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「こんにちは」と「わー」で通じる、山の挨拶


 

 

 

 

*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

記事:雨宮さよ(2026年1月開講・渋谷/通信・4ヶ月コース)

 

頂上の奥宮に着いたとき、蝋梅(ろうばい)の林の向こうから観光客が次々と上がってきた。ロープウェイで来た人たちだ。私たちはその逆側から登ってきたらしい。

 

そのとき初めて、ああ、私たちはこの山を裏側から歩いてきたのだと気づいた。

 

先月、蝋梅(ろうばい)を見に行こうと誘われて宝登山を歩いた。馴染みのガイドさんが勧めてくれたのは、山頂へまっすぐ向かう表参道ではなく、里山の稜線をたどるルートだった。

 

事前にルートの地図も見ていたし、集合と解散の駅も確認していた。それでも、こうして山頂に着くまで、自分が山のどの方向から登ってきたのか、はっきりと理解していなかったらしい。

 

どうやら私は、紙の二次元情報を頭の中で立体化するのがあまり得意ではないようだ。

 

地図読みの講習会で、等高線に沿って歩けば平たん、等高線を垂直にコースが通っていれば登りになる、と教わった。知識としては頭に入っている。それでもこのありさまである。まあ、本格的に山歩きを始めてまだ三年なのだもの。そんなふうに自分を慰めることにした。

 

宝登山の山頂には、蝋梅(ろうばい)の林が広がっていた。冬と春のはざまのような澄んだ空気のなかで、独特の甘い香りがふわっと漂っている。

 

またまた恥をさらすようだが、私は今日まで蝋梅(ろうばい)のことを知らずにいた。

花は小さく、決して派手ではない。けれど近づいて見ると、半透明の花びらが光を通し、まるで蝋細工のように見える。

 

そこでは、立ち止まって写真を撮る人。香りを確かめるように顔を近づける人。みんな思い思いに春の訪れを楽しんでいる。その中を登山靴のまま、背伸びして枝先の花に鼻を近づけようとしている自分が、なんだか可笑しかった。

 

そして、見知らぬ同士も目が合えばニコっと微笑みあう。宝登山の山頂には、そんな穏やかな時間が流れていた。

 

山を歩いていると、こんな穏やかな空気の中で、人との距離も少し近くなる。山歩きの魅力を聞かれたら、迷わず、だれとでも挨拶して仲良くなれること、を挙げるだろう。

 

「こんにちはー」疲れてゼイゼイしているときは、「ちはー」もっと疲れているときは、もう「わー」だけのときもある。それでも不思議と、それで十分通じる。

 

あと少しで下りですよ、と教えてくれる人。今日はピストンですか、それとも縦走ですか、と声をかけてくる人。ほんの短いやり取りなのに、必要な情報はちゃんと伝わる。

 

山歩きに慣れている人たちは、こういうさりげない会話の中で自然に状況を共有している。どこから登ってきたのか、この先どんな道なのか、どれくらい時間がかかるのか。言葉は少ないのに、要点はきちんと伝わる。

 

コミュニケーションというと、つい言葉の量を想像してしまう。でも山では、言葉はむしろ最小限だ。それでも相手の様子はなんとなく伝わるし、こちらの疲れ具合もきっと伝わっている。

 

高度が上がるほど、人は少し素直になるのかもしれない。すれ違うだけの相手なのに、どこか仲間のように感じる。ほんの数秒の挨拶なのに、そこにはちゃんと相手への敬意がある。

 

山小屋でも同じだ。交わす言葉は多くない。どこから来ましたか。今日はどこまで行くんですか。そんな短い会話だけれど、そこには妙な連帯感がある。ここまで歩いてきた人同士だけが共有できる、静かなリスペクトのようなものだ。

 

大げさな励ましの言葉があるわけでもない。でも「ここまで来ましたね」という気持ちは、自然と空気の中に漂っている。

 

初めて八ヶ岳に行ったときのことを思い出す。

 

そのツアーには、見るからに山の経験値が高そうな初老の女性が参加していた。どちらかというと小さい体躯なのに、ガイドさんについてぐいぐいと歩を進める。その脚力に、私は、いつかこうなりたい、そんな憧れを覚えた。

 

山小屋での夕食のとき、「山歩きは何年くらいですか?」と尋ねてみた。

「三十年くらいかな。途中、子育てであまり歩けなかったりしたけど、結局こうして戻ってきちゃう」そう言って、彼女は少し照れたように静かに笑った。

 

その笑顔を見て、私はなんだか胸がいっぱいになった。下界ではなかなか学べない生きざまのようなものを、そこに感じ取ったのかもしれない。

 

山を歩いていると、こういう人に時々出会う。長く山を歩いてきた人たちは、どこか静かだ。自分の経験を誇るような話もしないし、誰かに何かを教えようとするわけでもない。ただ、淡々と歩いている。

 

でも、その背中を見ていると、不思議と伝わってくるものがある。どれだけ長い時間を山で過ごしてきたのか、どれだけの景色を見てきたのか。山では、そういうことが言葉より先に伝わる気がする。

 

あのときの彼女の笑顔を思い出すたびに、山という場所は、人の時間の重なり方まで少し違うのかもしれないと思う。

 

下界では、今日も些細なことでムキになったりする。売上のこと、WBCの結果、ニュースで流れる世界情勢、気になるあの人の動向……気づけば、目の前の出来事を自分にとってメリットかデメリットかでしか判断できなくなっている自分がいる。

 

けれど山に入ると、その感覚が少しほどけるような気がする。すれ違いざまの「こんにちは」だけで、人はちゃんと通じ合えるのだと思い出す。少しだけ上等な自分になれた気になれる。そして少しだけホッとするのだ。

 

こういう経験ができる、山歩きが大好きだ。

≪終わり≫

 

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