まともに走ったことのない私が、限界に挑戦して限界を突破した話《週刊READING LIFE Vol.294 もう止められない》
*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「新・ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
2025/2/3/公開
記事:かたせひとみ(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
つんのめるようにして玄関に倒れ込んだ。
ハア、ハア、ハア。
息が苦しくて、出そうとしても声が出せない。
息が漏れるだけで声にならない。
肺がパンパンで破裂してしまいそうだ。心臓が信じられない速さで脈打っている。
玄関の上がり框に身を横たえたまま、やっとの思いでわずかばかり頭を起こす。
そして、肩で荒い息をしながら、絞り出すようにして声を出してみる。
声にならない声が喉から漏れ、かろうじて言葉になった。
「い、い、今、な、何時、ハア、今何時ですか……」
私の必死の形相に、受付の女性は言葉を失って大きく目を見開いている。
間に合った? 間に合わなかった?
祈るような気持ちで、女性の言葉を待った。
事の発端は、そこから15分前に遡る。
私はその日夕方5時に歯医者の予約を入れていた。
歯医者までは自宅からゆっくり歩いて10分もあれば着く。
それでも少し余裕を持って自宅を出た。
冬至前の夕方は、既に日が傾きかけていた。
西の空は、夕暮れのオレンジ色と夜の紺色がゆっくりと溶けあうように、静かに美しいグラデーションを描いていた。太陽が沈み、月がその場所を静かに引き継ごうとしている。
冷たい風が頬をかすめ、冬の夕暮れが肌にしみる中、歯医者へ向かう。
半分くらいまで歩いたところで、ふとある疑問が浮かんだ。
「ガスコンロの火、消したっけ?」
なぜ美しいグラデーションを眺めていて、そんな疑問が浮かぶのかわからない。
オレンジ色から火をイメージしたのだろうか。
家を出る前の様子を思い出してみるが、確信が持てない。「消しました! 大丈夫です!」と自信を持って言い切れない。消した気もするし、消していない気もする。
こうなると、もうダメだ。気になって仕方なくなる。
頭の中で「大丈夫だよ」「いや消してないかもしれないよ」の応酬が始まる。
ここしばらく晴天が続き、乾燥注意報が出ていた。毎日のように火事のニュースが流れてくる。勢い良く燃え盛る炎が家屋を包み込む映像が目に浮かぶ。
「この家に住む70代の女性と連絡が取れていません」
「運び出された遺体は、この家に住む60代の女性と思われます」というキャスターの声を思い出す。
いかん、いかん。
もしそうなったら大変なことだ。タイミングが悪いことに、その時間、自宅には誰もいなかった。やはり、いったん家に戻って確認するしかない。
しかし、戻ったら確実に歯医者の予約時間には間に合わない。
そういえば、前回、歯医者に行ったとき、受付の横にポスターが貼ってあった。
「遅刻した方からは罰金をいただきます」
罰金って! 歯医者で罰金だなんて初めて聞いた。
でも、こうでもしないといけない歯医者側の事情もあるのだろう。ここでルールに文句を言ってもしょうがない。
さて、どうしたものか。家に戻ったら歯医者に遅刻して罰金刑。歯医者に行けば家は火事。究極の選択だ。
どうすればいい? ねえ、どうすれば?
火事も嫌だけど、罰金も嫌だ。罰金は3,000円だったか5,000円だったか?
はっきり金額は覚えていないが、やっぱり払いたくない。
二兎を追う者は一兎をも得ずだが、ここはどうしても二兎欲しい。一兎じゃダメだ。二兎だ。三兎とは言わない、二兎でいい。
欲張りだけれど素直な私の気持ちだった。
とにかくベストを尽くしてみよう。まだ出来ることはある。人事を尽くして天命を待つのだ。
歩いたら確実に間に合わないが、走れば間に合う可能性もゼロではない。私は、「走る」という賭けに出ることにした。
ただ。
私はもう何十年も走ったことがなかった。
せいぜい、会社に遅刻しそうになったとき、赤に変わりかけた信号で、小走りするくらいだ。
私は子供の頃から走るのが遅かった。だから走ることも嫌いで、体育の授業以外では走ったことがなかった。
大人になって良かったと思うことのひとつが、体育の授業がなくなったことだ。ああ、もう走らなくていいんだ! と小躍りするくらい嬉しかった。
あれから30年。「走る」とは全く無縁の日々。
その私が、軽いジョギングレベルではなく、いきなりガチで短距離走を走るのだ。出来るか? アラ還に片足突っ込んでいる私が? 走るの大嫌いな私が?
でも、ここは走るしかないのだ。走れメロス、走れ私なのだ。
歯医者へ電話しておこうか? いや、そんな時間すら無駄だ。今の私は、1秒たりとも無駄にできない。自宅に戻って火の始末をして、歯医者に到着するまでのすべてを10分以内に終わらせなければならない。途中には踏み切りもある。
「今すぐ走れ!」
私の本能がそう言っている。
とにかく走り出した。走り始めたら、どうにか「走る」という恰好は出来た。
「歩いている」とは明らかに違う。
だって、心臓が口から飛び出そうだもの。息がこんなに苦しいもの。
このまま心筋梗塞を起こしてしまうんじゃないか。私が倒れたら誰かAEDを持ってきてくれるだろうか。
でも、止まることはできない。ひたすら走るのみ。
私は必死で走った。
およそ運動する格好とは程遠い、ダウンにスカートを履いた中高年女性が荒い息をして、鬼の形相で走っている。そんな人は滅多に見ない。
異様な空気をまとっているのか、引き潮のように人々が私を避けてくれる。
いつもなら私を見かけるとすぐ話しかけてくるマンションの管理人も、あまりの勢いに言葉をかけて来なかった。
エレベーターに乗って、「閉」ボタンを連打する。
スロットマシンのプロにも負けない速さだ。
自宅の鍵を空け、キッチンへまっしぐら。
ちゃんと火は消してあった。
ああ、私って、やっぱりしっかりしてる。
大抵こんなことだ。戻ったところで、火がついていた試しがない。
消してあって喜ばしいことなのに、少しだけ「なんだよー」と思ってしまうのはどういうことか。
ひとまず火事問題はクリアした。
次は、遅刻罰金刑をクリアできるかだ。
1秒も休む間もなく部屋を後にして、歯医者へ向かった。残り時間5分ちょっと。
エレベーターの中で、息を整える。
エレベーターのドアが開いた瞬間、そこからスタートダッシュだ。
今来た道を戻る。まずは踏切を目指そう。あそこがこのレース(?)の最大の難所だ。
ひどい時には、上りと下りで計6本の電車が行き交って足止めされることもある。この時間帯はどうだろう?夕方の時間帯は電車の本数も多い……。
一瞬諦めようかという気持ちがよぎる。
ダメダメ。まだわからない。
とにかく踏切まで全力疾走しよう。
ハア、ハア、ハア。踏切が視界に入ってくる。
ああっ! なんということ! 遮断機が下りている。
万事休す……。
と思った瞬間、遮断機が上がり始めた。
直前に電車が通り過ぎ、降りていた遮断機が上がり始めるという絶妙のタイミングだった。
神様、ありがとう! この借りは今度!
私は遮断機が全部上がるのを待ちきれず、近年にない柔軟性で遮断機をくぐり、どうにか踏切を渡り切った。大きな関門を突破した。
ここから歯医者まであと数百メートル。間に合うかもしれない。希望が見えてきた。
すると!
ああ! なんてこと! 靴紐がほどけている!
しかも盛大に全部ほどけて、紐が地面を引きずっている。
踏んづけてしまったら間違いなく転ぶ。転んだら終わりだ。骨折でもしたら、この走りはすべて無駄になる。
「どうする? 止まって結び直すか? でも時間は限られている」
私の本能が弾き出した答えはゆるぎなかった。
「そのまま行け!」
ラジャー! 走る。走る。風を切りながら必死で進む。
靴紐が地面を叩く音が聞こえる。でも、そんなこと気にしていられない。そうは言っても踏まないように気をつけないとな。気をつけつつ、全ての力を込めて、前へ前へ。
やがて風に乗っているような感覚が訪れた。
風に乗ったように体が軽くなり、勝手に前へ前へと進んでいく。
ジョッキー武豊が名馬ディープインパクトを「空を飛んだ」と称賛したが、私も空を飛んでいるような感覚だった。勢いがつき過ぎて、自分でもどうにも止められない。まさにディープでインパクトな体感。
自分の意志を置き去りに、体が勝手に動いている。
いつの間にか、辺りは日が沈み暗闇に包まれていた。
空の番人は太陽から月へ交代したようだ。さっきまでのオレンジと紺色のグラデーションは消え、深い紺色の空が広がっていた。
暗闇の中を疾走する。それは正月の福男のレースを思わせた。
早朝、夜が明けきらないうちにその年の福男を目指して、全力で駆け抜けるあのレースだ。
さながら私は福男レースに参加する一員だった。
福男のレースでは、勢い余って転ぶ映像をよく見かける。ゴールにいる人に抱きつくようにして倒れ込む人もいる。
「あれって、ちょっと演技入ってるよね」と思っていたが、本気で走ってみてわかった。
あれは演技でもなんでもない。
勢いがついて流れに乗ると、どうにも止まらなくなってしまう。ブレーキがきかない自転車のように、自分では止められなくなる。
私も福男レースの参加者のように、いつ転んでもおかしくないほど勢いがついていた。
角を曲がる。暗闇の中、歯医者の看板が見えてきた。こんなにも看板がありがたく見えたことはない。後光が射して見えた。
と思ったら何のことはない。照明がついていただけだった。
「あと少し、あと少しだ!」
ラストスパート! 全部出し切る! と気合を入れて、福男を目指すランナーのようにゴールを目指した。
呼吸は限界に近い。心臓が耳元にあるかのようにバクハク言い出した。最後まで持つか?
それでも走るスピードは緩むことなく、勢いを保っていた。
歯医者の玄関が見えてきた。
このままの勢いで突っ込んだら間違いなく玄関のガラス戸が粉々になるだろう。
車が突っ込んで建物を破損するのは聞くけれど、人が突っ込んで破損したら前代未聞だ。罰金を払いたくなくて走っているのに、修理代を払うことになったら元も子もない。
ドアまでの距離を目算してスピードを緩めた。やっと着いた! いよいよゴールだ!
勢いよくドアを開ける。
その勢いは、さながら道場破りに現れた猛者のようだった。
バーン!
ドアを開けた私はそのまま上がり框に倒れ込んだ。苦しくてとても立っていられなかった。
福男レースで抱き着いてゴールする気持ちがよくわかった。
「い、い、今何時ですか? ハア、ハア、ハア」
あまりの形相に受付の女性も何ごとかと息を飲むのがわかった。
待合室にいた人もギョッとしていただろう。子供が見たら、怖がって泣き出したに違いない。
女性はたじろぎながら言った。
「よ、よ、4時59分です!」
間に合った! 5時に間に合った! 奇跡だ! 罰金刑は免れた!
絶対に無理だと思っていたことができた。私にも奇跡が起こせた。
口からどころか鼻から心臓が出てきそうだった。しかし、本気になれば、人間は想像以上の力を発揮できるものだと知った。
普段まともに走ることのない自分が、全力疾走できるなんて思いもしなかった。
火事を起こしたくない、罰金を払いたくない。最初はその一途な思いだけだったけれど、走っているうちに自分の限界に挑戦しているような感覚に変わっていった。
本気になったら、自分の底力はどれほどのものだろう?
その答えは、想像以上だった。最後まで走り切れるなんて思っていなかった。
それでもこうして走ることができた。きっと自分の中のどこかに「ここぞ」というときのための力が用意されている。普段は温存されていて表に出てこないが、「ここぞ」というときが来たら、ちゃんと体は応えてくれる。
限界を突破し、どうにも止められないほどの勢いが生まれ、そして想像以上の奇跡が作られる。
私が密かに感動していると、受付の女性から話を聞いたらしく院長が出てきた。
まだ呼吸が荒い私に向かって「どうしたんですか?」と聞いてきた。
どうしたもこうしたも! そもそもは、あなたが「遅刻は罰金」という制度を作ったからですよ! 私は肩で息をしながらここまでの経緯を説明した。
「ええっ、そんな制度ないですよ! ドタキャンが続いた場合だけですってば」
完全に勘違いだった……。
続けて院長は言った。
「こんな呼吸が荒い状態で治療は出来ないなぁ。しばらく休んでからにしましょう」
心筋梗塞を起こしそうになるくらい全速力で駆け込んだものの、結局30分遅れで診察は始まった。レースに勝ったつもりでいたが、歯医者だけに敗者? まあいい。私は自分の中に自信がみなぎるのを感じて気分は上々だった。
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