「手術室で流して欲しい曲はクラシック? それともロックンロール?」《週刊READING LIFE Vol.298 ロックンロール》
*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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2025/3/3/公開
記事:かたせひとみ(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
……おばあちゃんのぬいぐるみを着た女子高生達だ。
なんだ、このにぎやかさを通り越したやかましさは。
母が入院している病室を訪れて、私はそう思った。
母は近々心臓の手術を受けることになっていた。
手術日まであと数日。
今は手術に向けた準備や検査をして過ごしている。
4人部屋のこの部屋には、母と同じ70代の女性が入院していた。
全員このあと心臓の手術が待っている。
今、4人はベッドの上で談笑している。知らない人が見たら、病気を抱えたようには見えないほど、みんな元気だ。そしてとても明るい。
しかし、心臓の手術だ。怖くないわけがない。胸を開き、肋骨を切り、心臓を取り出して手術するのだから。
彼女達がやけにハイテンションなのは、不安から目を背けたい気持ちの表れかもしれない。
さて、おばあちゃん達が女子高生のように興奮して何を話しているかというと……。
「手術中に何の曲を流してもらうか」ということだった。
この病院では、事前にリクエストすれば、手術中に好きな曲を流してもらえる。
手術は全身麻酔で行われるが、意識がなくても耳はある程度、音を認識するという。好きな音楽を流すことで、体のストレス反応が抑えられ、血圧や心拍数が安定しやすくなるらしい。
なるほどねー。みんなどんな曲を選ぶんだろう。
「私、『きよしのズンドコ節』にする」
うんうん、氷川きよしはおばあちゃん達のアイドル。妥当な選択ね。
え? 待って、待って。オペの時だよ?
しかもズンドコ節って! オペにあのリズムは……。
何でもいいって本当? クラシック限定とかあるんじゃないの?
ちょうどその時、看護学生が検温に来た。
私は彼女に、本当に何の曲でもいいのか聞いてみた。
「はい。何でもいいですよ。私達が準備しますから」と、未来の白衣の天使はニッコリ微笑んだ。
「氷川きよしとか流して、先生達調子狂わないんですか?」(きよし、ごめん)と、重ねて聞くと、慣れているから大丈夫だと言う。
私が患者だったら、先生が好きな曲をかけて最大限のパフォーマンスを発揮してもらう。
自分の好きな曲は、手術が終わってからゆっくり聞くよ……。
そして、4人の曲が決まった。
ラインナップは、氷川きよし、天童よしみ、水前寺清子。
ああ、演歌の花道。
演歌は悪くない。私だって嫌いじゃない。
でもカラオケ大会じゃないんだよ? 手術だよ?
トリを飾る母は、演歌ではなく『サウンド・オブ・ミュージック』を選んだ。
普段は演歌ばかりなのに、なぜここで急にミュージカルの大作を?
おばあちゃん達の予想外のセレクトに、私は呆気に取られていた。
そして、いよいよ手術当日を迎えた。
これから8時間を超える長い手術が始まる。
手術室の前まで、母を見送る。
母は「まな板の上の鯉だね」と言って、笑顔で手を振った。
「うん、美味しく料理してもらえばいいよ」
私は、こぼれ落ちそうな涙を悟られないように、必死に笑顔を作って母を見送った。
家族控室で手術の終わりを待ちながら、今頃、『サウンド・オブ・ミュージック』が手術室に流れているのかな。
全身麻酔の母の耳に、その曲は届いているのかな。
そんなことを考えながら、じりじりした思いで、終了の知らせを待った。
「説明室にお越しください」
8時間を過ぎた頃、やっと看護師からそう告げられた。
説明室には、執刀医のK先生が座っていた。
K先生はこの大学病院の教授であり、心臓血管外科部長でもある。
先生に会うのはこれで2回目だった。
1回目は、1週間ほど前に行われた家族への説明のときだ。
大学病院の外科部長というだけで、私はどこか警戒していた。
「偉ぶっているんだろうな」
「庶民のことなんて虫けらくらいにしか思っていないだろう」
「母だって単なる研究材料なのかもしれない」
医療ドラマの見過ぎだ。とにかく悪いイメージばかりが先行していた。
前の手術が長引いているそうで、説明が始まるまで、私達は随分待たされた。
でも、「待たせたところで何とも思っていないだろうな」と思っていた。
1時間ほど遅れて、やっと先生が現れた。
走って来たのだろうか。部屋のドアを開けるなり、少し息を切らした様子で「お待たせして本当に申し訳ありません!」と頭を下げる。
私が想像していた外科医とは全く違っていた。
偉ぶっている様子は微塵もなく、本当に大学病院の教授なのかと思うほど腰が低かった。
「患者さんやご家族の不安をできるだけ減らした状態で手術に臨んで欲しいです。疑問や不安は何でも話してください」
K先生はそう言って、些細なことにも丁寧にわかりやすく答えてくれた。
最後に「100%とは言えませんが、最善を尽くします」と、言ってくれた。
「絶対」と言わないところに、むしろ誠実さを感じ、この先生なら安心して任せられると思った。
そして再び会ったK先生は、この間と同じ優しい目をしていた。
開口一番「お待たせいたしました」と言って、私達に頭を下げる。
どうしてこんなに腰が低いんだろう。
こちらこそ8時間もありがとうございます、なのに。
8時間もの手術をやり遂げるなんて、どれほどの体力と集中力を必要とするんだろう。
慣れているとは言え、並大抵のことではないはずだ。
お疲れのところ、急いで帰ろうという様子も全く見せず、1回目の説明のときと同じように丁寧に説明してくれた。
手術は無事成功したとのこと。術中特にトラブルもなく、順調に進んだ。
少し血圧が低いのが気になるが、24時間監視体制で注意して見ていくとのことだった。
私達が何度も頭を下げると「お母さんが頑張ってくれたおかげですよ」と優しく微笑んでくれた。
帰りに集中治療室に立ち寄り、「よく8時間の手術を持ちこたえたね」と寝ている母の頬に手を当てた。
「無事に明日目覚めてね」と願いつつ、病院を後にした。
でも、K先生が手術したのだから大丈夫。手術も成功したそうだし、何も心配することはない。
明日の昼、病院に行けば、目を覚ました母に会える。手術中『サウンド・オブ・ミュージック』が聞こえたか聞いてみよう。
そう思っていた。
しかし……。
夜になって、突然スマホの着信音が鳴り響いた。
まさか……。
嫌な予感を抑えつつスマホの画面を見る。
病院からの着信だった。恐れていたことが起きた。
震える手でスマホの受信ボタンを押す。
母の容体が急変したそうだ。心臓からの出血が止まらず、血圧が低下して危険な状態だという。これからすぐに緊急オペに取り掛かる。
至急病院へ来て欲しいとの知らせだった。
私と夫は急いで病院へ向かった。夏だというのに、体の震えが止まらない。
お願い、助かって! と、祈るような気持ちで病院へ向かった。
病院の非常口で、受付の人に事情を話す。
その横を、サッと通り抜けて中に入る人がいた。病院関係者のようだった。
手続きを済ませ、病院の中に入った。
5階の手術室へ向かおうとエレベーターを待つがなかなか来ない。
待っているのがもどかしく、階段で行くことにした。
すると、私達の少し先に階段を昇っている人が見える。
照明を落とした階段の中に浮かんだそのシルエットは、母の執刀医であるK先生に見えた。
でも、まさか。
K先生のはずがない。
さっき8時間の手術を終えたばかりだ。
しかも母の手術の前にも緊急のオペがあった。
今日だけで、既に10時間以上手術をしているのだ。
さすがに今日は自宅に帰って休んでいるだろう。私の思い違いだ。
K先生に似たシルエットの男性は、階段を一段飛びで昇って行った。
私達との距離がどんどん開いていき、そのシルエットはとうとう暗闇の中に消えていった。
手術室のある5階に着くと、心電図のモニターだろうか。緊急事態を伝える警告音が絶え間なく響き渡っていた。
慌ただしく出入りするスタッフの姿が目に入る。
「輸血、準備出来ました!」
「血圧低下!」
「急いで!」
切迫した声が飛び交う。
母の状態が深刻なことが、嫌でも伝わってきた。
説明室に呼ばれた私達は、K先生ではない別の医師から説明を受けた。
心臓に血液が貯まり、肺を圧迫しているそうだ。
全身にうまく血が回らなくなっていて、命の危険もあるそうだ。
オペはこの医師が担当するのだろうか。
「オペはK先生が担当します」と、その医師は言った。
先ほど手術室に入ったそうだ。
え? K先生が? 今日だけでもう10時間以上手術しているっていうのに?
心臓の手術は、同じ医師が最初から最後まで担当することになっているそうだ。
非常に繊細な手術なので、簡単に引き継ぎができるものではなく、最初に執刀した医師でなければわからないことがたくさんあるのだそうだ。
あの長丁場を終えたばかりで、またK先生が……。
そして、私は思わず声を上げそうになった。
あ! あの階段で見た人! あれはK先生だったんだ!
病院から呼び出しがあって急いで駆けつけたに違いない。
わずかな時間も惜しんで、エレベーターを使わずに階段を一段飛びで駆け上がっていた。
K先生は、今日、ほとんど寝ていないだろう。自宅に帰ってすぐにトンボ帰りだったと思う。
仕事とはいえ、赤の他人の母のために、身を削り、寝る時間も削り、治療にあたってくれる。
再手術への不安もあったが、K先生への感謝で胸が熱くなった。
いや、K先生だけじゃない。他の先生や看護師の皆さんも、母を救おうと真夜中なのに必死で力を尽くしてくれている。
不安になっている場合じゃない。
成功を信じて待つしかない。
祈りながら、家族控室で待った。
3時間ほど経って、オペ終了の知らせが入った。
また説明室へ向かう。
K先生が私達を待っていた。
「ご心配をおかけして申し訳ございません」と、また頭を下げる。
私達に不安を与えたことを心から申し訳なく思っている様子だった。
母の再手術は成功したそうだ。血圧も安定しているので問題ないでしょう、とのことだった。
失いかけた命を救ってもらった。
K先生に感謝しても感謝しきれなかった。
夫と二人、米つきバッタってこういう感じかな、と思うほど何度も何度も頭を下げた。
翌日、集中治療室へ行くと、ちょうど母が麻酔から目覚めたところだった。
本人に聞くと再手術をしたことも、『サウンド・オブ・ミュージック』がかかったことも覚えていなかった。
その後の経過は順調で、母は半月後に退院できた。
同じ病室にいたおばあちゃん達も、氷川きよしや天童よしみの音楽のパワーもあってか、手術は成功し、無事に退院したそうだ。
私達はK先生へ感謝の意を伝えたいと思い、先生の研究室にわずかばかりの寄付をした。何かしないと気が済まなかった。
しばらくしてK先生からお礼の手紙が届いた。
まさかあれほど多忙なK先生から返事が来るとは思ってもいなかった。
寄付の金額だってほんのわずかなのに。
手紙はK先生の直筆だった。パソコンで打つほうが楽なのに、わざわざ手書きで……。
激務の中、こんなふうに手紙をしたためてくれたことを思うと、ありがたくて、手紙に手を合わせた。
手紙にはこう記してあった。
「私達は日々、病に悩む患者様のためにできる限りの努力をしていますが、その一方で、常に『何か問題が起きたらどうしよう』というプレッシャーも感じています。
そんな中、このような感謝のお手紙をいただくことは、日々頑張って来て良かったと思う瞬間です。
手術をさせていただいた患者様が元気に過ごしているという知らせは、私達にとって何よりも嬉しく、大きな励みとなり、次に進む力を与えてくれます」
「手術をさせていただいた」って、こっちが「手術をしていただいた」だよ。
なんて謙虚な人なんだろう。
そして、あの穏やかな表情の下に、こんなにも熱い思いを秘めているなんて。
寝る間も惜しみ、いつ何があるか分からない緊張感を抱えながら日々を送っている。
真摯に仕事と向き合い、情熱を持って働いている。
手書きで丁寧に書かれた文字にK先生の熱い思いを感じ、私は涙があふれてきた。
K先生に手術してもらって良かった。
いつか心臓の手術をすることがあったら、絶対K先生にお願いしよう。
手術のときには何の曲をかけようか。
そうだ、ロックだ。
だって、再手術の夜、階段で見たK先生が着ていたTシャツの背中には、こう書いてあったから。
「E・YAZAWA」
ロックンロールしかない!
ちょうどテレビでは、鮭(シャケ)の放流のニュースが流れていた。
「シャケナベイベー」
そうつぶやいて、私は熱いK先生との出会いに感謝するのだった。
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