週刊READING LIFE vol.294

不完全な笑顔が教えてくれたこと《週刊READING LIFE Vol.294》


*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「新・ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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2025/2/3/公開
記事:内山遼太(READING LIFE編集部 ライターズ倶楽部)
 
 
「目が、閉じない――?」
朝の冷たい光がカーテンの隙間から差し込み、ベッドから体を起こした瞬間、私は片方の瞼がどうにも閉じきらないことに気づいた。最初は「寝ぼけているだけ」と自分に言い聞かせようとしたが、手で目元に触れると、感覚がどこか鈍く、肌に違和感を覚えた。そのまま枕元の鏡を手に取ると、そこには昨日までの自分とはまるで違う顔が映っていた。
 
右の目は半開きのまま、頬は垂れ下がり、口元は片側だけが下がっている。試しに笑顔を作ろうとしても、片側の口角だけが動かず、ぎこちなく歪んだ表情が返ってきた。その瞬間、胸の奥から冷たい不安が湧き上がる。「これが……私の顔?」思わず鏡を置き、深く息をついた。
 
洗面所に向かい、歯磨きを始める。いつもの動作がぎこちなく感じる中、うがいをすると麻痺した側の口元から水がこぼれ落ちた。慌ててタオルで拭き取りながら、胸の中の不安が確信に変わっていく。「何かがおかしい……」
 
その日は、無理やり自分を奮い立たせ、いつも通りに仕事へ向かった。通勤電車に揺られる間も、頭の中は自分の顔のことばかりだった。車窓に映る自分の姿を見ては目をそらす。見慣れない歪んだ顔が、周囲の視線にもどう映っているのかを考えるだけで全身が緊張で硬直した。
 
翌朝、治っているかもしれないという一縷の望みを抱いて目を覚ましたが、状況は変わらなかった。むしろ麻痺の症状がより顕著に感じられ、右側の顔全体に力が入らない。言葉を発するたびに、麻痺が発音に影響を与えているのがわかる。滑らかに話せない自分が恥ずかしく、次第に会話そのものが嫌になっていった。
 
数日間、なんとか普通に過ごそうと努めたが、仕事中も落ち着かず、日常生活の一つ一つに支障が出るようになった。職場で同僚と話していても、相手の視線が口元に向いているような気がして、顔を見られないように俯いてしまう。毎日が息苦しく、帰宅後は疲れ果てて鏡の前で一人落ち込む日々が続いた。
 
ついに病院を訪れたのは、それから数日後のことだった。待合室で順番を待つ間、手に握りしめた診察券は汗で湿り、心臓の鼓動が耳に響いていた。「きっと一時的なものだ」と何度も自分に言い聞かせながら、順番を待つ時間は永遠に感じられた。
 
診察室に呼ばれ、医師に症状を伝えると、すぐに顔の動きのチェックが始まった。「目を閉じて」「頬を膨らませて」――どの指示も右側だけが思うように動かない。検査を終えた後、医師が口を開いた。
 
「顔面神経麻痺ですね」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に冷たい鉄塊が落ちたようだった。
 
「ストレスやウイルス感染が原因で発症することが多いですが、はっきりとした原因がわからない場合もあります。多くは回復しますが、完全に治らないケースもあるため、慎重に経過を見ていきましょう」
医師の冷静な声が、かえって残酷に響いた。「完全に治らない可能性がある」という一言が頭に残り、それ以降の説明はほとんど耳に入らなかった。
 
診察室を出ると、外の空気がひどく冷たく感じた。街を歩きながら、電車の窓に映る自分の顔をちらりと見たが、またしても目をそらした。「この顔がずっと続くかもしれない」――その思いが頭を離れず、心に重くのしかかった。
 
 
診断を受けた日から、私の生活は一変した。麻痺がもたらす不自由さ以上に、人前に出ることへの恐怖が私を苦しめた。通勤電車では、誰かと目が合うたびに、相手が私の顔を見ているのではないかという被害妄想に駆られる。職場では必要最低限の会話しかせず、それ以上はできるだけ顔を見られないように下を向いて過ごす日々が続いた。
 
もっとも苦痛だったのは食事の時間だった。家族と一緒に食卓を囲むのが好きだった私が、口元を隠して食べるようになった。スプーンからスープがこぼれるたびに恥ずかしさが込み上げ、食べ終わる頃には自己嫌悪に苛まれるようになっていった。家族は何も言わずに私に優しく接してくれたが、その優しさが逆に胸に重くのしかかった。
 
そんな中、友人からランチの誘いを受けた。断るべきか迷ったが、思い切って参加することにした。カフェの明るい空間と賑やかな声に囲まれながらも、私は全身に緊張をまとい、ぎこちなく食事を続けていた。麻痺した口元からスープがこぼれたとき、慌てて口を手で隠す私を見た友人が言った。
 
「何も気にしないで。私にとっては、あんたはあんたなんだから」
 
その一言は、私の心を少しだけ軽くしてくれた。自分では大きく変わったと思っていたが、彼女にとって私は何も変わらなかったのだ。その瞬間、初めて「私は私でいいのかもしれない」と思えた。
 
診断を受けてから数か月が過ぎても、麻痺の症状はほとんど改善しなかった。毎日鏡に向かい、動かない顔と向き合うたびに、自分の中で「以前の自分」を取り戻したいという焦りが募る。しかし、その一方で、「もしかしたら、この顔がずっとこのままかもしれない」という現実が頭をかすめるたび、心が押しつぶされそうになる日々が続いていた。
 
そんな中、ある日職場で小さな出来事が起こった。プレゼンの準備を任され、ぎこちない口調ながらも懸命に資料を説明していた私に、上司がふとこう言った。
「最近の〇〇さん、言葉が伝わりやすくなったね。話す内容が丁寧で、みんなに届いていると思うよ」
 
その言葉に、私は思わず目を見張った。顔の麻痺が原因で、話し方に自信を持てなくなっていた私にとって、その評価は思いもよらないものだった。以前の私は、滑らかな話し方や明るい表情に頼りがちだった。しかし、表情に頼れなくなったことで、言葉の選び方や説明の仕方により注意を払うようになっていたのだ。
 
その時初めて、「失ったもの」だけではなく、「得たもの」もあるのではないか――そんな考えが頭をよぎった。
 
もう一つの転機は、オンラインで見つけた顔面神経麻痺を抱える人々のコミュニティだった。半信半疑で参加したその場所では、同じような困難を抱える人々が、自分の体験や心の内を共有していた。私は勇気を振り絞り、自分の体験を書き込んだ。
 
「顔の麻痺が治らず、人前に出るのが怖くなりました。笑顔を作れない自分が恥ずかしくて仕方ありません」
投稿を送信するまで、胸の中が緊張で張り裂けそうだった。しかし、その投稿に対して、予想以上の反響があった。
 
「私も同じ経験をしました。最初はすごく落ち込みましたが、時間が経つにつれ、それも自分の一部だと受け入れられるようになりました」
「あなたの投稿を読んで、自分だけじゃないと気づけました。ありがとうございます」
 
その一つ一つの言葉が、私の中に温かな灯をともしてくれた。顔面神経麻痺を抱えた自分の存在が、誰かの力になるかもしれない――そう気づいた瞬間、胸の奥に小さな希望が芽生えた。
 
 
顔面神経麻痺は、私にとってただの「試練」ではなかった。それは、これまで自分が見過ごしてきた価値や可能性に気づかせてくれるきっかけでもあった。発症以前の私は、外見や能力に頼り、自分の価値をそれらに結びつけていた。しかし、この経験を通じて学んだのは、「真の価値は、見た目や能力ではなく、他者とのつながりや内面的な強さにある」ということだった。
 
ある日の夕方、私は母と何気ない会話をしていた。麻痺について話す中で、ふと「この顔で大丈夫なのかな……」と口にしてしまった。その瞬間、母は少し驚いた表情を見せたが、すぐにこう答えた。
「あなたはあなたよ。顔がどうであろうと、あなたの価値は変わらない」
 
その言葉に、私は涙が溢れた。自分では「変わってしまった」と感じていたが、家族にとっての私、友人にとっての私は何も変わらなかったのだ。その事実が、私の心をそっと包み込んでくれた。
 
また、オンラインコミュニティでの経験は、私にとって新しい挑戦を生み出すきっかけとなった。私は自分の経験をブログやSNSで発信し始めた。最初は不安だったが、徐々に「あなたの言葉に励まされました」「同じような状況で悩んでいましたが、前向きになれそうです」といった反応が届くようになった。
 
こうした交流を通じて気づいたのは、「困難を抱える自分自身の姿が、他者にとっての希望になり得る」ということだった。かつては孤独に押しつぶされそうになっていた私が、今度は誰かの支えになれる――それは、何物にも代えがたい喜びだった。
 
麻痺は今も完全には治っていない。それでも、私はそれを「障害」ではなく「特徴」として受け入れることができるようになった。鏡を見るたび、ぎこちなく歪んだ笑顔がそこにある。それでも、その笑顔は紛れもなく「私自身」だと思えるようになった。
 
顔面神経麻痺を経験する前の私は、他人に頼ることをどこか避けていた。しかし、今では「頼ることは決して弱さではない」と思える。むしろ、人に支えられることが、他者とのつながりを深める鍵なのだと気づいた。
 
最後に、自分に問いかけてみる。
「この麻痺がなかったら、私は本当の自分に出会えていただろうか?」
 
その答えは明白だ。この経験があったからこそ、私は「完璧ではない自分」を愛し、他者とのつながりを大切にすることを学ぶことができた。そして、それが私の人生に新たな深みをもたらしてくれた。
 
これからも、この麻痺を抱えながら、自分らしく歩み続けていきたい。そしてその姿が、同じように困難を抱える誰かの希望になれば――それ以上の幸せはないと心から思う。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
内山遼太(READING LIFE編集部 ライターズ倶楽部)

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2025-01-28 | Posted in 週刊READING LIFE vol.294

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