週刊READING LIFE vol.266

1945年8月6日に広島で起きたことを伝えていくことはできるのか?《週刊READING LIFE Vol.266 フリーテーマ》


*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライティングX」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

2024/6/17/公開
記事:ひーまま(READINGLIFE編集ライティング✕)
 
 
 西暦1945年 昭和20年。朝の8時15分、たった2機の爆撃機B―29「エノラ・ゲイ」がたった一発の原子爆弾を広島市の中心にあるT字型をした橋を目標にして投下した。
原子爆弾が炸裂したのは600メートル上空。そこで「ピカッ!どーん!」と熱線、爆風が広島市内半径2キロを焼き尽くしました。
人類が初めて手にした大量殺戮兵器だった。
核分裂によって強力なエネルギーが発生し、そのエネルギーを兵器にするようにアメリカでは極秘に「マンハッタン計画」と呼ばれる原爆製造計画が始まっており、すでに1945年7月16日にはニューメキシコ州のアラモゴードの砂漠で核実験が成功していたのだった。
 
昨年公開され各種のアカデミー賞を受賞した映画「オッペンハイマー」ではその経緯が事実に基づいて描かれていた。
私は昭和36年6月に2歳半で大阪から広島へ父の転勤でひっこしてきた。だから被爆2世ではないがそれ以来63年間広島に住むものとして世界の恒久平和のことを折に触れ考えてきている。
 
現在進行形で世界では戦争が起きている。
「なんで戦争やめられんの?」「今の私にできることって?」そんなふうに考えてわたしは2年前から広島市が主催する「被爆体験伝承者養成研修」というものに参加している。
 
第一の動機として、広島では子供のころから「平和学習」が熱心に行われている。二度とこのような悲劇を起こしてはならないとの必死な大人たちの祈りを肌で感じていた。
その最初の平和学習の記憶がじつはトラウマになっているのだ。
幼稚園の年長のころ、平和資料館の見学に行って、そこでみた資料があまりのリアルさで、数日うなされて眠れなかった体験から、広島にいながら、実際の被爆体験を聞くことも、資料館に足を運ぶことも自分自身からはできなくなっていた。このままではいけない。被爆者の高齢化が進んで体験を話せる人も少なくなってきている。
生の体験談を聞けるのは今しかない。とそう考えたからだ。
 
第二の動機として、私が2歳半で広島へ来たのは、父が広島の平和公園の中にある(現在の国際会議場)新広島ホテルへの転勤からだった。当時2歳半の私と1歳に満たない妹の遊び場は、作られて間もない平和祈念館の前の噴水であり平和祈念式典が行われる芝生の広場だった。私の原点が平和公園にある。
 
この二つの動機から2022年7月からの2週間に及ぶ養成研修に参加したのであった。そこで被爆の実相の学習があり、次に実際の被爆体験講和を10人の被爆者の方々から聞くことができた。
 
被爆当時5歳から12歳だった方々、皆さん83歳から90歳の高齢である。最初の方の被爆体験講話は実は怖くて話がなかなか耳に入ってこなかった。手に汗をかきながら真剣に話される言葉を真剣に追っていた。
 
どの人の話も一人二人と聞くうちに、怖い話。苦しい話ではなく「本当にあった話なんだ! その時の子供の実感なんだ」と一緒に焼ける広島の中を逃げているような感覚になっていった。
 
その時5~6歳だった人の話と、12歳だった人の被爆体験は当然だが視点が違う。そうか、私が怖くて悲惨で話も聞けないと思っていたのはもう大人として、実際に目の前で家族を、大事な友人をなくした人の話だったからなのかもしれないな。と思った。
 
その10人の被爆体験談の話をきいて、この人の被爆体験を是非とも伝承したい。そう感じるひととマッチングを経て2人の人の伝承を希望した。
 
その一人の人。当時6歳だった「梶矢文昭さん」の話をしてみたい。
 
その日の朝は7時過ぎに空襲警報が鳴って防空壕に隠れとったんだが、そのすぐ後に解除されたから、わしと疎開先から帰ってきていた3年生のお姉ちゃんと一緒に「分散授業所」言うとった近所の家に登校した。自分は一年生で久しぶりにお姉ちゃんと一緒に学校へ行けるんが嬉しかったんよ。
ところがどっちがバケツに水を汲みに行くんか?ゆうのでお姉ちゃんとけんかになったんじゃが、お姉ちゃんが奥の台所へ水を汲みに行ってくれて自分は玄関の拭き掃除をしておった。
これが自分とお姉ちゃんの運命をわけたんよ。
 
「ぶう~ん」という聞きなれたB-29の音がしたような気がして、外をみておったら、玄関先の八つ手の葉っぱが、ぱあっと黒焦げになった。すごい光がピカッと光った。次の瞬間がドーンで、家は一編につぶれて押しつぶされた。真っ暗じゃ。何も見えん。
 
わしがおった分散授業所は今の広島駅の裏手の大須賀町言うところで、今でいう爆心地からは1、8キロのところにあった。
ドーンとつぶれた玄関の柱の下に自分はおったので、運がよかったんじゃ。
柱と柱がテントの屋根のようになって守ってくれて、屋根がつぶれた隙間から青空がみえたんよ。
 
今でもその時の自分はほんまによう頑張ったと自分に感謝する。
6歳のわしは必死になって柱の間をくぐって、くぐって、頭で隙間をこじ開けた。その時の壁が赤土でいまでもそのにおいを覚えとる。
 
やっとの思いで外に出たら、目の前にたくさん、たくさんの人がぞろぞろ、ぞろぞろ、ぞろぞろ、ぞろぞろ、逃げて来とった。
まさに何百メートルも続いとる。そのひとに交じって一生懸命ついて逃げたんよ。
 
今だったら気持ち悪くてとても一緒に動けんだろう。やけどしとる。骨がおれとる。血をながしとる。そんな人の列じゃ。それでもこの時は必死について逃げた。はだしだったが気にもならんかった。
 
そして川に出た。その時のことを覚えとる。
猿猴川ゆうんじゃ、むかいは白島の町でこちら側が二葉の里いう町。そこから見えていた白島の町があっという間に燃え出した。
川へ降りる石段から、まさに雪崩のようにひとが下りてきた。
河原にはもうたくさんの人が避難しとったけれど、それ以上の人間が死んで流れておったんよ。自分は川のこちら側じゃから山のほうへまた一生懸命に逃げた。
 
もう子供の自分には何が起こっとるのかわからん。
みんなについて必死に逃げた。ただ大変なことが起こったんじゃ。いうのは分かった。山の上に着いたら広島の町はごうごうと燃え出した。ただそれをみとったね。ここまで逃げたのが9時半か10時くらい。
そこから夕方まで記憶がない。思い出せん。足やら頭から血がでとってだれか大人が治療してくれたんは覚えとる。赤チンを塗ってくれた。夕方に近所のおばさんが一緒に逃げよう。ゆうてくれて、山から下りて一緒に逃げたんじゃ。
 
広島駅の裏は一面の原っぱで練兵場があった。そこへ逃げた。
親を探して歩いていく途中に「水をくれ、水をくれ」「水をください」いう声があちこちから聞こえてきたのをよ~覚えとる。
大変な状況でねえ、子供だから何にもできん。つらかった。
 
そして親を探して、探して、うろうろ、うろうろしとったら、たまたま近所の人がおって、「おまえは梶矢ところの僕じゃろう、梶矢の息子じゃろう、お母さん、お父さんは生きとってじゃ」ゆうてくれて嬉しかった。ほんまに嬉しかった。
「じゃが、お母さんは大けがじゃ、早ういかにゃあ、お母さん死ぬるで」言われたんでそのあと自分は覚えとらんが、うわあっと大泣きをしたんじゃそうな。
 
そしてお母ちゃんのところへ行ってみると、もう血だらけじゃった。
原爆の熱線は人を一瞬で溶かすくらいじゃが、その後の爆風でガラスが木っ端みじんに割れて鉄砲の玉みたいにばっと飛び散ってくる。
お母ちゃんはわしらを見送った後、家に入って窓のそばで裁縫仕事をしよった、ピカっ、ドーンでガラスが木っ端みじんに割れたのが飛んできて、なんと50個、60個ささっとった。
しかも一個は左目にもささっとった。
なんとも防ぎようがない。お母ちゃんはそのあと片目は見えんまま過ごしたんよ。
 
そいで、ふっと横を見たらお姉ちゃんが死んどった。
 
お母ちゃんの横に寝かされ取ったんだが、なぜか顔が微笑んどるような顔じゃった。それがずっと長い間謎じゃった。
お姉ちゃんも即死、その時一緒にいた友達も即死。わしは生き残ってよほど運がよかったんじゃと思うとる。
 
その時を同じくして「原民喜」という作家がその時のことを書き残しとるんじゃが「コハ今後生キノビテコノ有様ヲツタエヨトノ天ノ命ナランカ」と書いとる。同じ気持ちじゃ。
 
どうかこの体験を次の世代につないでもらいたい。
 
いまある核兵器は広島型の原子爆弾の100倍の威力がある。
100倍なら200キロの範囲が一瞬で壊滅する。長崎に落とされて2度あった原子爆弾の被害は、絶対に3度おこしちゃいけんのよ。
 
3度目を絶対に許しちゃいけんのだ。その信念がだんだん強くなっとるんよ。この話をつないでもらいたいんじゃ。
 
梶矢さんの話はここで終わりではない。
梶矢さんの戦後、広島の戦後は何があったのか、私は初めて広島に住む者の意味が分かったような気がした。
 
広島を悲劇の広島で終わらせてはならない。広島の今の平和で美しい街並みを見て強くそう思う。
 
今まで知ろうとしてこなくてごめんなさい。
今こそ聞かなくてはいけませんね。今年は被爆後79年です。
この先ずっと平和な日本。平和な世界を作るために、まず広島の被爆の実相を知ってもらいたい。できれば被爆者の生の声を聴いてもらいたい。そして一人一人が平和を考えてもらいたい。
 
最後に梶矢さんの口癖は「いきとりゃいいことがあるで。」です。
この被爆体験はたった一発の原子爆弾で死んでいった14万人のうちの一人の話です。あのとき頑張って生きてくれた梶矢さんの話をとにかく私は伝えていこうと決意しています。
平和の実現に向かって、ちいさな風を起こしたい。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール

大阪生まれ。2歳半から広島育ちの現在広島在住の65歳。2023年6月開講のライティングゼミを受講。10月開講のライターズ倶楽部に参加。様々な活動を通して世界平和の実現を願っている。趣味は読書。書道では篆書、盆石は細川流を研鑽している。

 
 

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2024-06-12 | Posted in 週刊READING LIFE vol.266

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