「うつ」という停滞は、あなたを醸す大切な時間
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:川瀬健二(2026年1月開講・渋谷/通信・4ヶ月コース)
その酒蔵に足を踏み入れた瞬間、少し甘い匂いがした。
米と水、そして微生物が長い時間をかけて混ざり合う場所には、独特の温度がある。ステンレスの設備が並ぶ近代的な工場とは違い、そこには人の手と、見えない生命の気配が満ちていた。
千葉県の北部、利根川の流れに近い小さな町、神崎町。ここには「発酵の里」と呼ばれる地域があり、味噌、醤油、酒などの醸造文化が古くから息づいている。その中心にあるのが、江戸時代後期の1673年に創業した酒蔵、寺田本家だ。三百年以上続くこの酒蔵は、日本酒の世界では少し特別な存在として知られている。
一般的な酒造りでは、品質を安定させるために酵母を厳密に管理し、雑菌を排除する。しかし寺田本家では、そうした近代的な数値管理をしない。蔵の中に棲みつく自然の微生物の力を信じ、できる限り人為的な操作を減らした酒造りを続けている。
江戸時代から受け継がれてきた木もと造りの酒は、乳酸菌、麹菌や酵母たちが醸してくれる深く濃厚な味が特徴だ。看板商品の「自然酒 五人娘 純米酒」は、農薬を使用せずお米からできた微生物の生命力を感じる無濾過の酒で、根強いファンが多い。
僕は蔵の中を歩きながら、24代目当主・寺田優さんの言葉を思い出していた。
「無駄な菌なんて、ひとつもいないんですよ」
この蔵では、酒造りにおいて微生物を徹底的に管理するのではなく、むしろ共生させる。蔵の中に棲みつく無数の菌たちが、それぞれの役割を持ちながら酒を醸していく。発酵は、人間がコントロールするものではない。杜氏の仕事は、信じて待つことだという。最も重要なのは、微生物の働きを見守り、邪魔しないことだ。
僕はその話を聞きながら、現代の社会の姿を思い浮かべていた。僕たちの組織は、あまりにも「殺菌」されすぎているのではないか。効率、成果、スピード。役に立つ人材を選び、そうでないものを排除する。生産性という名のフィルターを通して、人の価値を測る。その結果、社会はどんどん「きれい」になっていく。
だが同時に、何か大切なものも失われている。厚生労働省の統計によれば、日本では精神疾患を抱える人が600万人以上いると言われている。うつ病、不安障害、適応障害が年々増え続けている。もちろん、その原因は一つではない。
僕はときどき思う。僕たちは自分自身を、効率という名のアルコールで消毒しすぎているのではないかと。本来、人間はもっと複雑な存在だ。調子のいい日もあれば、動けない日もある。勢いよく前に進む時期もあれば、立ち止まる時期もある。それでも現代の社会は、それを許さない。
常に前進しろ。
成果を出せ。
止まるな。
うつ病、適応障害、不安障害。それは誰でも起こり得る、心の停滞だ。もし今、あなたがその中にいるのなら、きっとこう思っているかもしれない。
「自分は壊れてしまったのではないか」
「もう元に戻れないのではないか」
実際、僕も長い間そう思っていた。「うつ病」と書かれた診断書と辞表を、これまでに何度も受け取ってきた。仕事ができなくなった人を見たとき、「壊れてしまったのだ」と感じていた。だが、寺田本家の蔵で酒造りを見ていると、その考えが少し変わってきた。
発酵の世界では、ある時期になると、表面の動きが止まる。泡も出ない。温度も変わらない。外から見れば、何も起きていないように見える。だが実際には、その静かな時間の中で、内部では劇的な変化が起きている。糖が分解され、香りが生まれ、味の奥行きが育っていく。この時間を急がせることはできない。急げば、酒は浅くなる。杜氏はそれを知っているから、ただ信じて待つ。
その時、僕はあることに気づいた。社会は「動ける人」を評価する。だが、本当に価値のある変化は、誰の目にも見えない場所で起きている。もしかすると、人の停滞も同じなのかもしれない。うつの状態は、外から見ると何も生み出していないように見える。
仕事も進まない。活動も止まる。社会の視点から見れば、それは「損失」に見える。けれど、もしそれが発酵の時間だとしたらどうだろう。表面では静止していても、内側では何かが組み替えられている。価値観が変わり、人生の方向が静かに動いている。
私はこの期間を、熟成の時間だと思うようになった。次の自分に向かうための準備期間だ。もちろん、停滞は苦しい。何もできない自分を責めてしまう。周りの人が前に進んでいるように見えると、焦ってしまう。けれど発酵の世界では、短期間で作られた酒は軽い。長く熟成した酒は、香りも奥行きも違う。人もきっと同じだ。遠回りや停滞があるからこそ、人は深くなる。そしてもう一つ、酒造りから学べることがある。
それは多様性の力だ。寺田本家の酒は、単一の酵母だけで作られているわけではない。蔵の中の多様な微生物が関わり合うことで、複雑な味が生まれる。どんな微生物にも役割があり、その役割を全うした後に、次の微生物へバトンを渡していく。もし「早く役に立つ菌」だけを残して、他を排除したらどうなるか。酒の味は安定するかもしれない。だが、奥行きはなくなる。人間の社会も、同じなのかもしれない。強い人だけではなく、弱さを持つ人、傷を抱えた人、遠回りをしてきた人。多様な人たちが混ざり合うことで、社会は豊かになる。
だからもし今、暗闇の中にいるなら、伝えたい。あなたは壊れたのではない。今まさに、深い場所で発酵している最中なのだ。夜明け前の蔵の中では、何も動いていないように見える。だが、その静かな時間こそが、最高の酒を生む。
やがて朝が来る。蔵の扉が開くとき、そこには昨日とは違う香りが立ち上っている。人も同じだ。停滞は終わりではない。それは、あなたという存在を醸すための、大切な時間なのだから。
≪終わり≫
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