想いを運ぶ箱《週刊READING LIFE Vol.312 あなたにこれを食べてほしい》
*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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2025/6/26/公開
記事:大塚久(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
食べものには、味以上の何かが宿ることがある。
それは作った人の想いかもしれないし、一緒に食べた人との時間かもしれない。あるいは、誰かのために選んだときの、あの胸の高鳴りかもしれない。
子どもの頃、母が作ってくれた卵焼きの味を今でも覚えている。特別な材料を使っていたわけじゃない。卵に塩で味付けした、ごく普通の卵焼きだ。でも、遠足の朝に早起きして作ってくれたあの卵焼きは、どんな高級料理よりも美味しかった。たまに塩が足りなくて味がしない時もあったけど……
大人になった今、同じレシピで作ってみても、あの味は再現できない。きっと、母の「楽しんできてね」という想いが、最高の調味料だったのだろう。
あなたには、誰かに食べさせたいものがあるだろうか。今、ふと思い浮かべた人の顔があるなら、それはきっと大切な人なのだろう。その人が美味しそうに頬張る姿を想像するだけで、心が温かくなるような、そんな相手がいるなら、あなたは幸せだ。
僕にも、そんな記憶がある。それは、ケーキにまつわる、ちょっとおかしくて、でも忘れられない思い出だ。
■あの日のクリスマス
あれは12月24日、クリスマスイブの夕方だった。
仕事を早めに切り上げて、駅前のケーキ屋に向かった。店の前まで来ると、ガラス越しに見える店内は、予約の受け取りと駆け込み客でごった返していた。ドアを開けると、甘いバターの香りと、どこか懐かしいバニラの匂いが鼻をくすぐる。
ショーケースの中では、苺のショートケーキやチョコレートケーキ、タルトやシュークリームが、まるで宝石のように輝いていた。どれも美味しそうで、見ているだけで幸せな気持ちになる。クリスマス限定と書かれたプレートの横には、サンタクロースの砂糖菓子が乗ったケーキも並んでいる。
列に並びながら、僕は妻の悦子の顔を思い浮かべていた。
「チョコレートケーキがいいかな。いや、やっぱり定番の苺ショートか」
悦子は甘いものが好きだ。疲れた日には必ずと言っていいほど、コンビニでプリンやわらび餅を買ってくる。甘いものを食べると「はぁ〜」と幸せそうにため息をつく。そんな彼女が、クリスマスにケーキがないなんて寂しいじゃないか。
前に並んでいた女性が、大きなホールケーキを三つも注文している。きっと大家族なのだろう。後ろの男性は、小さな子どもを抱っこしながら「どれがいい?」と聞いている。みんな、大切な人のために選んでいるのだ。
「次の方どうぞ」
店員さんの声で我に返る。ショーケースをもう一度見渡した。モンブラン、レアチーズケーキ、フルーツタルト。どれも悦子が好きそうだ。でも、クリスマスはやっぱり……
結局、僕が選んだのは小さなホールケーキだった。真っ白な生クリームの上に、真っ赤な苺が等間隔で並んでいる。中央には「Merry Christmas」と書かれたチョコレートプレートと、小さな柊の葉の飾りが乗っていた。
「こちらの苺のクリスマスケーキでよろしいですか?」
「はい、それでお願いします」
ありきたりかもしれない。でも、悦子が子どものように目を輝かせる姿が目に浮かんだ。きっと「わぁ、ケーキだ!」って言うだろう。そして「帰りに買ってきてくれたの?」なんて言いながら、嬉しそうに写真を撮るに違いない。
「お待たせしました。こちら、崩れないように気をつけてお持ちくださいね」
白い箱に入れられたケーキは、思ったより重かった。店員さんが丁寧に保冷剤を入れ、「1時間以内にお召し上がりください」と説明してくれる。レジで支払いを済ませ、大切に両手で箱を持って店を出た。
駅までの道のり、僕は箱を水平に保ちながら慎重に歩いた。信号待ちの間も、箱が傾かないよう気をつける。まるで生き物でも運んでいるような緊張感だ。
電車の中では、膝の上に箱を置いて、両手でしっかりと支えた。車内は帰宅ラッシュで混雑していたが、ケーキの箱を見た隣の女性が少しスペースを空けてくれた。「ありがとうございます」と小声でお礼を言うと、彼女は微笑んで「クリスマスですものね」と返してくれた。
電車が揺れるたび、箱の中でケーキが動かないか心配になる。この重さは、ただのケーキの重さじゃない。悦子を喜ばせたいという、僕の想いの重さなのかもしれない。
家までの道のりで、去年のクリスマスを思い出した。去年は二人とも仕事が忙しくて、ケーキを買う余裕もなかった。コンビニで買ったカップケーキを食べながら「来年はちゃんとしたケーキ食べようね」と約束したんだった。
今年こそは、その約束を果たせる。箱の中で、苺たちがきっと綺麗に並んでいるだろう。悦子の驚く顔が、今から楽しみだった。
■「ただいま」と静かなすれ違い
「ただいま」
玄関のドアを開けると、いつものように悦子が出迎えてくれた。
「おかえり〜」
明るい声と笑顔。リビングからは香ばしい匂いが漂ってくる。ローストチキンの匂いだ。オーブンで焼いているのか、ハーブとバターの香りが家中に広がっている。
「いい匂い。鶏を焼いてるの?」
「そう。骨付きのやつだよ。もうすぐできるから」
テーブルをのぞくと、グリーンサラダとコーンポタージュも用意されている。赤と緑のパプリカが入ったサラダは、まるでクリスマスカラーのようだ。ワイングラスも2つ、きちんと並べられている。
いつもより少し特別な夕食の準備。悦子はクリスマスディナーを頑張って作ってくれた。僕は上機嫌で靴を脱いだ。
「あ、そうだ。ほら」
僕は得意げにケーキの箱を差し出した。悦子の喜ぶ顔が見たくて、わざと箱を少し揺らしてみせる。
「じゃーん! クリスマスケーキ買ってきたよ」
悦子の表情が一瞬で変わった。
笑顔が消えて、なんだか困ったような、申し訳なさそうな顔になる。目が泳いでいて、口元に手を当てている。
「え? どうしたの?」
僕の上機嫌も一気にしぼんでしまった。
「何かしちゃったかな? もしかして、ケーキ嫌いだった?」
慌てて聞く僕に、悦子は首を横に振った。
「ううん、そうじゃないの。ただ……」
「ただ?」
悦子が苦笑いを浮かべながら、キッチンの方を指差した。
「実は……私もケーキ作っちゃったんだよね」
「え?」
僕はケーキの箱を持ったまま、キッチンに向かった。
キッチンカウンターの上には、手作りのチョコレートケーキが堂々と鎮座していた。表面のチョコレートクリームはつやつやと光っていて、上には真っ赤な苺が綺麗に並んでいる。中央には白いチョコレートで「Merry Christmas」の文字。プロ顔負けの出来栄えだった。
「すごい……いつの間に」
「せっかくだから作ってみたんだ」
振り返ると、悦子がエプロンの裾をぎゅっと握っていた。よく見ると、エプロンにはチョコレートのシミがあちこちについている。髪の毛にも少し小麦粉がついていて、それがなんだか可愛らしかった。
「確か去年ケーキ用意できなかったんだよね。だから今年は作ってみようと思って」
悦子の言葉を聞きながら、僕は自分の持っているケーキの箱を見下ろした。
買ってきたケーキと、作ってくれたケーキ。
二つのケーキ。
同じ想い。
顔を見合わせた瞬間、同時に吹き出してしまった。
「ぷっ」
「あはは」
「なんだ、お互い同じこと考えてたんだ」
「そうみたい」
リビングに二人の笑い声が響く。さっきまでの困った空気が、温かい笑いに変わっていった。
そして、同時に吹き出した。
「ぷっ」
「あはは」
最初は小さな笑い声だったが、だんだん大きくなっていく。悦子は椅子に座り込んで、お腹を抱えて笑っている。僕も箱を置いて、壁にもたれかかった。
「なんだ、そういうことか、何か悪いことしたかと思って焦ったよ」
リビングに二人の笑い声が響く。さっきまでの重い空気が嘘のように消えていった。窓の外では、向かいの家のイルミネーションが点滅している。その光が、部屋の中にも小さく反射していた。
■重なる思い、ほどける気持ち
笑いが収まると、悦子がキッチンからお皿とフォークを持ってきた。
「せっかくだから、両方食べちゃおう」
「クリスマスイブにケーキ二つは贅沢だね」
「年に一度だし、いいんじゃない?」
テーブルに座って、改めて二つのケーキを眺める。僕が買ってきた苺のケーキと、悦子が作ったチョコレートケーキ。並べてみると、なんだか仲良しの兄弟みたいだ。
「どっちから食べる?」と悦子が聞く。
「両方ちょっとずつ食べよう」と僕は答えた。
「いただきます」
二人で手を合わせて、それぞれ一口目を口に運ぶ。
「美味しい」
「うん、美味しいね」
苺のケーキは、甘さ控えめの生クリームと、酸味のある苺のバランスが絶妙だった。スポンジもしっとりしていて、口の中でほろりと崩れる。
悦子の作ったチョコレートケーキは、濃厚なチョコレートの中にほんのりオレンジの香りが隠れていた。しっとりとした生地に、ガナッシュクリームがたっぷり。手作りとは思えない完成度だった。
「このチョコレートケーキ、すごく美味しい。お店で買ったみたい」
「本当? 実は結構簡単なレシピなんだよ」
「苺のケーキも美味しいね」
「うん、やっぱりクリスマスは苺も外せないよね」
ローストチキンの骨をきれいに片付けた後のテーブルで、二つのケーキが仲良く並んでいる。窓の外では、街のイルミネーションがきらきらと輝いていた。遠くから、クリスマスソングが微かに聞こえてくる。手作りのディナーと二つのケーキ。贅沢すぎるくらい特別なクリスマスイブになった。
コーヒーを飲みながら、僕たちは他愛もない話をした。今日の仕事のこと、来年の予定のこと、最近見た映画のこと。ケーキを食べながら、時々「美味しいね」と確認し合う。
「ねえ」と悦子が言った。「私たち、お互いのこと考えて行動してたんだね」
「そうだね」
「なんか、嬉しい」
お互いが相手のことを考えて行動していたこと。それが偶然重なってしまったこと。そのすれ違いが、かえって心の重なりを教えてくれたような気がした。
ケーキを食べ終わる頃には、部屋の中は温かい空気で満ちていた。
■記憶に残るのは、味じゃなかった
あれから何年か経った今、正直に言うと、あの時食べたケーキの味はよく覚えていない。
苺のショートケーキがどんな甘さだったか、生クリームの舌触りがどうだったか、詳しくは思い出せない。悦子が作ってくれたチョコレートケーキの濃厚さも、隠し味のオレンジの香りも、舌の記憶はすっかり薄れてしまった。
でも不思議なことに、あの日の光景だけは鮮明に覚えている。
ケーキ屋で列に並んでいた時の、あのそわそわした気持ち。ショーケースの前で「どれにしようか」と悩んだ時間。レジでお金を払う時の、少し誇らしいような感覚。
ケーキの箱を抱えて電車に乗った時の、少し照れくさい気持ち。周りの人たちも、きっと大切な人のために何かを運んでいたのだろう。車内で箱が傾かないよう、必死に支えていたあの緊張感。
そして、エプロン姿の悦子が見せた困ったような顔。髪についた小麦粉と、チョコレートのシミだらけのエプロン。「私も作っちゃった」と言った時の恥ずかしそうな笑顔。二人で顔を見合わせて笑った瞬間。あの笑い声は、今でも耳に残っている。
人の記憶というのは面白いもので、味や香りといった感覚的なものより、その時の感情や情景の方が強く残るらしい。脳科学の本で読んだことがある。感情と結びついた記憶は、海馬から大脳皮質に転送されて、長期記憶として保存されるのだとか。
記憶に残っていたのは、甘さではなく、あの時の気持ちだった。
誰かのために何かを選んでいる時間。
相手の喜ぶ顔を想像しているあの時間。
それらすべてが、心に深く刻まれている。
スーパーで悦子の好きなプリンを見つけた時、小さな高揚感が走る。
新商品のお菓子を見つけて、「これ、食べてみる?」と聞くときの、あの静かな期待。
一緒に食べながら「美味しいね」「まあまあかな」と感想を言い合う時間。
そういえば、結婚してから、僕たちは数え切れないほどの食事を共にしてきた。その一つ一つの味を覚えているわけじゃない。でも、「美味しかったね」と言い合った記憶は、確かに積み重なっている。
だから贈り物というのは、受け取った瞬間よりも、実は用意している時間の方が尊いのかもしれない。相手のことを考え、あれこれ悩み、選ぶ。その全ての時間に、愛情が宿っているのだから。
店で商品を手に取りながら「これは好きかな」「前に食べてたっけ」と考える時間。
レジに並びながら、渡す時の相手の顔を想像する時間。
持ち帰る道中、大切に運ぶあの時間。
それら全てが、実は贈り物の一部なのだ。
大切なのは、ケーキの数でも種類でもない。値段でも、店の格でもない。「あなたに食べてほしい」と思うその気持ちが、何よりも甘い贈り物なのだから。
母が作ってくれた卵焼きが特別だったように。悦子と食べたクリスマスケーキが忘れられないように。食べものは、ただの栄養補給じゃない。そこには、作る人、選ぶ人、一緒に食べる人の想いが詰まっている。
今、この文章を読んでいるあなたにも、きっとそんな記憶があるはずだ。
誰かに作ってもらった料理。
誰かと一緒に食べたお菓子。
誰かのために選んだ食べもの。
その記憶を思い出してみてほしい。そこには、温かさが宿っているはずだから。
そして、これから先も、そんな記憶を作っていけるはずだ。高級なものじゃなくていい。手の込んだものじゃなくていい。ただ、「あなたに食べてほしい」という気持ちがあれば、それは最高の贈り物になる。
クリスマスじゃなくてもいい。
誕生日じゃなくてもいい。
何でもない日の、何でもない贈り物が、実は一番心に残ったりする。
誰かのために、そっと選んだそのひと口が、思い出の味になるかもしれない。
□ライターズプロフィール
大塚久(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
神奈川県藤沢市出身。理学療法士。RYT200ヨガインストラクター。2002年に理学療法士免許を取得後、一般病院に3年、整形外科クリニックに7年勤務する。その傍ら、介護保険施設、デイサービス、訪問看護ステーションなどのリハビリに従事。下は3歳から上は107歳まで、のべ40,000人のリハビリを担当する。その後2015年に起業し、整体、パーソナルトレーニング、ワークショップ、ウォーキングレッスンを提供。1日平均10,000歩以上歩くことを継続し、リハビリで得た知識と、実際に自分が歩いて得た実践を融合して、「100歳まで歩けるカラダ習慣」をコンセプトに「歩くことで人生が変わるクリエイティブウォーキング」を提供している。
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