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【連載第31回】《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》「ALSの女性が目線で、YESと言えた日」


記事:内山遼太(READING LIFE公認ライター)

※一部フィクションを含みます。

声を失い、手を失い、それでも「伝えたい」という気持ちだけが残っていた。ALS(筋萎縮性側索硬化症)を患うCさん(仮名・50代)は、少しずつ身体の自由を失いながらも、ある日、目線で「YES」を伝えることができた。その瞬間、彼女の表情に何が宿ったのか。身体が動かなくなっても消えないものがある——そのことを、Cさんが教えてくれた。

 

人は、伝えられなくなったとき、何を思うのだろう。

 

その問いが頭から離れなくなったのは、Cさんと出会ってからだ。

 

Cさんは50代の女性だった。ALSと診断されてから数年が経ち、私が担当になった頃には、すでに声はほとんど出なくなっていた。手も、腕も、思うように動かせない。それでも目は、静かに、しかし確かに動いていた。

 

 

 

ALSという病気は、残酷なやり方で進行する。

 

運動神経が少しずつ侵されていき、筋肉が動かなくなっていく。でも感覚は残る。意識も残る。「伝えたい」という気持ちも、ちゃんと残る。

 

それがこの病気の、最も切ない部分だと私は思う。

 

中に人がいる。声を上げようとしている。でも、その声が外に出られない。

 

Cさんの目は、いつも何かを言おうとしていた。

 

担当になった初日、私は挨拶をして、Cさんの顔を見た。彼女はこちらをじっと見つめ返した。その目の中に、言葉がぎっしりと詰まっているような気がした。

 

「Cさん、私に伝えたいことがありますか」

 

問いかけると、Cさんの目が少し動いた。でもそれが「YES」なのか「NO」なのか、私にはまだわからなかった。

 

そのもどかしさは、きっとCさんの方が何倍も感じていたはずだった。

 

 

 

視線入力という技術がある。

 

目の動きをカメラで追い、画面上のボタンや文字を選択することで、言葉を紡ぐことができる仕組みだ。近年、ALS患者さんのコミュニケーション支援において、この技術は大きな可能性を持つものとして広がりつつある。

 

Cさんにも、この装置を試してみることになった。

 

でも最初は、なかなかうまくいかなかった。

 

目の動きは微細で、焦点を合わせ続けることにも体力がいる。「YES」のボタンを見つめているつもりが、少しズレて「NO」が選ばれる。何度やっても思った通りにならない。

 

Cさんの表情が、少しずつ曇っていった。

 

私はそのとき、焦りを感じていた。うまくいかないことへの焦りではなく——Cさんが「また伝わらなかった」と感じるたびに、何かが少しずつ削られていくような気がして。

 

セッションを切り上げ、「また明日やってみましょう」と言うのが、精一杯だった。

 

 

 

それからしばらく、毎日少しずつ練習を続けた。

 

装置の設定を調整した。Cさんの目の動きのクセを観察して、感度を変えた。画面のレイアウトを変えた。「YES」と「NO」のボタンを大きくした。Cさんが疲れてきたと感じたら、すぐに休んだ。

 

そして、ある朝のことだった。

 

「Cさん、今日は調子はどうですか」

 

画面の前に座り、私がいつものように問いかけた。

 

Cさんの目が、ゆっくりと画面の一点に向かった。

 

止まった。

 

「YES」。

 

画面の文字が、静かに光った。

 

私は一瞬、息を飲んだ。

 

「伝わりましたか、Cさん」

 

もう一度、問いかけた。

 

Cさんの目が、また同じ場所へ向かった。

 

「YES」。

 

その瞬間、Cさんの目の端に、光るものが浮かんだ。涙とも、光の加減とも言えないような——でも確かに、何かが変わった瞬間だった。

 

 

 

「伝わる」ということが、人にとってどれほど大切か。

 

私たちは普段、それをあまり意識しない。話せば伝わる。書けば伝わる。表情で、しぐさで、声のトーンで——無数の方法で、毎日無数のことを伝えている。

 

それが突然、すべて奪われたとき。

 

Cさんが長い時間をかけて体験してきたのは、その孤独だったのだと思う。伝えたいのに伝わらない。そこにいるのに、いないみたいに扱われてしまうような感覚。

 

「YES」のひとことは、その孤独を破った。

 

Cさんは翌日から、少しずつ言葉を増やした。「痛い」「眠れない」「ありがとう」——短い言葉が、画面を通じて現れるたびに、部屋の空気が変わった。

 

担当の看護師が言っていた。「Cさん、最近目が違います」と。

 

以前は何かを諦めたような、遠くを見るような目だったという。でも「YES」が出てから、人の顔をちゃんと見るようになった、と。

 

目線が変わった。それだけで、関わる人全員の対応が変わった。

 

Cさんがそこにいる。ちゃんと、ここにいる。

 

その当たり前のことが、ようやく伝わるようになった。

 

 

 

この連載を通じて私が伝えたいことのひとつに、「再起動は孤独の中では起きない」というものがある。

 

Aさんがズボンを履けたのは、一緒に方法を探す人がいたからだ。Bさんが靴下に手を伸ばせたのは、毎日部屋に来て卵の話をする人がいたからだ。そしてCさんが「YES」を伝えられたのは、「伝わるまで諦めない」という時間を、誰かと共に過ごせたからだ。

 

回復は、身体だけの話ではない。

 

「自分はここにいる」「伝わった」「わかってもらえた」——そういう感覚が積み重なるとき、人の心と身体は、少しずつ動き出す。

 

Cさんとの最後の面談のとき、私は「担当が変わることになりました」と伝えた。

 

画面の前に座ったCさんが、少し時間をかけて、言葉を選んだ。

 

「ありがとう」。

 

それだけだった。でも私には、その二文字の重さが、ずっと胸の中に残っている。

 

身体が動かなくても、消えないものがある。

 

伝えたい気持ちは、最後まで——その人の中に、ある。

 

❏ライタープロフィール

内山遼太(READING LIFE公認ライター)

千葉県香取市出身。現在は東京都八王子市在住。

作業療法士。終末期ケア病院・デイサービス・訪問リハビリで「その人らしい生き方」に寄り添う支援を続けている。

終末期上級ケア専門士・認知症ケア専門士。新人療法士向けのセミナー講師としても活動中。

現場で出会う「もう一度◯◯したい」という声を言葉にするライター。

2025年8月より『週刊READING LIFE』にて《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》連載開始。

 

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