いや、ビジネスっぽいビジネス企画書」

 

山田の右手が微かに震えた。

 

一週間後、山田は二度目の企画書を持っていった。

 

田中はめくった。うなった。

 

「なんか、前の方がよかったな」

 

「……前の、ですか」

 

「そう。あのビジネスっぽくないやつ」

 

山田は自分の呼吸を数えた。一、二、三。

 

「部長、一つ聞いていいですか」

 

「なんだ」

 

「この企画、最終的にどんな状態になったら成功ですか」

 

田中は少し考えた。本当に少し考えた。そして言った。

 

「よしなになってたら、成功じゃないかな」

 

山田は悟った。

 

この人は「よしなに」という言葉が、具体的な状態を指していると思っている。

 

三週間後、山田は企画書を持って田中の部屋に入った。

 

田中はめくった。うなった。そして言った。

 

「これだよ、これ。最初からこれを言ってたんだよ」

 

山田は微笑んだ。

 

「ありがとうございます」

 

内容は一度目とほぼ同じだった。

 

田中が三週間かけて、自分が何を求めているかを学習したのだ。山田は三回、その授業料を払っただけだ。

 

帰り道、山田は後輩の木村に言った。

 

「よしなにって言われたら、まず一回作って持ってけ」

 

「え、でも最初に確認しないんですか」

 

「聞いても出てこない。あの人の答えは、お前の企画書の中にある」

 

木村は首をかしげた。

 

山田は続けた。

 

「俺たちは企画書を作ってるんじゃない。上司に、自分が何を欲しいかを気づかせてあげてるんだ」

 

木村はしばらく黙った。

 

「……それって、すごく高度なサービスじゃないですか」

 

「そう」山田はうなずいた。「でも残業代は出ない」

 

二人はエレベーターを待った。

 

どこかで誰かが言っているのが聞こえた。

 

「じゃあ、よしなに頼む」

 

山田と木村は目を合わせた。

 

何も言わなかった。

 

山田が気づいたことを、少しだけ言葉にしておきたい。

 

「よしなに」と言う人を責めても何も変わらない。彼らは怠けているのではなく、自分の内側にあるものを言語化する前に、それが何かを知る方法を持っていないのだ。人間の認知はおおむねそういうものだ。欲しいものは、見るまでわからない。

 

だとすれば、「よしなに」を受け取った側にできることは一つしかない。問い返して正解を引き出そうとするのではなく、相手が「違う」と言える何かを、早く形にして持っていくこと。

 

「違う」と言われた瞬間が、実は最初の前進だ。霧がそこで初めて、輪郭を持ちはじめる。

 

私たちは成果物を作っているのではない。

相手が自分の欲しいものに気づくための鏡を作っているのだ。

 

それが腑に落ちると、三度作り直すことも、「最初からこれを言ってた」と言われることも、少しだけ、ほんの少しだけ、笑えるようになる。

 

残業代が出ないことは、変わらないけれど。

≪終わり≫

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