彼が語った名セリフは、迸る愛情そのものだった《週刊READING LIFE Vol.267 迸る》
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2024/6/24/公開
記事:山田THX将治(READING LIFE編集部公認ライター)
「これ以上練習しても、今までの様に上達出来ない」
そう語って、彼は23年に亘る現役生活に終止符を打った。
それまでに聞いたことが無い、実に恰好良い引退宣言だった。
元祖“鉄人”と呼ばれた彼は、豪快なフルスイングがトレードマークのプロ野球選手だ。
広島カープの黄金期を築いた彼の名は、衣笠幸雄(きぬがさ さちお)。
連続試合出場記録(当時・世界新)更新によって、プロ野球選手として二人目の国民栄誉賞(一人目は、王貞治氏)を授与された。
野球選手としては、決して大柄ではない体格(175cm)にも拘らず、休まず試合に出続けることが出来たのは、偏(ひとえ)に身体が頑丈だったからだ。
そして、恰好良い引退会見にも在る通り、体格差を埋め様と長所の頑丈さで努力(練習)し続けたのだ。結果として、連続試合出場の記録を打ち立てた迄だ。
衣笠幸雄選手は、野球に対する姿勢からか、引退するまでの間に数々の印象に残る名言を残している。
カープから遠く離れた東京生まれ・育ちの私だが、或る切っ掛けが元でデビュー間無い衣笠選手を注目する様に為った。
彼がプロ野球デビューを果たした1965(昭和40)年、私は小学校に入学した。
今でも発売されている雑誌『小学一年生』4月号の付録に、プロ野球選手名鑑が付いて居た。
当時は、長嶋茂雄選手や王貞治選手の全盛期が始まったばかりの頃だった。当然私も、巨人軍の選手のことを必死に‘ルビ’を頼りに読んだものだ。
そんな中で、高校野球の名門、京都・平安高校から広島カープに入団した、衣笠幸雄選手の記事を目にした。
衣笠選手のことは、前年の高校野球(甲子園大会)のテレビ中継の際から注目していた。日本人離れした目鼻立ちと、キャッチャーとして際立ったフットワークと俊足と感じたからだ。
小学一年生の私は、付録の記事の中で、衣笠選手との意外な共通点を発見した。
衣笠選手の生年月日が、1947(昭和22)年1月18日と記載されていたのだ。
1947年生まれということは、1959年生まれの私とは同じ干支(亥年)と為る。
更に、1月17日生まれの私とは、一日違いだった。
そんなことから私は、衣笠幸雄選手に対し妙な親近感を覚えた。
因みに、衣笠選手と同年同日生まれの有名人に、北野武(ビートたけし)氏が居る。
私にとって、同干支で誕生日が一日違いの衣笠選手と北野武氏は、どこか、同じ星周りを持っている様な気がして為らない。
一方的な想いだが。
一般的に、頑丈な身体で試合を休むことが無い衣笠選手だったので、“鉄人”のニックネームが付いたと伝えられている。
しかし、衣笠選手をデビュー時から注目していた私は、“鉄人”と呼ばれる様に為った真の理由を知っている。
高校を卒業後、直ぐにプロ野球の世界に飛び込んだ衣笠選手は、即戦力と見込まれての入団では無かった。
その証拠に、入団時衣笠選手に与えられた背番号は、野球人生後半に背負い、後にカープの永久欠番と為る“3”ではなく、いかにも一軍半的な背番号“28”だった。
元気が良い衣笠選手は、直ぐに人気者と為り、背番号にあやかって“鉄人”と呼ばれる様に為った。
そう、人気テレビアニメ『鉄人28号』に因んで付けられていたのだ。
衣笠選手は、18歳で入団した後、最初の10年間は背番号“28”でプレイしていたのだ。その後、永久欠番と為る“3”に背番号が変更されたのは、彼が不動の中心選手に昇格し、広島カープが初のリーグ優勝を飾った1975年のことだった。
連続試合出場を続けていた衣笠幸雄選手は、背番号が“3”に替わる頃既に、“鉄人”としての歩みを続けて居り、誰もがそのまま“鉄人”のニックネームで、衣笠選手を呼び続けた。
連続試合出場の記録を打ち立てた際にも、衣笠選手は印象に残る名セリフを残している。
それ迄の連続試合出場記録は、NYヤンキースのルー・ゲーリッグ選手が、1925年から39年に架けて樹立した2,130試合だった。つまり戦前の話だ。
その記録を半世紀近く経った1987年に、衣笠選手は破ったのだ。
世界新記録樹立に付いて問われた衣笠選手は、ゲーリッグ氏に敬意を払い、
「半世紀も前に、私と同様に野球を愛し敬意を払っていた選手が居たことを、改めて誇りに思います」
と、実に恰好良いコメントを残した。
その後、連続試合出場を衣笠選手は、2,215試合迄伸ばした。
記録というものは、いつか塗り替えられるものだ。衣笠選手の連続試合出場記録も、1996年6月14日(US時間)に、ボルティモア・オリオールズのカル・リプケン選手によって破られた。
新記録樹立の試合に招かれた衣笠氏は、試合前の始球式を任され(捕手役はリプケン選手)た。
始球式後、衣笠氏は、
「この記録(連続出場)が、僕からリプケンに渡ったという演出ですね」
と、語った。
それを受けて、リプケン選手は、
「今日の祝福は、日本の野球への祝福でもある」
と、敬意を示した。
現地20時34分、試合成立が確定すると、バックネット近くで観戦していた衣笠氏は、
「Hey! Cal! Congratulation!!」
と、リプケン選手に声を掛け、新記録を称えた。
試合終了後、日本のプレスに向かって衣笠氏は、
「あの時(試合成立時)、今日初めて彼と逢ったばかりなのに、そこには二人しか知り得ない世界が在った」
と、語った。
加えて、
「これからの彼は、一人歩きして行かなければ為らない。可哀そうです」
と、前置きして、
「僕も記録が掛かった時は『こんなもの無ければいい』と思ったことだって有りますから」
と、本音を吐露した。
大記録は、“鉄人”といえども重荷だったのだ。
リプケン選手は、それに対し、
「(衣笠氏は)素晴らしい男で、彼を友人と呼べることは誇りです。彼に対する尊敬の念は非常に大きい」
と、応えた。
多分、“鉄人”の領域に達した者にしか理解出来ない、特有の絆だったに違いない。
また、同じレベルでの視野から溢れる、競技への敬意なのだろう。
事実、カル・リプケン選手は、連続試合出場数を2,632に迄伸ばした。
リプケン選手の愛称は、勿論、“アイアンマン(Iron man・鉄人の意)”だ。
彼の背番号は、“8”なのに。
衣笠幸雄選手といえば、野球に対する真摯な態度もさることながら、男気溢れる言動でも知られている。
勿論そこには、野球に対する愛情が裏打ちされている。
有名なところでは、1979年に西本投手(巨人)から受けたデッドボールが有名だ。西本投手が得意とするインコースに喰い込むツーシーム(シュートボール)が、衣笠選手の背中に当たり肩甲骨を亀裂骨折して仕舞った。
連続試合出場を続けていた衣笠選手の記録が途絶えると、場内は騒然となった。
駆け寄って謝罪する西本投手に向かって、衣笠選手は倒れ込み痛みに耐えながら、
「危ないからベンチに下がっていろ!」
と、助言した。
翌日の試合前、ベンチを訪れて謝罪する西本投手に対し、衣笠選手は、
「これからも遠慮せずに、(インコースへ)投げ込んで来い」
と、言い放った。
そしてその日、連続出場記録の為、代打で出場すると、当時巨人の大エース江川卓投手の快速球の前に、三球三振に倒れた。
そして衣笠選手は試合後、
「1球目はファンの為に、2球目は自分の為に、3球目は西本君の為に(フル)スイングしました」
と、恰好良く語った。
そればかりか、手加減せず速球を投げ込んだ江川投手に対し、
「それにしても江川君の球は速かった」
と、称えるコメントを残している。
同1979年に衣笠幸雄選手は、忘れ得ぬアドバイスを同僚にしている。
アドバイスを受けたのは、当時カープの絶対的クローザーだった、江夏豊投手だ。
場面は、あの有名な『江夏の21球』のシーンだ。
対近鉄の日本シリーズ第7戦9回裏、日本中が手に汗握っていた場面だ。
広島ベンチの不可解な行動に、江夏投手は苛立っていた。グランドでそれを察知した衣笠選手は、マウンドに駆け寄ると、
「お前(江夏投手)が馘(クビ)に為ったら、俺も一緒にユニフォームを脱いでやる」
と、泣けそうな一言を掛けた。
衣笠選手の男気と愛情に触れた江夏投手は、冷静さを取り戻し、後続の近鉄打者を抑えて見せた。
この時の顛末は、直ぐに公開されることは無かった。
我々一般のファンが知るに至るのは、故・山際淳司氏の名著『江夏の21球』が公開されてからのことだった。
自分の功績を必要以上に誇示しない、衣笠選手らしい行動だと感じたものだった。
“鉄人”と呼ばれた衣笠幸雄氏だったが、6年前の2018年4月23日、癌に依り天国へ旅立たれた。
同じ星周りと勝手に思い込んでいた私は、少なからず、その若過ぎる氏の死にショックを受けた。
衣笠幸雄氏の七回忌と為る、今年の4月23日。
私は勝手に、個人的・衣笠氏の法要を行うことにした。
改めて、衣笠氏の野球人生に関する文献を読み返し、映像を観返した。
そして一つ、失念していた衣笠氏の恰好良いセリフを発見した。
引退後のテレビ番組(トークショー)で、自らの野球人生を問われた衣笠氏は、
「もし、野球という競技と僕が競争したと仮定すると、ほぼほぼ五分の引き分けだったでしょう」
そして、暫く間を置いて、
「でも、ほんの少しだけ僕が勝ったと、野球の神様は認めてくれるかもしれない」
「それほどまでに僕は、野球と向かい合って来た」
と、にこやかに語った。
衣笠氏の表情は、‘野球少年’、いや、‘野球小僧’そのものだった。
私がそう感じたのは、衣笠幸雄選手の言動が、野球愛に溢れているからに他ならない。
いや、
野球愛が、迸っていると表現した方が的確だろう。
□ライターズプロフィール
山田THX将治(天狼院・ライティングX所属 READING LIFE公認ライター)
1959年、東京生まれ東京育ち 食品会社代表取締役
幼少の頃からの映画狂 現在までの映画観賞本数17,000余
映画解説者・淀川長治師が創設した「東京映画友の会」の事務局を40年にわたり務め続けている 自称、淀川最後の直弟子 『映画感想芸人』を名乗る
これまで、雑誌やTVに映画紹介記事を寄稿
ミドルネーム「THX」は、ジョージ・ルーカス(『スター・ウォーズ』)監督の処女作『THX-1138』からきている
本格的ライティングは、天狼院に通いだしてから学ぶ いわば、「50の手習い」
映画の他に、海外スポーツ・車・ファッションに一家言あり
Web READING LIFEで、前回の東京オリンピックの想い出を伝えて好評を頂いた『2020に伝えたい1964』を連載
続けて、1970年の大阪万国博覧会の想い出を綴る『2025〈関西万博〉に伝えたい1970〈大阪万博〉』を連載
加えて同Webに、本業である麺と小麦に関する薀蓄(うんちく)を落語仕立てにした『こな落語』を連載する
更に、“天狼院・解放区”制度の下、『天狼院・落語部』の発展形である『書店落語』席亭を務めている
天狼院メディアグランプリ38th~41stSeason四連覇達成 46stSeason Champion
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