朝顔の花が咲く日
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:渡辺のり子(ライティング・ゼミ1DAY講座)
私が書道教室を始めたのは、今から三十年ほど前のことです。
娘が幼稚園の年長に進級した頃、同じマンションの方から「うちの子に字を教えてほしい」と頼まれたことがきっかけでした。
マンションの集会室を借りて始めた、小さな教室。
娘のお友達5名ほどが、私の最初の生徒さんでした。
私は幼少から書道を習い、20歳で師範の免状をいただきました。
ようやく今、この資格を生かせる時がきたと、あれこれと教室を始める準備をすることが、とても楽しかったことをはっきりと覚えています。
そして、その第一歩の日、私の師匠がおけいこの様子を見に来てくださいました。
当日集まってくれた生徒さんたち、その中に ゆう君がいました。
ゆう君は、ほかの子より少し成長がゆっくりしたお子さんです。
字はまだほとんど書けません。 それどころか、筆圧が弱く、安定しないフラフラした線になってしまいます。
ママと一緒にがんばって書いてくれていましたが、書くことに集中すると、口元からよだれがこぼれてしまう……、そんな状態のお子さんでした。
そのような ゆう君の様子を見ていた師匠は、おけいこの後、私に言いました。
「あの子はだめ。ああいう子に書道のおけいこは無理だから、入れない方がいい」
師匠の、きっぱりと言い切る強い口調に、私は違和感を覚え、悲しくなりました。
なぜなら私自身も、子どもの頃は周りの子たちについていけない、いわゆる劣等生だったからです。
だからこそ、ゆう君を入れないという選択だけは、どうしてもできなかったのです。
劣等生だった私を、根気よく指導してくださった師匠でしたが、この時ばかりは反発をしてしまいました。
それからも、ゆう君は書道教室に通い続けてくれました。
ゆう君は、ことばの発達も遅かったため、話かけても返事が返ってこないこともありました。
書道の上達の兆しも見えないまま、時間ばかりどんどん過ぎていきます。
焦らなかったと言えば嘘になります。
それでも私は、ゆう君のお母様と相談を重ねながら、ゆう君を見守る日々が続きました。
そして、一年ほど経ったある日のことです。
おけいこに来たゆう君が、差し出した一枚のプリントを見て、私は思わず手を止めました。
そこには、見違えるような整った文字が並んでいたのです。おとなの人が書いたのではと思ってしまうほど、綺麗な文字を書いて見せにきてくれたのです。
「ゆう君、これ……」
いったい何が起こったというのでしょうか。
俄には信じられず、私はつぎの言葉が出てきませんでした。
ゆう君は少し照れたように、頬を赤く染めて笑っていました。
「すごいね、ゆう君」
そう言うのが、やっとでした。
きっと、その声はすこし震えていただろうと思います。
ゆう君は、どことなく誇らしげな表情をしていました。
私は、じわじわと湧き上がってくる喜びや感動と共に、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていました。
ゆう君は、見えないところで、確実に積み重ねていました。
表面には表れていなかっただけで、少しずつ成長していたのだと、そのことに私は初めて気づかされたのです。
人の成長は、階段を一段ずつ昇っていくというようなものではないのです。
ぜんぜん上達しない、まるで進歩が見えない、そんな足踏みをしているような日々を繰り返しているうちに、ある日ふっと、一段の階段を昇れる日が来る……、そういうものです。
まるで進歩が見えない、足踏み状態の日々に、見切りを付けて諦めてしまうのか、それとも諦めずに歩みを続けるのか、上達するかどうかは、そこが分かれ目になるのではないでしょうか。
ゆう君が、目が覚めるほど綺麗な字を書いてくれた日、私はふと集会室の庭に目をやりました。
そこにはたくさんの朝顔の花が咲いていました。
青や紫、ピンクの花が、それぞれの形で静かに開いていました。
「朝顔、きれいだな……」
私は、見慣れた朝顔の花を見ながら、おけいこごとの大切な基本に気がついたのです。
朝顔は、一斉に咲くわけではありません。一輪ずつ順番に、それぞれの時を待って、それぞれの色と形で、花を咲かせます。
早く咲くことに、意味があるわけではありません。
準備が整い、そのタイミングが来たときに、自分の花を咲かせるのです。
それまでは、表面には表れず、誰からも見えないところで、花を咲かせる準備をしているのです。
そして、ゆう君はあの日、自分の花を咲かせたのです。
「あの子はだめ」と言った、師匠のあの言葉は、正解ではありませんでした。
私は、ゆう君を入れないという選択をしなかった自分を、心の底から誇らしく思いました。
あれから三十年。
今も私は、小さな教室で生徒さんたちに書道を教え続けています。
庭に咲く朝顔を目にするたびに、あの日のことを思い出します。
そうです、ゆう君が私に教えてくれた、たった一つの大切なこと。
それは、生徒さん一人一人が、唯一無二の自分の花を咲かせる日が、必ず来るのだと信頼することです。
そして生徒さんたちが、それぞれの自分だけの花を咲かせる日まで、伴走し続けることです。
それこそが、人にものを教えるという仕事の本質なのだと思っています。
《終わり》
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