イヤホンと日記、沈黙のリビング《週刊READING LIFE Vol.311 あの日の沈黙》
*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
2025/6/19/公開
記事:志村幸枝(READING LIFE編集部 ライターズ倶楽部)
家の中から音が消えたのは、いつ頃だったろうか。
いや、正確に言えば、音はある。電子レンジの「チン!」、お風呂が沸いたお知らせ、宅配便のインターホン、夫のくしゃみ。生活の音は確かに鳴っている。だけど、それらは“雑音”であって、“リビングの音楽”とはちょっと違う。
私が言いたいのは、娘の歌のことだ。
我が家は、わりとにぎやかだった。中学生の頃までは、娘は本当によく歌っていた。それは、決まって何かのお手伝いの最中。共働きの我が家では、子どもも立派な戦力だ。洗濯物を畳んだり、大人なら30分で作れる夕飯を、2時間かけて丁寧に仕上げてくれたり。夕暮れ時、キッチンで鼻歌混じりに野菜を刻む娘の横で、小学生の息子が宿題をしている。その息子も、よくわからないメロディをふんふん口ずさんでいる。別々の曲かと思いきや、突如2人そろって大熱唱が始まる。バイブスが合う、というやつか。知らんけど。
子どもたちの歌声は、リビングにとってのBGMだった。夕飯前の時間が、ちょっとした“イベント”に変わる。夫と私は冷蔵庫からチューハイを取り出し、目を細める。そこにキュウリやちくわがあれば、もう言うことなし。簡単なおつまみをつまみながら、お酒をのむ。目の前には、生きたエンタメがある。まるでフランス人の言う「アペロ」じゃないか、と思った。なんて幸せな夕暮れだろう。
夏休みといえば、小学生だった息子のピアニカ。面倒なことはギリギリにやっつける、そんな両親の習性を見事に引き継いだ彼は、「毎日1回」の宿題を「1日に何十回」もやった。額に汗し、眉間にしわを寄せながら、無心にピアニカに息を吹き込む。その姿は、まるで吹きガラス職人。懐かしい思い出だ。あれは、まさに一生分の「スイカの名産地」を浴びた夏だった。
我が家のリビングは、そんな“雑多な音楽”に包まれていた。
だけど、今はどうだろう。
娘は社会人になった。朝は早く、帰りは遅い。仕事の話を聞けば「まあまあ」としか言わない。たまに週末に顔を合わせても、ソファに座ってスマホをいじっている。ふと見ると、イヤホン。もう、リビングで歌うことはない。その代わり、日記をつけるようになったという。なんと3種類も。それぞれ目的が違うらしい。説明してくれたが、忘れてしまった。再度尋ねたが、もう教えてくれない。書くことで気持ちを整えているのだという。いや、素晴らしいと思う。本当にそう思う。でも、どこかさみしい。
それは言葉が内側に向かっていくのを感じるからだ。昔は、言葉が外に溢れていた。歌だったり、おしゃべりだったり、ふとしたつぶやきだったり。でも今は、ノートの中に吸い込まれ、折りたたまれていく。彼女の思考や気持ちは、私の前では沈黙を守り、無音のまま文字として閉じ込められていく。その分、リビングでのアウトプットは、ぐっと減った。
そして、息子も高校生になった。
口数がめっきり減った。「別に」「ふつう」「まあまあ」の三単語で会話が完結する。学校のこと、部活のこと、聞けば答えてくれるが、自分から話すことはほとんどない。まるで、情報が全部イヤホンの中に閉じ込められてしまったみたいに。思春期なんだから、仕方ない。そう割り切れる日は、まだいい。けれど、ときどきふと、あの鼻歌をもう一度聴きたいなと思ってしまう自分がいる。無邪気に披露していたあの頃。無音の今が、必要以上に大人びて見えてしまう。
子どもたちのリビングでの大熱唱は、楽しいときもあったけれど、正直、鬱陶しいと思ったこともあった。仕事で頭が疲れているとき、「音」が刺激になって余計しんどくなるから。それを今さら「寂しい」だなんて、勝手な話だ。気持ちに余裕がなかったからって、子どもたちの全力の歌声を鬱陶しいと思っていた自分に、今なら言ってやりたい。「今だけやで? 本当にしっかり聴いとかんでええの? もう聞けへんで?」と。
成長って、そういうものだ。子どもたちは、どんどん自分の世界を持っていく。それはいいことだし、うれしいことだ。でも、その過程で、家庭にあった“共有の時間”が少しずつ減っていくのは、やっぱり少しだけ切ない。
思えば、私自身もそうだった。思春期の頃、母親と並んで夕飯を作りながら鼻歌なんて……そんなこと、していなかった。むしろ、近寄らなかった。部屋にこもったり、数時間のプチ家出をしたり、とにかく一人になりたかった。そうしないと自分の中からあふれ出す制御できないエネルギーで母親を傷つけたり、苦しめたりしそうだったから。
思春期は有り余るエネルギーに満ちている。その突き上げるような強いエネルギーの行き場がないときは、大変だ。それはまるで「めちゃくちゃ振った炭酸ボトル」。中身はパンパンにたまっている。でも、フタを開けられない。勢いよく噴き出してしまうから。だから、よけいに閉めてしまう。娘にとって、話して、歌って、笑って、ちょっと怒って……は、ささやかなガス抜きだった。今は、それが「3つの日記」になっているのだろう。「シュッ」と小さな音を立てて、人知れずフタを開けている。誰にも聞こえない、「無音」のアウトプット。歌やおしゃべりの代わりに、ノートの上で自分を整える。
リビングには今も人がいる。でも、全員がイヤホンをしている。娘はたぶん猫動画を見ていて、息子は音楽を聴いている。夫は研修動画を視聴中。それぞれの耳元で、別々の世界が流れている。でも、こちらから見ると、それは“沈黙”でしかない。
とはいえ、会話は一応ある。今日のごはんの話とか、「あ、マヨネーズ取って」のやりとりくらい。でも、それは“流れ”ではなく、点と点だ。リズムも、音楽もない。ひとつ話題が終わると、スッと沈黙が戻ってくる。まるで、曲の合間のブレイクタイムみたいに。
ふと、あの頃のリビングを思い出す。娘と息子が、交互に、あるいは同時に、歌を口ずさんでいた。気がつけば大合唱になっていて、音程なんておかまいなし。だけど、それが心地よかった。あれはきっと、子どもたちが「まだ、世界を信じていた」頃の音だったのだと思う。
自分の声を出しても、笑われない。ズレても、間違えても、「ええやん」と受け止めてもらえる。そういう場所だからこそ、音が生まれた。鼻歌も、つぶやきも、笑い声も。音の根っこには「安心感」があったのだ。今はどうだろう。歌うことも、しゃべることも、どこか慎重になっている気がする。発する前に、頭の中でチェックする。これは言っていいか、どう思われるか。そんな“大人の検閲”が、日常の音をフィルターにかけてしまう。
そんな中で、私はひとり、キッチンでまた鼻歌を歌ってみた。でも誰も反応しない。視線も合わない。そりゃそうだ。心の中で歌っているから。それでも、ちょっと楽しい。自分の耳だけに聞こえる、自分だけのBGM。ふと思う。こんなふうに心の中とはいえ、自分から音を出すことで、ほんのわずかでも空気が揺らぐような気がする。それはそれで、十分かもしれない。
リビングには、かつての“音楽”はない。だけど、忘れた頃に、ふと始まるかもしれない。鼻歌とか、おしゃべりとか、しょうもない合唱とか。また、そんなことを期待している。
□ライターズプロフィール
志村幸枝:しむらゆきえ(READING LIFE編集部 ライターズ倶楽部)
京都在住の道産子。27年勤めた漢方相談店を退職し、2025年1月より、ライティング・ゼミに参加。16週間で13作品がメディアグランプリに掲載され、天狼院メディアグランプリ66th Season総合優勝も果たす。2025年5月より、ライターズ倶楽部へ。今は神戸で漢方相談に携わる。わかりやすいたとえ話で「伝わる漢方相談」をするのがモットー。
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