今日、僕は何もしなかった《週刊READING LIFE Vol.310 もう我慢できない》
*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
2025/6/12/公開
記事:大塚久(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
今日、僕は何もしなかった。
午後の講義室に、彼の声だけが響いていた。
窓から差し込む光が、スライドの文字をかすかに霞ませる。僕は後ろの席で、自分の手のひらを見つめていた。この手が、今日は何もしないことを、静かに決めていた。
エアコンの低い音が、部屋の静けさを際立たせる。前から三列目までびっしりと座る受講生たちは、配布された資料に視線を落としたり、スライドを見上げたりしている。時折、ペンがノートを走る音が、さらさらと響く。
講師の彼は、まだ20代後半。白のポロシャツに、実技で動きやすいスウェットのズボン。立ち姿はまっすぐだが、肩にはわずかな硬さが見える。手に持った資料が、ときどき小さく震えた。
理学療法士として23年。今日は講師のサポート役として、ここにいる。でも、僕の役割は、たぶん「何もしないこと」だった。
「次は、下肢の評価について説明します」
彼の声は、まだよく通っていた。
「では、大腿四頭筋の触診を……」
彼の声が、一瞬、宙に浮いた。
実技のデモンストレーションに移り、講義室の中央に置かれた施術ベッドの周りに、受講生たちが半円を作る。モデル患者役の若い男性が、ベッドに横たわっている。消毒用アルコールのかすかな匂いが、鼻をくすぐった。
「ここの部分を、こう……」
講師の指先が、モデルの大腿部に触れる。ビニールレザーの施術ベッドが、かすかに軋む音を立てた。
受講生の一人が手を挙げた。
「すみません、さっきの筋肉との違いが、よく分からなくて……」
質問を受けた瞬間、講師の指先に、わずかな震えが走った。彼は一度、天井を見上げ、それから質問者の方を向く。受講生たちの視線が、静かに彼に集中していく。
「えっと、その違いは……」
声のトーンが、明らかに変わった。さっきまでの明瞭さが、少し濁る。モデル患者の呼吸音だけが、規則正しく響いている。
助け舟を出すのは簡単だった。「その違いはですね……と、僕が一言発すればすぐに適切な説明を紡ぎ出すだろう。
でも、僕の喉は、その言葉を飲み込んだ。むしろその我慢の方が困難だった。
なぜだろう。彼の中に、かつての自分を見たからか。あの震える指先に、十年前の自分の手が重なって見えたからか。
彼は、もう一度モデルの脚に手を置いた。今度は、ゆっくりと。
「ここが、大腿直筋で……」
声は完全ではない。でも、誠実に、一つずつ言葉を探していた。
あの日も、午後だった。
初めて講師として教壇に立った日。九月の終わり、まだ残暑が厳しい頃。用意した原稿は手汗で湿り、スライドを送る手が震えていた。
「本日は、肩関節周囲炎の理学療法について……」
声は上ずり、早口になっていく自分が分かった。受講生の顔が、ぼんやりとしか見えない。誰かが咳払いをした。その音が、やけに大きく聞こえた。
スライドを進めようとして、間違えて前に戻してしまう。慌てて進めると、今度は二枚飛ばしてしまった。額に汗が滲む。
「すみません、ちょっと……」
「ゆっくりでいいよ」
誰も、そう言ってくれなかった。いや、違う。言わなかったのだ。
師匠は、後ろの席で腕を組んでいた。表情は読めない。ただ、じっと見ていた。質問が飛んできて、答えに詰まった時も。専門用語を言い間違えた時も。一度も、口を挟まなかった。
90分が、永遠のように感じられた。
講義が終わり、受講生が帰った後。師匠は僕のところに歩いてきて、肩に手を置いた。
「お疲れさま」
それだけだった。
でも、その一言に、すべてが込められていた。失敗したことも、上手くいかなかったことも、全部分かった上での「お疲れさま」だった。
あの沈黙が、僕を育てた。失敗する権利、立ち直る時間、そして、自分で見つける答え。師匠は、それらすべてを僕に「任せた」のだ。
完璧な講義ではなかった。でも、あの日から、僕は本当の意味で講師になり始めた。
「すみません、その部分は……」
現在に戻る。講師の彼は、質問した受講生をまっすぐ見つめていた。数秒の沈黙。誰もが、次の言葉を待っている。
彼は一度、天井を見上げた。深く息を吸う音が、静かに響く。
「正確にお答えするために、確認してから次回お伝えします。今、不確かなことを言うより、きちんと調べてからの方が、皆さんのためになると思うので」
一瞬、講義室の空気が変わった。
張り詰めていた緊張が、ふわりと緩む。質問した受講生が、「はい、お願いします」と優しく返事をした。隣の受講生が、何かメモを取り始める。
不思議なことに、その瞬間から、講義室の雰囲気が柔らかくなった。
正直であること。それは時に、完璧であることより勇気がいる。彼が選んだ「分からない」という誠実さ。僕には、その選択ができただろうか。
講師の肩から、少し力が抜けたのが分かった。次の説明に移る彼の声は、さっきより落ち着きを取り戻している。完璧ではない。でも、さっきよりも受講生との距離が近くなったような気がした。
「では、次は膝関節の評価に移ります」
彼の手が、今度は迷いなくモデルの膝に触れた。
休憩時間。受講生たちが廊下に出ていき、講義室には僕一人が残された。
椅子に座ったまま、窓の外を見る。雲がゆっくりと形を変えていく。西に傾いた太陽が、オレンジ色の光を投げかけている。
僕は、自分の選択を振り返っていた。何もしないという選択を。
手を出したい衝動はあった。彼が言葉に詰まった時、答えを知っている自分がそこにいることが、もどかしくもあった。でも、それは誰のためだったか。彼のため? それとも、自分の安心のため?
窓ガラスに、かすかに自分の顔が映る。20年前より、確実に歳を重ねた顔。でも、あの日、師匠が見せてくれた顔とは、まだ違う。あの深い信頼の表情には、まだ届かない。
任せるということ。それは、簡単なようで、とても難しい。
「では、本日の講義は以上です。ありがとうございました」
講師の言葉と共に、受講生たちが立ち上がる。椅子を戻す音、資料を集める音、鞄のファスナーを閉める音。日常に戻っていく音たちだ。
「先生、今日の講義、とても分かりやすかったです」
受講生の一人が、片付けをしている講師に声をかけた。二十代半ばくらいの女性だ。
「あの、正直に分からないって言ってくださって、かえって信頼できました」
講師の手が、一瞬止まった。振り返った彼の顔に、驚きと安堵が同時に浮かぶ。
「そう言っていただけると……ありがとうございます」
小さな笑顔が、彼の顔に広がった。さっきまでの緊張が嘘のように、柔らかい表情だった。
他の受講生も、「また次回も楽しみにしています」「実技、分かりやすかったです」と声をかけていく。一人、また一人と。
僕は、その光景を後ろから見ていた。誰も僕のところには来ない。それが少し寂しくもあり、でも、不思議と心が満たされてもいた。
荷物をまとめる講師と、一瞬、目が合った。
彼は小さく頭を下げた。僕も、静かに会釈を返す。言葉はいらなかった。彼の目に、「ありがとうございました」が見えた。僕の目にも、きっと何かが映っていただろう。
受講生たちが去り、講師も講義室を出ていく。最後に、僕も立ち上がった。
講義室を出て、廊下を歩く。足音が、静かに響く。
今日、僕は何もしなかった。
夕方の光が、廊下の窓から斜めに差し込んでいる。いつもと同じ廊下。いつもと同じ時間。でも、何かが違って見える。
建物を出ると、秋の風が頬を撫でた。駐車場に向かいながら、空を見上げる。茜色に染まり始めた空に、飛行機雲が一筋、ゆっくりと流れていく。
任せるということ。それは、その人を信じるということ。そして、自分の役割を手放す勇気でもある。
完璧な講義ではなかったかもしれない。でも、あの揺れた声は、確かに届いていた。不完全だからこそ、人の心に届くものがある。
彼は、自分の力で、受講生との関係を築いた。「分からない」と言えたことで、かえって信頼を得た。もし僕が助け舟を出していたら、あの瞬間は生まれなかっただろう。
車に乗り込み、エンジンをかける。バックミラーに映る建物を見ながら、ゆっくりと車を出す。
今日、僕は何もしなかった。
でも、何もしないことで、きっと何かが生まれた。その「何か」に名前はまだない。
でも、それでいいのだと思う。
明日、また新しい講義がある。僕はまた、後ろの席に座るだろう。そして、きっとまた、静かに見守ることを選ぶだろう。
時には、手を出したくなるかもしれない。でも、思い出すだろう。今日の彼の姿を。そして、10年前の師匠の顔を。
それが、僕の仕事なのかもしれない。
何もしないという仕事。
任せるという仕事。
信じるという仕事。
帰り道の信号が、ちょうど青に変わった。アクセルを踏みながら、もう一度思う。
今日、僕は何もしなかった。でも、それでいいと思えた。
□ライターズプロフィール
大塚久(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
神奈川県藤沢市出身。理学療法士。RYT200ヨガインストラクター。2002年に理学療法士免許を取得後、一般病院に3年、整形外科クリニックに7年勤務する。その傍ら、介護保険施設、デイサービス、訪問看護ステーションなどのリハビリに従事。下は3歳から上は107歳まで、のべ40,000人のリハビリを担当する。その後2015年に起業し、整体、パーソナルトレーニング、ワークショップ、ウォーキングレッスンを提供。1日平均10,000歩以上歩くことを継続し、リハビリで得た知識と、実際に自分が歩いて得た実践を融合して、「100歳まで歩けるカラダ習慣」をコンセプトに「歩くことで人生が変わるクリエイティブウォーキング」を提供している。
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