週刊READING LIFE vol.279

姪と妹とバイオリンの話《週刊READING LIFE Vol.279 音楽が変えた瞬間》


*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライティングX」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

2024/9/23/公開
記事:亀子美穂(READING LIFE編集部ライティングX)
 
 
「ねえ、何とかならないかしら?」
電話の向こうの母の声は真剣だった。
「もう、私、見ていられなくて……」
 
今からもう20年近く前の話だ。
母が心配していたのは、中国系マレーシア人と結婚してクアラルンプールに住んでいる妹の事だった。
妹には娘が2人いる。妹はその娘たちを連れて、夏休みに東京の実家に里帰りをしていた。
何年かぶりに孫の顔が見られると、母はとても楽しみにしていたのだった。
「どうしたの?」
「それがね……」
 
母の心配は、妹が娘のバイオリンに入れ込みすぎているという事だった。
バイオリンをやっているのは当時10歳になる上の子の方。
以前からバイオリンを習わせているというのは妹から聞いていた。
私も母も、普通の習い事程度の事だと思っていたのだ。
しかし、どうもそうではなかったらしい。
今回の里帰りで東京に来た時もバイオリンを持参してきていて、毎日3時間欠かさずに、妹がつきっきりで練習をさせているのだそうだ。
 
「せっかくマレーシアから東京に来たんだから、もっと遊ばせてやればいいのに」
母はとても不満げだった。
孫娘たちが来たら一緒に東京のいろいろな所に連れて行ってやろうと思っていた母の思惑がすっかり外れてしまったからだった。どこに遊びに連れて行っても、バイオリンの練習時間を確保するために早々に切り上げて家に戻らされる。
 
そして、練習が始まると、「違う。そうじゃないでしょ?」とか「もう一度!」などといった妹の叱咤がバイオリンの音とともに家中に響き渡り、それに「ノー!」とか英語か何かわからない言語で反抗している姪の叫び声が重なり、阿鼻叫喚の殺伐とした空気が家中に広がっているのだそうだ。その間、下の子はずっと、1人でゲームをしているらしい。
「上の子もかわいそうだし、下の子もほったらかしで、もう、本当にかわいそうで……」
電話の向こうの母は声を詰まらせてそう言った。
「あそこまでやる必要、あるのかしら?」
今回の東京滞在中に、有名音大の教授の先生に個人レッスンを受ける予定も入っているそうだ。
妹がいろいろなつてを頼って、頼み込んで、ようやく受けられるようになったのだとか。レッスン料も結構な金額らしい。
 
確かにやりすぎだと、母の話を聞いて思った。
妹は子供の頃から、1度思い込んだらとことんやり遂げるタイプの人間ではあったけれど、それを自分の子供にまで押し付けるのはいいことではない。
 
子供を音楽の道に進ませるのは相当大変だということは、何となく知っていた。
子供が2、3歳の頃から、毎日何時間も練習をさせて、有名な先生につけたり、コンクールに出したりしても、有名音大に入るのは難しい。そして、有名音大を出たとしても、音楽家としてやっていけるのは才能あるごく限られた人間だという事も。
それは、漫画や小説で読んだり、テレビドラマで見たりした情報だ。
天才的な才能を持った主人公が、苦労しながら栄光をつかむ話。
そういう主人公には大抵、隠された出自があって、伝説の名ピアニストの隠し子だったりしたものだ。
音楽の才能は遺伝によるものが大きいのかもしれない
しかし、そもそも、うちの家系に、音楽関係者は1人もいない。
妹の夫も、音楽が得意なタイプには見えなかった。
音楽の才能の遺伝子は1ミリもなさそうだった。
 
しかも妹家族が住んでいるのはマレーシア。
いくら近年経済成長著しいといっても、文化面ではまだまだ遅れている印象だった。
調べてみても、音楽大学が1校みつかった程度。
きっと、バイオリンを習う子供の数も少ないだろう。
その中で、他の子どもより少し上手に弾けて、調子に乗ってしまったのかもしれない。
現地でちょっと上手に弾けたとしても、どれほどのレベルなのだろう。
妹は姪をどの方向に向かわせたいのだろう。
 
もしかしたら、妹は姪を日本の音楽大学に留学させたいのかもしれないと思った。
しかしそれも、言葉の壁や費用など、難しい点がいくつもある。
それに、日本で英才教育を受けている子供たちと比べたら、マレーシアで、バイオリンを弾いたこともない妹がいくら頑張って練習させたところで、どう考えても勝ち目がなさそうな気がした。
せっかく留学させたところで、落ちこぼれてしまったら、元も子もない。
いや、そうなってしまった時に誰よりも傷つくのは、遊びに行くのも制限されて、毎日バイオリンを練習させられたあげくに挫折してしまった姪の方だ。
なんと理不尽な。
 
どう考えても、妹のやっていることは無謀な事だと思った。
このまま続けていてもバッドエンドしか想像できない。
なんとしても妹の考えを改めさせて、姪に普通の女の子の生活を取り戻してやりたい。
何とかしなくては。
 
「わかった。説得してみる」
私の返事を聞いて、母は少しほっとした様子だった。
「よかった。あの子、昔から頑固で、親のいう事聞かない子だったから……でも、お姉ちゃんからも言われたら、少しは考えるかもしれないわ」
どうやら、母と妹の間で、すでに1戦、交えていたようだった。
母からあれこれ言われて、妹も意固地になっているかもしれない。
母の言うように、自分が決めたことを押し通す、気の強い性格の妹の考えを改めさせるのは、容易なことではなさそうだった。
それでもやっぱり言った方がいい。
 
私はその週末に、住んでいる名古屋から、妹たちに会いに東京に行く予定になっていた。
私にとっても妹たちと会うのは久しぶりの事だった。
前に会った時はまだまだ幼い子供たちだったけど、今は10歳と8歳。大分大きくなったんだろう。
その姪たちのために、妹を説得しなくては。
 
頭の中で何度もシミュレーションしてみた。
子供のためと思ってやっていることが、必ずしもその子のためになるわけではない。
子供が幸せになることが一番じゃないの?
親の欲だけで子供に苦労を強いてはだめ。
 
やっぱり、感情的にならず、妹の理性に訴えるように話を持って行った方がいいだろう。
頭ごなしに否定するのではなく、妹の考えも尊重しながら、こちらの考えをやんわりと伝えよう。
ほったらかされている下の子の事も引き合いに出したほうがいいかもしれない。
そんなことを考えながら、週末を迎えた。
 
実家に着いたのは、昼過ぎだった。
妹と姪たちへの名古屋土産の紙袋を下げた私が実家の玄関の扉を開けた途端、妹の怒声と、それに反抗するような姪の金切り声が聞こえてきた。
「これかー」
母が言っていた通りだった。
殺伐とした空気。
 
急いで家に入り、妹たちがいるリビングへ向かった。
バイオリンを持って立っている姪。傍らに置いた椅子に座っている妹。
妹は私の姿を見ると、
「もう少しで終わるから」
と言った。あくまでも練習はきっちりやるつもりらしかった。
私が来た気配を感じて、別室にいた母も出てきた。
私と母がいるのもお構いなしで、妹は姪との言い合いを続けた。
母も私も、その迫力に圧倒されて、ただ見ているしかなかった。
 
こんなこと、本当に辞めさせた方がいい。真剣に思った。
唯一の救いは、妹が一方的に姪を責めているわけではなく、姪も相当反撃している事だった。
どうやら2人は、練習中の曲のある部分の弾き方について、揉めているようだった。
先生が言ったことの解釈が2人の間で異なっていたらしい。
最後に妹が折れた。
「オーケー。そういう事ね。あ、はあ、わかった。じゃあ、コンティニュー」
妹が英語交じりの日本語で言った。姪との会話はいつもこんな感じらしい。
妹が姪に説得されて引き下がったのは、珍しいと思った。
でも、毎日毎日こんな風に衝突してまでやるものなの?
この練習が終わったら早速妹にこう言ってやろうと決心した。
 
気を取り直した姪が、すっとバイオリンを構えた。
そして練習曲の続きを弾き始めた。
 
「あ……」
 
何と言ったらいいのかわからなかった。
全然知らない曲だった。特に名曲というわけではない。
しかし自分がそのバイオリンの音色に惹きこまれていくのを感じた。
バイオリンを聴くのは初めてのことではない。
クラッシックの演奏会にも何度か行ったことがあって、弦楽四重奏の曲を聴いたこともあった。
バイオリンは演奏者によって、奏でる音が違う事は感じていた。
しかしこんなに心の底にしみてくる音色は初めてだった。
多分、プロの演奏家の弾くバイオリンの音色に比べたら、わずか10歳の子供の弾くバイオリンの音なんて、本当に未熟なものなのだろう。でも、私はその音色に感動してしまったのだった。
 
もっと聴いていたい。
この子にバイオリンを辞めさせたらだめだ。
 
姪のバイオリンの練習が終わった。
母は、早く妹を説得しろと目くばせをしてきたけれど、私は何も言えなかった。
 
妹も、姪のバイオリンの音色に魅せられてしまったのかもしれない。
だからあれほどのめり込めたのかもしれない。
才能があるとかそういう事はわからない。
しかし、人をのめり込ませるだけの力を、あの音色は持っていたのだ。
 
結局、私は、妹に、
「体調には気を付けてね。無理はさせないように」
と言うのが精いっぱいだった。
 
母はとても不満そうだった。
同じ音楽を聴いても、惹きつけられる人とそうでない人がいるみたいだ。
 
そして姪はバイオリンを続けた。
姪自身、バイオリンが大好きで、嫌だと思ったことはなかったのだと、後になって本人から聞いた。
1日3時間の練習が6時間に増え、妹がついていなくても練習できるようになり、ますます音色に磨きをかけていったようだ。
妹は、姪の進路について調べまくり、あらゆる方法を検討したようだ。
結局、姪はプラハの音楽大学に留学し、卒業後、現地のオーケストラの団員になった。
結果が良ければすべて良し。
あんなに反対していた母も、今では近所で孫娘の自慢話をしている。
 
あの日、実家のリビングで聴いたバイオリンの音色が、私の気持ちを変えたのは確かだ。
どんな音色だったのか、具体的に思い出すことは難しいけれど、何かとてもすがすがしい気分になったのを覚えている。音楽はそんな力をもっているのだ。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
亀子美穂(READING LIFE編集部ライティングX)

東京都生まれ。愛知県名古屋市在住。
2024年7月にライティング・ゼミを修了し、同年8月よりライティングXに途中合流。


 
 

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2024-09-18 | Posted in 週刊READING LIFE vol.279

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