「私たちは“作業”という言語で、世界とつながっている」 《週間READING LIFE テーマ ‘国際社会’》
*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
2025/7/31/公開
内山遼太(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
「私、あなたの言ってること、わかりません」──目の前の患者は、リハビリの説明に首を振った。彼女の名前はマリア(仮名)。フィリピンから来日して三年、脳梗塞で倒れた夫の介護をしながら、自身も右手に麻痺を抱えていた。私は作業療法士として、彼女の手の機能回復に向けた訓練メニューを説明していたのだが、通訳者はその日欠席。私たちは、互いの言葉が通じない静寂の中で向き合っていた。
私の心は焦りと無力感で満たされた。専門知識があっても、それを伝える手段がなければ何の意味もない。その時、私は気づいたのだ。作業療法とは、言葉や文化を越えて届くものなのだろうか。それとも、私たちが思っている以上に、言語や文化に依存したものなのだろうか。グローバル化が進む現代において、この問いは決して避けて通れない課題となっている。
現在の日本社会は、かつてないほど多様化している。外国人労働者、技能実習生、国際結婚による配偶者、そして難民申請者たち。厚生労働省の統計によれば、日本に住む外国人の数は年々増加し、それに伴い医療現場での言語・文化的課題も深刻化している。
作業療法士もまた、この「国際社会の一員」として機能せざるを得ない現状に直面している。リハビリテーション病院の廊下では、様々な言語が飛び交い、宗教的な配慮を必要とする患者、食文化の違いから生じる栄養指導への戸惑い、家族観の相違による治療方針への意見対立──これらは今や、都市部の医療機関では日常的な光景となっている。
しかし、文化の違いがリハビリの現場にもたらす影響は、単なる言語の壁だけではない。それは、その人の「生きる」ということの根幹に関わる価値観の違いなのである。
私は、作業療法士とは「通訳者」のような存在であると考えている。ただし、この通訳者が翻訳するのは言葉ではない。言葉にならない「生活の習慣」を、目の前の現実に置き換えていく──それが私たちの仕事なのだ。文化・言語・価値観を”翻訳”し、患者がその人らしく生きる道をつなぐ役割を担っているのである。
なぜなら、作業療法の本質は「その人にとって意味のある作業(活動)」を通じて、生活の質を向上させることにあるからだ。ここでいう「意味のある作業」とは、文化的背景と密接に結びついている。日本人にとっての「箸を使った食事」と、フィリピン人にとっての「手で食べるライス」は、同じ「食事」という作業でも、その意味合いは全く異なる。
先ほどのマリアの例で言えば、私が最初に提案した「ペンを持つ練習」は、彼女にとって必ずしも優先度の高い作業ではなかった。彼女が本当に必要としていたのは、「夫の着替えを手伝うこと」「フィリピン料理を作ること」「同郷の友人たちと教会で過ごすこと」だったのである。
このような気づきから、私は彼女の生活様式に合わせたリハビリプログラムを組み直した。ペン習字の代わりに、夫のシャツのボタンを留める練習を。筋力トレーニングの代わりに、重いフライパンを持ち上げる動作を。そして何より、彼女の母国語で書かれた聖書のページをめくる動作を取り入れた。
「治す」のではなく、「暮らしを共に考える」──これが作業療法士の本来の姿勢である。そして、この姿勢こそが、国際社会において最も重要な「文化の感度」を育むのだ。
異文化理解力は、今や作業療法士にとって不可欠なスキルとなっている。生活様式の違い、食文化の違い、ジェンダー観の違い、家族観の違い──これらすべてが、リハビリテーションの方向性を決定づける要因となるからだ。
例えば、イスラム教徒の女性患者の場合、男性の作業療法士との接触には宗教的な配慮が必要になる。また、韓国出身の高齢者の場合、儒教的な価値観から、年長者が若い医療者に「指導される」ことに抵抗を感じることもある。
私が担当したパキスタン出身のアフマドさん(70代男性・仮名)の場合は、特に印象深い経験だった。脳卒中後の右片麻痺で、歩く練習が必要だったのだが、彼は頑なに歩行訓練を拒否していた。理由を聞くと、「祈りの時間に間に合わない」ということだった。イスラム教徒にとって、一日五回の礼拝は何よりも優先されるべき「作業」なのである。
そこで私たちは、礼拝の時間を避けたリハビリスケジュールを組み、さらに「礼拝時の立ち座り動作」を歩行練習の一環として取り入れた。結果として、アフマドさんは積極的にリハビリに参加するようになり、歩行能力も格段に向上した。何より、「自分の信仰が理解された」という安心感が、彼の回復意欲を大きく後押ししたのである。
興味深いことに、作業療法士が「国際社会」に直面するのは、必ずしも海外での活動に限られない。日本国内においても、私たちは日常的に”異文化”と向き合っているのだ。
技能実習生として来日したベトナム人の若者が、労働災害で手指を負傷したケース。東京都内の病院で、中国残留邦人の妻として来日した女性の認知症ケアを行ったケース。千葉県の医療機関で、医療通訳が配置されていない中、様々な国籍の患者と向き合ったケース──これらはすべて、日本国内で実際に起こっている「国際社会」の現実である。
特に印象的だったのは、東京都内でのブラジル人高齢者、ジョゼさん(仮名)との出会いだった。彼は30年前に出稼ぎ労働者として来日し、そのまま日本に定住していたが、パーキンソン病を患い、日常生活に支障をきたしていた。
ジョゼさんの場合、言語の問題以上に深刻だったのは「居場所」の問題だった。日本語は流暢に話せるものの、日本人のコミュニティには完全には溶け込めず、かといってブラジル人コミュニティでは「日本かぶれ」と見られることもある。彼は文字通り「どこにも属さない」存在として、孤独感を抱いていたのだ。
そこで私たちが着目したのは、彼の「サッカー」への愛情だった。ブラジル人としてのアイデンティティと、日本での長い生活体験の両方を活かせる活動として、地域の子どもたちにサッカーを教える活動を提案したのである。パーキンソン病による運動機能の低下はあったものの、彼の豊富な経験と知識は、子どもたちにとって貴重な財産となった。
冒頭のマリアとの話に戻ろう。言葉が通じない中で、私たちはどのようにして「通じ合う」ことができたのだろうか。
答えは、「作業」そのものにあった。彼女が愛用していた、フィリピンの伝統的な編み物「バニック」を、手の機能回復の道具として活用することを思いついたのである。彼女の麻痺した右手でも編めるよう、針の持ち方を工夫し、編み目のパターンを簡単にアレンジした。
最初は戸惑っていたマリアだったが、慣れ親しんだ毛糸の感触と、かちゃかちゃと針が触れ合う懐かしい音に包まれながら、徐々に手指の動きが改善していく実感を得られたようだった。そして何より、彼女の表情が輝いた瞬間があった。完成した小さなコースターを手に、「サラマット(ありがとう)」と、初めて私にタガログ語で感謝の言葉をかけてくれたのである。
その時、私は理解した。言語がなくても、「作業(生活)」を通じて伝わるものがあるということを。彼女にとってバニックは単なる手作業ではなく、故郷の母親から教わった技術であり、フィリピンの文化そのものだった。その文化的な意味を理解し、リハビリに取り入れることで、私たちは言葉の壁を越えて「通じ合う」ことができたのだ。
同時に、マリアもまた、日本での新しい生活に適応するための「作業」を学んでいた。バニックで作ったコースターは、近所の日本人女性たちとの交流のきっかけとなり、彼女の日本語学習への意欲も高まった。文化は一方通行ではなく、互いに影響し合い、新しい価値を生み出すものなのだということを、私は彼女から教わったのである。
振り返ってみると、作業療法士の役割は「治す」ことではなく「つなぐ」ことにあるのではないだろうか。患者と健康をつなぎ、個人と社会をつなぎ、そして異なる文化をつなぐ──私たちは「つなぐ」専門職なのである。
国際社会において、作業療法士は一種の”静かな外交官”のような存在だと思う。大きな会議室で条約を結ぶわけではないが、一人ひとりの患者との関わりを通じて、文化間の理解と協調を深めている。それは地味で目立たない活動かもしれないが、確実に世界を変えている。
グローバル化が進む現代において、文化的多様性は避けられない現実である。その中で作業療法士に求められるのは、異文化を「理解する」ことではなく、異文化と「共生する」ことだ。完全に理解することは不可能かもしれないが、相手の文化を尊重し、自分の文化との共通点を見つけ、新しい価値を創造することは可能なのである。
世界が混ざり合う時代に、「生きること」の共通語を届けるのが、作業療法士の使命なのだろう。私たちが扱う「作業」は、言語や文化を超えた人類共通の営みである。食べること、着ること、住むこと、働くこと、遊ぶこと、愛すること──これらの基本的な生活行為は、どの文化においても存在し、その人らしい生き方の核となっている。
あの日、マリアがリハビリ室を出るとき、彼女は少しだけ笑っていた。完成したコースターを大切そうに手に持ち、夫に見せに行くのだと言っていた。彼女のタガログ語での説明は理解できなかったが、その表情から、彼女が何を感じているかは十分に伝わってきた。
言葉が通じなくても、心は通じ合える。文化が違っても、生きる喜びは共有できる。そして、作業療法士である私たちは、その橋渡しをする特権を与えられているのだ。
私たちは言葉を超えた「作業」という言語で、世界とつながっている。それは、人類が共有する最も古く、最も新しいコミュニケーションの方法なのかもしれない。
≪終わり≫
□ライターズプロフィール
内山遼太(READING LIFE ライターズ倶楽部)
千葉県香取市出身。現在は東京都八王子市在住。
作業療法士。終末期ケア病院・デイサービス・訪問リハビリで「その人らしい生き方」に寄り添う支援を続けている。
終末期上級ケア専門士・認知症ケア専門士。新人療法士向けのセミナー講師としても活動中。
現場で出会う「もう一度◯◯したい」という声を言葉にするライター。
2025年8月より『週刊READING LIFE』にて【心と身体の再起動スイッチ】連載開始。
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