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 【連載第46回】《“治す側”から“治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》「ドアを閉めたい、と彼女は言った」―“安全のため”に開けていたトイレの扉が、彼女から奪っていたもの―


記事:内山遼太(READING LIFE公認ライター)

※個人が特定されないよう事実関係を再構成し、一部フィクションを含みます。

 

 

——

転ばないように見守ることと、見られたくない気持ちを守ること。介助の場では、その二つがぶつかることがあります。トイレの扉を開けておきたい娘さんと、閉めてほしい母親。どちらも相手を困らせたかったわけではありません。ただ、守りたいものが違っていました。命を守るためなら、本人らしさは後回しにしてよいのでしょうか。これは、一枚の扉を挟んで、家族が「安全」と「尊厳」を選び直した日の話です。

——

「ドアを閉めたい」

Mさんは便座に腰かけたまま、目の前に立つ娘さんへ言いました。

「閉めたら、転んだときに間に合わないでしょう」

娘さんは答え、開いた扉の横から動きませんでした。廊下には私がいました。Mさんから見れば、娘さんだけでなく、訪問していた作業療法士の私にも、トイレの中が見える位置でした。

Mさんは下を向き、膝の上に置いた手で服の裾を握りました。

「じゃあ、もういい」

立ち上がろうとしたMさんの肩を、娘さんが慌てて支えました。

「まだ終わってないでしょう。危ないから、勝手に立たないで」

その言葉は強く聞こえました。けれど、娘さんの手は震えていました。怒っていたのではありません。怖かったのです。

——

Mさんは退院してから、娘さんと二人で暮らしていました。足に力が入りにくく、立ち上がるときに体が傾くことがあります。特に、下ろした服を引き上げながら立つ場面は、支えが必要でした。

退院して間もない夜、Mさんが一人でトイレへ行こうとして、便座の前でよろけたことがありました。物音に気づいた娘さんが駆け込み、床へ倒れる前に抱えました。

それ以来、娘さんはトイレの扉を開けたままにしました。昼も夜も、Mさんが便座に座っているあいだ、手を伸ばせる場所に立ち続けました。

娘さんにとって、開いた扉は失敗を繰り返さないための安全策でした。Mさんにとっては、家の中から一人になれる場所がなくなった印でした。

「母は、危ないことをすぐ忘れるんです」

トイレを出たあと、娘さんは私に言いました。

「目を離した間に何かあったら、後悔するのは私です。嫌がられても、見るしかないんです」

私は、すぐには否定できませんでした。転倒を防ぎたい気持ちは当然です。あの夜の恐怖を知っている娘さんへ、簡単に「本人の希望を優先しましょう」とは言えませんでした。

一方で、Mさんの「閉めたい」も、わがままではありません。排泄は、音や匂いを伴う、とても私的な行為です。できている部分まで常に見られるつらさがあります。

私は二人の間で迷い、結局、その日は曖昧な言葉を選びました。

「もう少し安定してから、閉める方法を考えましょう」

娘さんはほっとした顔をしました。Mさんは何も言いませんでした。

私は安全な答えを出したつもりでした。けれど、「もう少し」がいつまでなのか、Mさんには伝わっていません。

次の訪問でトイレの話をすると、Mさんは顔をそらしました。

「もう、好きにして」

頼むことさえ諦めた声でした。私はそこで初めて、安全を守るという言葉の陰で、Mさんの希望を先送りにしていたことに気づきました。

——

私は二人に、別々の質問をしました。

「娘さんは、扉を開けることで何を守りたいですか」

「母の命です。また転ばせたくありません」

次に、Mさんへ尋ねました。

「Mさんは、扉を閉めることで何を守りたいですか」

Mさんはすぐには答えませんでした。やがて、裾から手を離して言いました。

「トイレにいるときくらい、病人じゃなくて、ただの私でいたい」

守りたいものは、命と、その人でいられる時間でした。どちらかを諦める話にしてはいけないと思いました。

尊厳は、安全が完成した人だけにもらえるご褒美ではありません。助けが必要な途中にも、守られるべきものです。

そこで私たちは、動作を一つずつ分けました。Mさんが不安定になるのは、便座へ座るまでと、服を引き上げながら立つとき。座っているあいだは、手すりを持てば姿勢を保てました。

娘さんは座るまで支え、廊下へ出る。扉は閉めるが鍵はかけない。Mさんは立つ前に、手元の呼び鈴を鳴らす。娘さんは返事をしてから入り、立ち上がりと服を整えるところを手伝う。異変を感じたときは、声をかけて入る。

安全な方法は、体の状態やトイレの広さ、扉の構造によって変わります。これは二人の家で、その時点に合わせて決めた約束でした。

——

最初の練習の日、娘さんは廊下へ出ました。

扉を引きましたが、最後の十センチほどを残して手が止まりました。

「これくらいなら、いいでしょう」

Mさんは隙間を見つめました。

「閉まってない」

娘さんの顔がこわばりました。

「ごめん。今日は、ここまでにして」

Mさんは少し黙り、それから小さくうなずきました。

一枚の扉は、簡単には閉まりませんでした。娘さんの中には、あの夜の物音と、腕の中へ倒れかけた母親の重さが残っていました。正しい手順を決めても、怖さまで一度で消えるわけではありません。

私は、その十センチを失敗にしないことにしました。Mさんが希望を言えたこと。娘さんが無理に平気なふりをせず、怖いと伝えられたこと。そこから、もう一度約束を見直しました。

呼び鈴は手の届く位置にあるか。扉の外から声は聞こえるか。Mさんは座ったまま鳴らせるか。二人で確かめました。

何度か、服を下ろさずに流れだけを試しました。Mさんが鈴を鳴らす。娘さんが「今、入るね」と答える。扉を開け、手すりを持つ手と足の位置を確認してから立つ。

それでも娘さんは、扉へ手をかけるたびにためらいました。Mさんは急かしませんでした。待つ役割が、今度は母親の側へ移っていました。

——

数日後、娘さんは自分から言いました。

「今日は、閉めてみようか」

Mさんが便座へ座り、手すりを握ったことを確認すると、娘さんは廊下へ出ました。ゆっくりと扉が動き、金具の触れる小さな音がしました。

閉じた扉の前で、娘さんは耳を澄ませていました。私は少し離れ、何も言わずに待ちました。廊下の時計の音が、いつもより大きく聞こえました。

しばらくして、扉の向こうで鈴が一度鳴りました。

「入るよ」

「はい」

娘さんは扉を開け、約束どおり立ち上がりを支えました。必要な介助の量は変わっていません。変わったのは、見守る場所と入るタイミングを、二人で選べるようになったことでした。

トイレを出たあと、娘さんは深く息を吐きました。

「怖かった」

「私もよ」

Mさんが答えると、二人は少しだけ笑いました。安心したからというより、お互いが怖かったことを、ようやく同じ場所へ置けた笑顔でした。

その後も、毎回扉を閉められたわけではありません。疲れている日は、Mさん自身が「今日は少し開けて」と頼みました。呼び鈴を床へ落とし、娘さんが声をかけて入った日もありました。

大切なのは、その日の状態に合わせ、どこまで一人でいたいか、どこから手を借りたいかを、Mさんが選べることでした。

安全は本人の意思を消してつくるものではなく、尊厳も危険を見ないふりして守るものではありません。二人で何度でも方法を選び直す。それが暮らしを支える介助なのだと思います。

 

【今週の再起動実験】扉一枚分の希望を、言葉にする

「どこまで見守るか」が決まらないときは、一度だけ尋ねてみてください。「何を見られたくないですか」「どの場面なら、そばにいてほしいですか」。全部を一人で行うか、全部を見守るかの二択にせず、動作を分けて境界を決めます。

トイレや入浴には転倒などの危険があります。体の状態、住環境、合図、緊急時の入り方を、必要に応じて医療・介護の専門職と確認してください。どちらか一方に無理が残る日は、やり直してかまいません。

——

あの日、廊下で聞いた扉の音は、家族を締め出す音ではありませんでした。

助けが必要になっても、見られたくないものがある。守られながらも、自分で決めたいことがある。そんな当たり前を、家の中へ戻す音でした。

Mさんの再起動スイッチは、一人で立てた瞬間にはありませんでした。閉じた扉の向こうから、自分のタイミングで鈴を鳴らせた瞬間にありました。

あなたの家にある開いた扉は今、誰の安心を守り、誰の願いを待たせているでしょうか。

——

 

 

 

 

❏ライタープロフィール

内山遼太(READING LIFE公認ライター)

千葉県香取市出身。現在は東京都八王子市在住。

作業療法士。終末期ケア病院・デイサービス・訪問リハビリで「その人らしい生き方」に寄り添う支援を続けている。

終末期上級ケア専門士・認知症ケア専門士。新人療法士向けのセミナー講師としても活動中。

現場で出会う「もう一度◯◯したい」という声を言葉にするライター。

2025年8月より『週刊READING LIFE』にて《“治す側”から“治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》連載開始。

 

 

 

 

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