人生で圧倒的な差を生む源にして、誰もが持ちうる思念、その名は「執念」。《天狼院通信》
記事:三浦崇典(天狼院書店店主)
今、この記事は、ある作業の合間に書いている。
その作業とは、新設の「天狼院マーケティング・インスティチュート(TMI)」のオペレーション作業とシステム構築作業だ。
両方を同時並行で行っていて、正直、この1週間はほとんど掛かりっきりになっている。
数値やグラフを見すぎていて、脳が筋肉痛になっている。
たまらず、「てもみん」には毎日のように通い、
「頭を中心にお願いします」
と頼んでいる。
そして、そこで(おそらく)いびきを高らかに奏でながら、睡眠も取っている。
「天狼院マーケティング・インスティチュート(TMI)」のメインシステムは、今年の12月中に完成する予定だ。
今は、いわば、プロトタイプの構築を全力で進めているのだが、そもそも、この部署は僕の管理分野とはいえども、オペレーションまでみる担当ではなかった。
それはそうである。
スタッフは大勢いるのだ。
社長である僕が、最前線で斥候する必要は、本来はない。
けれども、やってみて痛切にわかるのだが、今の天狼院のスタッフの中では、この業務は僕でなければ務まらないのだ。
この歴然たる事実の前に、僕は日々絶望を覚えている。
スタッフを雇う前提は、常に、
「社長である僕よりも、優秀な人材」
である。
たとえば、ひとつの指標である学歴において、僕より劣るスタッフは一人もいない。
天狼院は、おしなべて高学歴である。
社員スタッフで一番多いのは早稲田大学で、一橋大学がいて、アルバイトスタッフまで入れると、慶応、立教、九州大学、同志社、立命館、京都大学まで揃ってしまう。
学歴が仕事のできるできないを決めるわけではないことは重々承知しているが、高学歴の人物が、仕事ができるよりも、できない可能性のほうがはるかに低い。
たとえば、受験というゲームの勝者であると考えれば、ゲームの攻略は得意ということだろうし、
相当量の勉強をこなしたということは、忍耐力があるという証だろうと思うからだ。
また、秘密結社的な学閥的な考え方から言っても、仕事をする上で、その友人たちは大いに役に立つ可能性を秘めている。
そして、そもそも、学歴で選ぶというより、人物で選ぶので、人物のプラス要因に加えて、高学歴の要因がプラスされることになる。
ということは、本来、極めて優秀なはずなのだ。
けれども、多くの分野を任せたとしても、この三浦ごときに成果において、勝てるスタッフは皆無だ。
どういうことなのだろうか。
素質の面でも、体力の面でも、一人一人のスタッフを見るに、劣るところは、ない。
それなのに、成果が挙げられない。
目が霞むほどに、システムの数値を見つめ、考えを繰り返すうちに、
「あ……」
と、その長年の大きな疑問が溶ける瞬間に、ついに出合ってしまった。
僕とスタッフを分けるのは、才能でも環境でもない。
たんに、一つの思念の違いだ。
そのとき、僕の頭の中に浮かんだ言葉は、
「執念」
だった。
才能ではなく、出自でも、DNAでも、年齢でも、体力でもない。
単に「執念」の問題なのだ。
スタッフになくて(あるいは、あると思いこんでいて)、僕にあるものは、唯一「執念」だったのだ。
僕の場合、後ろには誰もいない。
僕が失敗すれば、事業が後戻りできない状況になる場合もある。
この人生のゲームには、リセットボタンは用意されていない。
否応なく、僕は「やらざるをえない」。
追い込まれた状況においても、たとえ、体温計が39度を指し、体調が絶望的に悪かったとしても、僕がやらねば、誰もやらないということがわかっている。
だから、できるかどうか、ではなく、やって成果を挙げるしか、他に生きる道がないのだ。
そうなのだ。
僕には、その状況を突破するしか、他に「生きる道がない」のだ。
起業家とは常にそうであり、給料は水道によって運ばれ、ATMという蛇口を捻れば容易に出てくるわけではなく、自分に山に行き、水脈を探し、汗水たらして掘り出して、泥水を掬うしかないことを体感的に知っている。
つまり、そうして生き延びているうちに、生きるための「執念」が備わるのだ。
親のお金で食べてきて、学校にも行き、誰が作ったか意識しない会社の名刺で仕事をしてきていると、幸運なことに、この生きるか死ぬかの状況に遭遇することは稀である。
はぐれメタル的なものだ。
けれども、起業すれば、毎日がはぐれメタルである。
月末など、はぐれメタルのオンパレードである。
いやおうなく、「執念」の経験値が上がり、無限にレベルアップの音が鳴り響く。
知らない間に、起業家である我々は、「執念」レベルがMAX値に至っている。
もう、いつでも、「執念」が高いレベルで、発揮できる。
この「執念」が、少ない才能を倍加させる。
平常的に、火事場なので、ルーチンで、火事場のクソ力が出ている状況である。
こうなると、素質の問題は、意味をなさなくなる。
では、スタッフの「執念」を育てるには、どうすればいいか?
これが難しい。
たとえば、起業家の状況を、擬似的にでも創り出せればいいのだが、ビジネスコンクールのチャンピオンが、現実のビジネスでは成功するとは限らないように、学園祭の模擬店の収益の経験が、リアルなビジネスで1ミリも役に立たないのと同様に、バーチャルで創られた環境では、実戦配備に対応するくらいの、質の高い「執念」を発動することはできない。
これは、自信を持って言い切れる。
だとすれば、
「自分でちゃんと稼がないと給料ゼロね、親にも友人にも養ってもらったら駄目ね」
と、容赦ない自然のような理不尽さをスタッフに与えればいいようなものだが、それは、制度上、ほとんど不可能だ。
たとえば、全員を労働契約ではなく、フリーランスの請負契約などにすれば、できないことはないことはないこともないだろうが、現実的にはその方法のメリットは少ないだろう。
では逆に、プラスの要因を与えたらどうか。
ボーナスを増やす。
インセンティブを増やす。
しかし、生きるか死ぬかの状況に勝る「執念」を、それで人は発動できるとは思えない。
自分が「銃声なき戦場」に今リアルで立っていて、自分が勝たなければ部隊は消滅する、というひしひしとした恐怖を感じることなしに、この「執念」の発動はないだろう。
翻って考えるに、この「執念」の発動がないということは、平穏ということで、それでも高い給与があれば、それ以上の幸せはないのだろうけれども。
しかし、成果を挙げるという、とんでもないゲームの醍醐味は、その「執念」なくして、手に入れることはない。
その醍醐味があるからこそ、働くことが面白くてやめられなくなるのだ。
「仕事」という音を聞くと、小学校のときの「夏休み」という言葉を聞いたときと同じ胸の高鳴りを感じるのだ。
「執念」を発動する状況にないことは、たしかに、幸せなのだろう。
けれども、そのさきにある、仕事を醍醐味を知れない不幸を、いったい、どう説明したらいいだろうか。
永遠に、その喜びを知らずに死んだとしても、たしかに、それを不幸とは規定できないだろう。
幸福や不幸に絶対的な基準はない。
ただ、誰もが、自分の才能を極大値まで開花させ、成果を上げ、自分が生きているという実感を最大限に味わうという経験をすれば、あるいは世の中は少しは良い方向に変わるかも知れないと思うのだ。
たとえ、世の中が変わらなかったとしても、無彩色だった人生に、華やかな彩りが加わるだろうと思う。
数値を読み解き、微差を感知し、答えを絞り出すのは、「執念」である。
これは、どんな仕事にも通じることだ。
これを手に入れると、あきらかに、世界の見え方が変わるんだけどな、とぼやきながら、僕はまた仕事に戻る。
■ライタープロフィール
三浦崇典(Takanori Miura)
1977年宮城県生まれ。株式会社東京プライズエージェンシー代表取締役。天狼院書店店主。小説家・ライター・編集者。雑誌「READING LIFE」編集長。劇団天狼院主宰。2016年4月より大正大学表現学部非常勤講師。2017年11月、『殺し屋のマーケティング』(ポプラ社)を出版。ソニー・イメージング・プロサポート会員。プロカメラマン。秘めフォト専任フォトグラファー。
NHK「おはよう日本」「あさイチ」、日本テレビ「モーニングバード」、BS11「ウィークリーニュースONZE」、ラジオ文化放送「くにまるジャパン」、テレビ東京「モヤモヤさまぁ〜ず2」、フジテレビ「有吉くんの正直さんぽ」、J-WAVE、NHKラジオ、日経新聞、日経MJ、朝日新聞、読売新聞、東京新聞、雑誌『BRUTUS』、雑誌『週刊文春』、雑誌『AERA』、雑誌『日経デザイン』、雑誌『致知』、日経雑誌『商業界』、雑誌『THE21』、雑誌『散歩の達人』など掲載多数。2016年6月には雑誌『AERA』の「現代の肖像」に登場。雑誌『週刊ダイヤモンド』『日経ビジネス』にて書評コーナーを連載。
この記事は、天狼院書店の大人気講座・人生を変えるライティング教室「ライティング・ゼミ」講師、三浦が書いたものです。ライティング・ゼミにご参加いただくと記事を投稿いただき、編集部のフィードバックが得られます。チェックをし、Web天狼院書店に掲載レベルを満たしている場合は、Web天狼院書店にアップされます。
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