と、溶ける! 溶けそうだ!!《週刊READING LIFE Vol.276 あの夏の日》
*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライティングX」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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2024/9/3/公開
記事:山田THX将治(READING LIFE編集部公認ライター)
「当機は、後30分程でロサンゼルス(L.A.)国際空港に到着致します」
現在では、もうこんなアナウンスが有るのか知らないが、昔の飛行機では、よくこういったアナウンスが、機長直々にされることが多かった。
今から、45年前(1979年)の7月末のことだった。
東京(成田)からL.A.への直行便が就航したばかりの当時、我々が乗り込む旅客機は、ボーイング747型機(通称・ジャンボジェット)だった。
現代の飛行機と比べ、大きかっただけでなく、一度に運ぶ乗客集も多かった(500名超)。
その結果、座席、特にエコノミークラスは、背もたれを倒すような空間も無く、とてもフライト時間中、耐えられたものでは無かった。
それでも当時、20歳の大学3年生だった私は、血気盛んだったせいか全くの疲れを見せず、元気にアメリカ本土へ乗り込む勢いだった。
機内アナウンスは、更に、
「現地(アメリカ西部)時間12時の定刻到着の予定です」
「現地(L.A.)の天候は、晴れ。気温は、摂氏34度です」
「そろそろ、降機の御用意を御願い致します」
と、続いた。
私は、トイレが混み合うのを避ける為、一先ず座席に留まった。
そして、
『流石に、日本の飛行機(日本航空)は、遅れないものだなぁ』
『現地の天候って、カリフォルニアは晴れているに決まっているだろう!』
『それにしても、34℃とは暑いものだな。成る程、“Sunshine State(サンシャイン・ステイト〈太陽光州の意〉)”という訳だ。恐れ入ったな』
と、頭の中でツッコミを入れていた。
当時の日本では、滅多なことで30℃の中程迄は気温が上がることは無かった時代だ。
無事L.A.空港にランディングした日航のジャンボ機は、当時の日本では珍しかったボーディングブリッジに横付けされた。
若いといっても、12時間のフライトに疲れた私は、フラフラとした足取りで入国手続きに向かった。同じツアーに参加した人達も、私に続いて歩いていた。
1979年のL.A.は、現代とは違っていた。特に空港が。
先ず、当時のL.A.には未だ、地下鉄が走っていなかった。当然のこととして、空港から市内へは、バスでの移動だった。
又、開催が決まっていた1984年のオリンピックに向けて、空港は改装の真っ最中だった。
私達は、トランジットの為、工事箇所を避けながら遠回りをして国内線搭乗口に移動しなければ為らなかった。
何しろ、日本航空の到着ロビーは、一番端っこに位置していたのだ。
私は思わず、
「敗戦国だから馬鹿にされているのか?」
と、時代錯誤なジョークを口にしてしまった。
何しろ、所々で屋外へ出ながらの移動は、長距離移動の後では辛かった。
屋内は、必要以上の冷房が効いているものの、屋外は34℃で直射日光に晒されるのだ。
意外なことも有った。
気温34℃の中で、旅行の大荷物を持って移動しているにも拘らず、全く汗をかかないのだ。
喉は乾くので、売店で飲み物(当時はペットボトルではなく缶入り)を購入し飲んだのだが、一向に汗が出て来ないのだ。
しかも、
『長時間のフライト時は、長袖の衣類で』
と、旅行代理店から注意を受けていたので、私は長袖のシャツを着ていたのに。
これは完全に、湿度の関係だと思った。
日本で34℃と為ったら、今年同様、熱中症の心配をしなければ為らないことだったろう。
ところがカリフォルニアの34℃は、湿度が殆ど無い(雨が降らない)ので、耐えられない気温とは感じなかった。
それより、旅行前に代理店から注意された必須の持ち物に“リップクリーム”は在ったことを思い出した。
湿度の高い日本では、リップクリームは冬しか活躍しないのに。
湿度が低いカリフォルニアに、湿度の高い日本からやって来ると、途端に唇が渇いてくるのだ。夏で、毛穴が広がった日本人は、一気に体内の湿気をアメリカの大気に奪われているのだ。
それで、全く汗をかかなかったのだ。
汗っかきの私だったのに。
猛暑の中の移動を経て、私達は無事、次の目的地へ向かう国内線に搭乗した。
目的地は、アリゾナ州の州都フェニックスだ。
フェニックスの街は、立派な大都市ではあったが、伝統がある街では無かった。
何故なら、南北戦争後に計画的に砂漠の中に造られた街だ。
アリゾナ州の大半は砂漠で、愛称は“Cactus State(カクタス・ステイト〈サボテン州の意〉)”。云い得て妙だ。
フェニックス空港に降り立った私達は、ホテルからの迎えのバスを待っていた。
相変わらず、空港内の冷房はギンギンに効いていた。
ふと外を見た私は、大きな温度表示を見付けた。
表示は、“122℉”と出ていた。
『122度って、沸騰してるじゃん』
と、考えた私は、外へ出て様子を見ることにした。
大丈夫。何しろ外は、汗も出ない低い湿度なのだ。
ところが、たった一歩外へ出た私は、反射的に屋内へ戻った。
そして、同行者に、
「と、溶ける! 溶けそうだ!!」
と、報告した。
そして、ツアー参加者の中で、アメリカ慣れして居そうな男性に、
「華氏122度って、摂氏何度ですか?」
と、訊ねた。
男性は、少し考え、
「そうだなぁ…… 摂氏だと50度だな」
と、涼しい顔で答えてくれた。
私は、
「50℃も有ったら、アイスクリームでなくとも溶けるよ。人間だって、溶けるかもしれない」
と、言った。
冷房完備の送迎バスで、私達はホテルへ送り届けられた。
私はホテルのフロントマンに、
「50℃にも上がる日は、絶えず有るのですか?」
「夜は何度位迄下がるのですか?」
「こんな場所へ、夏場に旅行するのはおかしいですか?」
と、立て続けにたどたどしい英語で訊ねた。
猛暑の中、ジャケットにネクタイ姿(屋内は涼しいので当然)のフロントマンは、私にも解る様にゆっくりとした口調で、
「はい、122℉は滅多に上がりませんが、それ近く迄は上がります」
「何しろ、ここ(フェニックス)はマイアミと並ぶ“避寒地”です」
「夜には、68℉位迄下がります。それまで、当ホテルのプールで御過ごし下さい」
と、丁寧に答えて下さった。
“避寒地”とは、初めて聞く言葉だったが。
華氏68度は、摂氏だと20度の筈だ。
私は気温が下がる迄、部屋に避難することにした。
連続のフライトで流石に疲れた私は、部屋に入るなりベッドで横に為った。
そして、
『さっき、避寒地って言っていたけど、日本には避暑地しかないものなぁ』
『日本の冬なんて、アメリカに比べりゃ、そんなに寒くはないのかなぁ』
等と、考えていた。
私は、フロントマンに勧められたプールへは、直ぐに向かわなかった。
何故なら、いくら泳ぐとは言うものの、50℃の外気は危険と感じたからだ。
そしてもう一つ、当時ならではの理由が有った。
1970年代は後半に為ったとはいえ、未だ未だ、アメリカにおける人種偏見が残っていた時代だ。
ホテルに到着して直ぐ、私はプールを覗いていた。そこには、はしゃぐ子供と遊んでいるファミリーと、数人の若者が居た。
その全ては、白人だった。
なので、私は、プールに入るのを躊躇ったのだ。
『日本人は間違っても、白人と同じ行動をしてはいけない。何故なら、日本人は有色人種なのだ』
これは、私が数多く観ていたアメリカ映画から学んだことだ。独自ではあるが、私達は白人ではなく有色人種であることを、教訓として心に刻んでいた。
事の善悪は別として。
私は、一眠りした後、部屋の窓からプールを覗いてみた。
外はすっかり日が暮れ、だいぶ涼しく為った様子だった。
夜のプールには、黒人の子供達が泳いでいた。
そこへ、白人の男性が飛び込んでいった。多分、人種偏見が無い方なのだろう。
私は、部屋で水着に着替えると、日本から持参したビーチサンダルを履いて、プールへ向かった。
30℃は優に切った気温は、少々寒く感じた。
でも、ここで一気に身体を疲れさせ、一晩爆睡して時差ボケ(ジェット・ラグ)を解消しようと考えた私は、準備運動もそこそこにプールへ飛び込んだ。
そこには、黄色人種の日本人が一緒に泳いでも、嫌がる人は居なかった。
寧ろ、初めて黄色人種の肌を見たであろう黒人少年が、珍しい物を見る様に、私の泳ぎを眺めていた。
暫く、プールで泳いでいた私は、急激な疲労感に襲われた。
理由は解からなかったが、兎に角突然のことだった。
私は、悪い予感がしたので、泳ぎを諦めてプールから上がった。
飛び込んだ時よりも、涼しく感じた。
部屋に戻り、シャワーを浴び、水着を洗濯してベッドに入った。
そして私は、或る事を思い出していた。
小学校の理科の授業でのことだ。
水は空気(大気)に比べ、温まり難く冷め難いという法則だ。
要するに、昼間50℃あった気温は、日が陰ると一気に冷え、20度近く迄下がる。
反対に水(プールの)は、昼間50℃に為る日光で温められ、気温に近い温度迄上がっていた。日が陰っても、外気程は一気に下がらない水温は、多分、40℃近い水温が有った筈だ。
40℃といえば、風呂の温度と同じだ。
その時の私は、風呂の湯の中で泳いでいたのだ。しかも、全力で。
疲れるに決まっている。
私は、人間も溶けそうな気温50℃の御蔭で、小学校の理科を復習出来たのだった。
今年は、猛暑と為っている日本。
各地で、猛暑日が連発している。
でも、華氏122度、摂氏なら50度を体験した私は、
『大したことないさ』
と、うそぶきたくなるのも事実だ。
そして、もう少しだけ、
今年の様な猛暑に耐えられそうな気がするのだ。
□ライターズプロフィール
山田THX将治(READING LIFE編集部公認ライター)
1959年、東京生まれ東京育ち 食品会社代表取締役
幼少の頃からの映画狂 現在までの映画観賞本数17,000余
映画解説者・淀川長治師が創設した「東京映画友の会」の事務局を40年にわたり務め続けている 自称、淀川最後の直弟子 『映画感想芸人』を名乗る
これまで、雑誌やTVに映画紹介記事を寄稿
ミドルネーム「THX」は、ジョージ・ルーカス(『スター・ウォーズ』)監督の処女作『THX-1138』からきている
本格的ライティングは、天狼院に通いだしてから学ぶ いわば、「50の手習い」
映画の他に、海外スポーツ・車・ファッションに一家言あり
Web READING LIFEで、前回の東京オリンピックの想い出を伝えて好評を頂いた『2020に伝えたい1964』を連載
続けて、1970年の大阪万国博覧会の想い出を綴る『2025〈関西万博〉に伝えたい1970〈大阪万博〉』を連載
加えて同Webに、本業である麺と小麦に関する薀蓄(うんちく)を落語仕立てにした『こな落語』を連載する
更に、“天狼院・解放区”制度の下、『天狼院・落語部』の発展形である『書店落語』席亭を務めている
天狼院メディアグランプリ38th~41stSeason四連覇達成 46stSeason Champion
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