メディアグランプリ

魂の行方


 

 

 

 

*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

記事:加賀 凪(2026年1月開講・渋谷/通信・4ヶ月コース)

※この記事はフィクションです。

 

 

——すべてがいつも通りだった。

 

一方、人知れず、「彼」の肉体は生命活動をすでに停止していた。

 

ただ、有機的に結合している「彼」のAIエージェントたちは、これまで与えられていたプロンプトと「彼」の過去のログデータをベースに、今日も完璧な精度で活動し続けていた。

 

午前八時。

「彼」のデジタルな「代理人」たちは、複数のタスクに対して瞬時に並行処理を開始する。

取引先へは、そつなく自社の企画を売り込み、収益の最大化を図るべく交渉を進めた。

部下へは、必要十分かつ簡潔明瞭な業務指示を行い、モチベーション向上にも配慮しつつ、適切な評価とフィードバックを行った。

家族へは、出張先と称する場所の画像を背景にして、家族みんなを気遣う画像・音声を生成し、まめに送り続けた。

遠くの親戚へは、法要に出席出来ない不義理を詫びるメールを送り、御霊前の現金書留を手配した。

 

そして、「彼」のAIたちは、いつも通り新しいビジネスのアイディアを生み出し、計画を立案し、実行するように関係者へ指示を出していった。

 

だが実は、誰も「彼」と直接言葉を交わしてはいなかった。

この社会では、誰もが自らの思考を学習させたAIを代理人として立て、最適化された摩擦のないコミュニケーションを成立させていた。 顔を合わせさえしなければ、煩わしい感情の衝突も、不機嫌な沈黙もない、完璧に滑らかな人間関係——。

 

取引先の担当者——正確には、先方の担当者が自身を模して構築したAI——は、ミリ秒単位で受け取った「彼」の企画の有益性を算出し、最適な条件闘争を行った末に、上司のAIから承認を得て、「素晴らしいご提案です。合意いたします」という旨の丁寧な返答を自動生成した。

部下たちのAIもまた、「彼」の指示を完璧に咀嚼し、オーナーである生身の人間がまだベッドの上で身支度している間に、見事なレポートと改善案を自動生成して提出した。

妻や子供のデバイスで稼働するAIも、「こっちの仕事は順調だよ。みんな元気かい?」という「彼」の温かい声に対し、最適なタイミングで愛情に満ちたスタンプや「パパもお仕事頑張ってね!」というテキストを自動生成して返信した。

親戚のAIは「彼」からの香典の入金を検知すると、即座に定型的ながらも哀悼の意に満ちたお礼状を自動で送り返してきた。

 

取引先も。

部下も。

家族も。

遠くの親戚も。

 

彼らが間接的につながっているその中心の「彼」という生身の人間が、すでにこの世から去っていることに、誰一人として気がつくことはなかった。

 

 

——さて、「彼」の肉体は今どこにあるのか。

 

その日、「彼」は絶対に誰からも貴重な休暇を邪魔されないよう、周到に「代理人」たちへ指示をしていた。 そして、いつもなら「彼」のバイタル異状をチェックするスマートウォッチも、その日だけはデジタルデトックスのために外されていた。

 

「彼」は秘密の別荘を持っていた。 ほとんど人の訪れない、周囲を森林に囲まれた静かな湖の畔。 そこに、アメリカ映画にでも出てきそうな、簡素だが過ごしやすい、白を基調とした木造平屋の別荘を建てたのだ。

「彼」は器用に多種多様なタスクをAIに任せているが、それで仕事は万事安心——ということにはならない。 社会全体の処理速度が上がれば、それだけ先を見通した決断を迫られ、一層心が休まる暇も無くなってくる。 「彼」の心には慢性的なストレスがのしかかっていた。

だから、「彼」は自らの肉体そのものを多忙な日常から隔離し、絶対的な静寂を手に入れようとしていたのだ。

 

その日の早朝、「彼」は一人で手漕ぎボートを出し、湖に漕ぎ出した。 一応釣竿も積み込んではいるが、本当の目的は釣りではない。 静謐な朝の時間を満喫し、朝日の中で自然との一体感を得ようと思っているのだ。 分厚い救命胴衣は「邪魔になる」とボートの底に転がしたままだった。 波ひとつない鏡のような湖面が、「彼」に安全だという錯覚を与えていた。

 

うっすらと明けてくる空の下、朝の空気をたっぷり肺に吸い込んで、頭も心もスッキリとした。 中国の古い諺に「永遠に幸せになりたかったら釣りを覚えなさい」というのがあった、と何かの本で読んだことを思い出し、一応形ばかりでもと釣り糸を垂らした……。

 

竿に強烈なアタリがあったのは、陽がすっかり昇りきる手前だった。

——まさかの湖の主と目される巨大なトラウト——。

想像を超える力で糸が引き込まれ、ボートが大きく傾く。 「彼」は思いも掛けずに得た幸運に顔を歪め、立ち上がって竿を煽った。 大物を釣り上げるという原始的な喜びに、「彼」の心臓は高鳴った。

だが、魚がボートの真下へ急降下した瞬間、「彼」は大きくバランスを崩す。 踏ん張る間もなく、「彼」は冷徹な水面へと転落した。

 

水温は十度に満たなかった。

皮膚を刺すような冷水に全身が浸かった瞬間、肉体の自律神経が暴走し、心拍数と血圧が限界を超えて跳ね上がる。 同時に、不随意なあえぎ反射が引き起こされ、息を吸い込もうと大きく開いた口から、大量の冷水が直接肺へと流れ込む。

極度のショック状態に陥った心臓は、数秒でその駆動を完全に停止した。

 

肺の空気が水に置き換わったことで、肉体は水よりも重くなった。

自ら浮き上がる動力を失い、救命胴衣という最後の命綱も持たないその身体は、ただ物理法則に従って、湖の暗く冷たい底へと沈んでいった。

 

水面にはわずかな波紋が広がり、やがてそれも消え去る。 湖は、何事もなかったかのように、元の静寂を取り戻した——。

 

湖畔の別荘に置き去りにされた、いくつかのデバイスだけが、今も静かに熱を帯びて稼働し続けている。 「彼」が遺した思考のデータとアルゴリズムは、「彼」自身の脆弱な肉体よりも遥かに有能で、疲れを知らず、完璧に「彼」として振る舞い続けている。

 

ついに「彼」の身体は、湖底の泥に沈み、やがて魚たちの養分となって朽ちていく有機物の塊となった。 「彼」は本当の意味で自然の一部になったのだ。

 

 

——では、「彼」の魂はどうなったのだろうか。

 

十分な準備を行なったおかげで、「彼」の意思はAIたちに遺漏なくトレースされている。文体はじめコミュニケーションの癖も「彼」そのものだ。

 

気持ちや思考は、単に自分の中に秘めているだけではなく、表現してはじめて相手に伝わり、その存在が認識される。

逆に言えば、表現さえされ続けていれば、——それはそこに存在する。

 

そう、「彼」の魂は「今も生きている」のである。

 

 

そして今日も、いつも通りの日々が流れていく。

——すべてがいつも通りに。

《終わり》

 

 

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