ひとりの終わり、ふたりの始まり《週刊READING LIFE Vol.308 夜明け》
*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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2025/5/12/公開
記事:内山遼太(READING LIFE編集部 ライターズ倶楽部)
「窓の外はまだ暗かった」
ダンボールの迷宮に囲まれ、僕は眠れずにいた。新しい部屋の天井を見上げながら、隣で静かに眠る彼女の寝息を聞いていた。引っ越し当日の疲れが体中に残っているはずなのに、目は冴えて、なかなか眠りにつけない。
「この夜が明けたら、すべてが変わってしまう気がした」
そう思うと、どこか怖かった。不思議なことに、独り暮らしの狭いアパートを出て、彼女と暮らす広い部屋に移ったというのに、心はむしろ締め付けられるような感覚があった。長年築いてきた自分だけの空間、自分だけのリズムが、今日からは永遠に失われる。そんな喪失感が、新生活への期待と入り混じって、僕の胸の内で葛藤していた。
「朝焼け、見えるかな」
眠る直前、彼女が言った言葉を思い出した。この部屋を決めたとき、東向きの窓から見える朝焼けを楽しみにしていたんだ。そう、引っ越し先で見る予定の「朝焼け」の話を、彼女はよくしていた。その言葉を思い出すと、少しだけ心が軽くなった気がした。彼女は朝の光を愛する人で、僕は夜の静けさを大切にする人。そんな違いすら、この同棲生活で消えていくのだろうか。
同棲を決めたのは、半年前のことだった。
「一緒に住まない?」
カフェでコーヒーを飲みながら、彼女はそう言った。何気ない口調だったけれど、その言葉は僕の心に激しい波紋を広げた。嬉しさと不安が入り混じって、うまく返事ができなかったことを覚えている。
「考えてみる」と答えた僕に、彼女は「急かさないよ」と笑った。その優しさがまた、僕の心を揺さぶった。
それからの日々は、物件探しや家具の選定など、楽しい時間の連続だった。一緒にインテリアショップを巡り、お気に入りの食器を選び、寝具の色を決める。そんな些細なことひとつひとつが、「二人の生活」という実感を少しずつ積み上げていった。
でも同時に、「生活が変わる」ことへの漠然とした恐れも大きくなっていった。一人暮らしの気楽さを手放すこと。相手の目を気にしながら生活すること。何より、「自分は他者と共に生きていけるのか」という根源的な問い。大学時代から続いた八年間の独り暮らしで、僕は自分だけの世界を構築してきた。朝は必ず七時に起き、コーヒーを淹れ、音楽を聴きながら読書する。夜は誰にも邪魔されない静けさの中で、自分の思考と向き合う。そんな「完璧な孤独」の中に、他者を招き入れることへの恐れが、次第に膨らんでいった。
「同棲って、うまくいくかな」
電話越しに父にそう打ち明けると、少し間があって、「お前は昔から、何かを始める前に必要以上に恐れすぎる」という返事が返ってきた。父らしい、遠慮のない言葉だった。「でも、始めてしまえばいつも上手くやる。今回もそうだろう」と続けた父の言葉に、複雑な思いが湧いた。
職場では微妙な反応があった。「おめでとう」と言う人もいれば、「大丈夫? 責任重大だな」と茶化す先輩もいた。「同棲して別れるカップルも多いよね」という何気ない一言が、やけに耳に残った。その言葉を聞いたとき、なぜか胸が締め付けられた。「もし失敗したら?」そんな不安が、夜ごとに膨らんでいった。
それでも、彼女の「一緒に住もう」という言葉には、確かな温かさがあった。不安と期待が入り混じる日々の中で、僕はその温かさにすがるように、少しずつ心を決めていった。
引っ越し前日、最後の荷造りをしていた。
「これ、持っていく?」
彼女が手に持っていたのは、僕が大学時代に使っていた小さな目覚まし時計だった。もう使っていないけれど、なぜか捨てられずにいたものだ。
「うーん、どうしようかな」
僕が迷っていると、彼女は「じゃあ、とりあえず持っていこう」と段ボールに入れた。そんな何気ない会話の中にも、少しずつ感じ始める温度差があった。僕が迷うもの、彼女がすぐに決めるもの。僕が大事にするもの、彼女が「これ、要る?」と聞いてくるもの。
「あのさ、この時計って、もしかして思い出があるの?」と彼女が尋ねた。 「ああ、大学時代の彼女に貰ったんだ」と答えると、彼女の表情が一瞬凍りついた。 「冗談だよ」と笑うと、彼女は肩をぽんと叩いて、「もう、怖かった」と笑った。
だが実は、この時計は元彼女からもらったものではなく、父が一人暮らしを始める時に贈ってくれたものだった。なぜ嘘をついたのか、自分でもよく分からない。ただ、自分の過去や記憶の一部を、彼女と共有することへの躊躇いがあったのかもしれない。
夜が更けていくにつれて、疲労が重なっていった。慣れない荷造りに体も心も疲れる。でも、彼女は黙々と作業を続け、時々「もう少しだね」と声をかけてくれた。
深夜を過ぎ、作業が一段落したとき、僕たちは一息つくためにベランダに出た。引っ越し前の部屋から見る最後の夜景。都会の明かりが遠くで瞬いていた。
「ねえ、見て」
彼女が空を指さした。東の空が、わずかに色を変え始めていた。まだ太陽は出ていないが、夜明け前の「薄暗い青」が広がっていた。
「最後の夜明けだね、ここでは」
彼女の言葉に、胸が締め付けられた。「終わり」の予感が、僕を包み込む。このアパートで過ごした八年間の記憶が、走馬灯のように駆け巡った。一人で迎えた朝の静けさ、窓から差し込む光、慣れ親しんだ街の音。それらすべてに別れを告げるのだと思うと、言葉にできない寂しさがあった。
彼女は台所に行き、コーヒーを淹れてくれた。小さなマグカップから立ち上る湯気と、香ばしい香り。それを手渡してくれる彼女の笑顔に、微かな安心感を覚えた。
「明日からは、新しい朝が始まるね」
その言葉には、僕にはない前向きさがあった。彼女はいつも未来を明るく見る。だからこそ、朝の光を愛するのかもしれない。対して僕は、過去に執着し、変化を恐れる。だからこそ、夜の静けさを愛するのだろう。
「怖いんだ」と突然、口にしていた。「一人じゃなくなることが」
彼女は少し驚いたような顔をしたが、すぐに柔らかな笑顔になった。 「私も怖いよ。でも、二人だと、怖いことも半分になるんじゃないかな」
その言葉に、心の奥が熱くなった。彼女もまた、不安を抱えていた。ただ、その不安を認めた上で、それでも前に進もうとしている。その強さに、僕は少し勇気をもらった気がした。
引っ越し当日は、目まぐるしかった。
朝早くに引っ越し業者が来て、あっという間に荷物が運び出された。最後に部屋を見回したとき、何とも言えない感覚に襲われた。空っぽになった部屋は、まるで僕がそこに住んでいた証拠が消えてしまったかのようだった。
「さあ、行こうか」と彼女が言った。部屋を出る直前、僕は一人だけ残り、壁に手を当てた。八年間の記憶に、静かに別れを告げる。そのとき、胸に去来したのは悲しみではなく、奇妙な解放感だった。「さよなら、僕だけの部屋」と心の中でつぶやき、ドアを閉めた。
新居への移動、荷物の搬入、そして片付け。すべてが慌ただしく過ぎていった。近所への挨拶まわりもあり、玄関先で緊張しながら会釈する僕の横で、彼女は自然に会話を広げていた。
夕方になり、ようやく一息ついたときには、体中が痛かった。それでも、二人で食べたテイクアウトの夕食は、妙に美味しく感じられた。
「今日はよく頑張ったね」
彼女の言葉に、疲れた顔で頷く。まだ段ボールが山積みで、家具も半分は配置が決まっていない。でも、それはまた明日の課題だ。
夜、新しい布団に入ったとき、不思議な感覚があった。見慣れない天井、聞き慣れない外の音、そして隣で眠る彼女の存在。全てが新鮮で、なかなか眠りにつけなかった。
気がつくと、東の窓から微かな光が差し込み始めていた。時計を見ると、朝の5時を少し回ったところ。僕はそっと布団から抜け出し、窓辺に立った。
そこに広がっていたのは、息を呑むような朝焼けだった。
赤く染まる空。新しい街の輪郭が、朝の光に浮かび上がる。高層ビルの合間から見える空は、僕がこれまで見てきた朝焼けとは違っていた。もっと広く、もっと鮮やかに感じられた。
「二人で迎えた最初の朝焼け」
その言葉が心に浮かんだとき、胸の奥が熱くなった。
振り返ると、彼女はまだ深く眠っていた。新しい環境でも、安心しきった表情で眠る姿に、不思議な安堵感を覚えた。僕はそっとキッチンに向かい、コーヒーを淹れた。昨日までと同じ豆、同じ道具。でも、淹れる場所が変わると、香りも少し違って感じる。
小さなマグカップを手に、再び窓辺に立った。朝焼けはさらに鮮やかさを増し、街全体を赤く染めていた。初めて見る朝焼けの美しさに、言葉を失った。
そのとき、ふと気づいた。僕はいつも「夜」を大切にしてきた。静けさや孤独の中で、自分自身と向き合うために。でも、そうやって独りでいることは、実は怖いものから逃れるための方法だったのかもしれない。他者と深く関わることへの恐れ、誰かを深く愛することの責任の重さ、そして最も怖いのは「自分が変わってしまうこと」への恐怖。
僕は考えた。「夜明け」とは何だろうか。
それは「終わり」と「始まり」の狭間。「孤独」と「共有」の境界線。「不安」と「希望」が交錯する瞬間。
これまでの僕は、夜明けが怖かった。一日の始まりは、いつも不安と緊張を伴うものだった。朝日が昇るたびに、「今日もうまくやれるだろうか」と考えていた。
でも、今朝の朝焼けは違った。恐れるべきものではなく、迎えるべきものに思えた。それは彼女が「朝焼けが楽しみ」と言っていた気持ちに、少し近づけた瞬間かもしれない。
窓辺に立ち、コーヒーを手に、朝焼けを見つめながら思った。 「この人となら、また夜が来ても大丈夫だ」
昨日までの僕は、未来に対する漠然とした不安を抱えていた。一人でも生きていける安定した生活を手放し、知らない場所で新しい生活を始めることへの恐れ。それは決して小さなものではなかった。
でも、朝焼けの中で感じた温かさは、その不安を少しずつ溶かしていくようだった。この窓から見える景色は、これからずっと二人で共有していくものだ。その事実が、静かな喜びとなって胸に広がった。
そして気づいた。 「自分が変わるのは、必ずしも悪いことじゃない」
彼女のように朝の光を愛せるようになった自分。それは、長年構築してきた自分自身の一部を手放したようでもあるが、同時に新しい自分を獲得したようでもあった。孤独を愛する自分と、共に在ることを恐れない自分。その二つが、同じ心の中で共存できるのかもしれない。
「おはよう」
背後から声がした。振り返ると、彼女が眠そうな顔で立っていた。
「朝焼け、きれいだね」
僕はそう言って、もう一杯のコーヒーを手渡した。彼女は黙ってそれを受け取り、僕の隣に立った。二人で並んで朝焼けを見つめる。その瞬間、「これでいいんだ」という思いが、静かに心に広がった。
「次の夜明けは、どんな色をしているだろう」
窓辺から戻り、もう一度布団に入った僕は、そんなことを考えていた。背中越しに感じる彼女の温もり。規則正しい寝息と、穏やかな朝の静けさ。
これからの朝は、二人で迎えるものになる。時には一人が先に起きて、もう一人を待つこともあるだろう。時には二人揃って朝日を見ることもあるかもしれない。でも、どんな形であれ、この空間は二人のものだ。
夜明けがくるたびに、きっと少しずつ、ふたりの朝焼けが重なっていく。そしていつか、どんな色の朝焼けも、「私たちの朝」として自然に受け入れられる日が来るのだろう。
彼女の寝息を聞きながら、もう一つ気づいたことがあった。「自分の人生に他者を招き入れる」ということは、単に空間や時間を共有することではない。それは、自分の内なる変化を受け入れる勇気でもあるのだ。
その日を思い浮かべながら、僕はようやく安らかな眠りについた。窓から差し込む朝の光が、新しい一日の始まりを静かに告げていた。
□ライターズプロフィール
内山遼太(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
小学生時代、鹿島アントラーズで不屈のプレイをする選手たちに見せられて、自分もそんな人間になりたいと思いながら、少年時代を過ごす。高校生になり、選手たちのような不屈の精神を持った人たちを裏から支える仕事をしたいと考え、作業療法士の道を志すようになる。大学卒業後は、終末期の病院で神経難病の患者さんを中心にリハビリの経験を積み、現在はデイサービスで生活期の高齢者を中心に、予防医学のリハビリを提供している。また、その傍らで新人療法士向けのセミナースタッフや講師も行なっている。
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