キャンセル界隈に住んでみたら最強になる説《週刊READING LIFE Vol.321「フリー」》
*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
2025/8/28/公開
記事:志村幸枝(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
私はやめた。その小さな義務感をそっと手放した。新しい職場に転職し、通勤時間は往復で2時間延びた。起床は1時間早く、帰宅は1時間遅い。それだけの時間が生活から抜け落ちた。足りない時間はどうにも出来ない。だから削った。たぶん限界だった。気持ちの余白も、時間も、体力も、足りなかった。きっと、もっと前からやめたかったんだと思う。やめた瞬間、自分が楽になるのを感じた。我慢して履いていたパンプスを玄関で脱いだ時みたいに。
そうする前は、焦燥感からか、朝は勝手に目が覚めていた。ベッドの中で段取りを付けてから、キッチンへ直行。主菜は何か、副菜はどこに詰めるか。色味、味のバランス、などなど。あるときから卵焼きをやめて、ゆで卵一択にした。そのときから「やめる」に向かっていたのかもしれない。そう、私は、お弁当をやめたのだ。そうしてみたら、裸足になって大地を蹴る、そんな伸びやかな自分がいた。
私は漢方相談を仕事にしている。健康を語る者として、家族に出来合のものを出すなんて、とんでもない行為だと思っていた。思い込んでいた、のほうが正しいか。作ることが誠実で、やめることは愛情の放棄に思えた。
だから最初はすごく躊躇した。「今日は時間がないから何か買って」と、息子にお金を渡しながら、心の中は罪悪感でいっぱいだった。でも一方で、「これで良かったんじゃないか」という気持ちもあった。ふと職場の近所のお惣菜屋さんに入ったとき、並んでいた煮物がやけにおいしそうで、つい手が伸びた。家に持ち帰って食べたら、驚くほどやさしい味だった。出汁がしっかりしていて、私のつくるどこか義務感まみれのおかずよりも、よほど美味しかった。「あ、これでいいやん」と思った。というか、「これの方が良いかも」とさえ思った。それから私は、お惣菜を買って詰める、という選択肢を日常に入れた。市販のおかずを弁当に入れるという背徳感。最初は少しビクビクしていた。息子はなんて思うだろうと、気にしていた。でも、息子は何も言わなかった。完食された弁当箱を見て、私は悟った。「私がいちばん気にしていたのは、世間体と、見栄と、自分自身だったんだな」と。
手作り弁当は、正しさの象徴みたいなところがある。真面目で努力家。家族思いで健康志向。インスタで丁寧に並んだおかずを見るたびに、無言の圧を感じていた。どんなに気にしてないフリをしていても、あの光景は脳に焼きつく。勝手にジャッジされてる気がして、勝手に勝負を仕掛けて、勝手に負けた気になる。ほんと、何と戦ってるんだろうと思う。でも多くの母親たちが、無意識に「弁当=私の価値」だと信じている。「ちゃんとしてる感」を担保する最後の砦。手作りのハンバーグ、手作りの卵焼き、手作りの煮物。手作りの、手作りの、手作りの。ああ、もううるさい。
でも、私は知っている。みんなこっそり冷凍食品を詰め、こっそりスーパーの惣菜を入れ、こっそり早起きをサボる。やめたとは言わない。そんなことだろうと思うようにしたら気分が楽になる。その真相を確かめる術はないし、そう思うことで自分自身が保たれるならそういうことにしておこう。それでいいじゃないか。自分でそう思い込む。私が決めた。
ということで、私は今、毎朝のお弁当作りをやめた。といってもすべてをやめたのではない。「お弁当をつくる」の中には、買い物をする、メニューを決める、おかずをつくる、お弁当箱に詰めるという工程がある。私が残したのは「詰める」の作業。洋服で言うなら、スタイリストの仕事になるのだろうか。プチトマトを最後に添える。それはあたかも、スタイリングの総仕上げにブローチをそっと添えるようなこと。わたしはその瞬間が好きだ。毎回息を止めて「ここだ!」と思う余白に艶やかな赤を添える。これはやめたくない。そして、たまに気が向いたら作るときもある。これが私のスタイルだ。そうやって、これはやる、やらないを「自分で決めている」ということが大事だ。他人に言われたからじゃない。世間がどうとか、常識がどうとか、健康に良いとか悪いとか、全部、参考意見。最終的に「これでいこう」と腹をくくったのが自分だ。
そんなときに出会ったのが「キャンセル界隈」という言葉。テレビ番組で取り上げられていた。あまりにもしっくりきた。誰も責めない感じ、否定も肯定もしない感じ、それでいて、しれっと自分の「当たり前」を更新していく感じ。やめることが逃げでもズボラでもなく、「自分で選びなおす」ことだとすんなり思わせてくれるところも小気味良い。その全部が、たまらなく絶妙だなと思った。感心のあまり、唸ってしまった。すると息子が「お母さん、今ごろ知ったん?」と、「それ常識やん」みたいな言い方をした。そっちがそうなら、こっちはこうだ。私は間違いなく、この界隈の一員だと言いたい。「手作りお弁当キャンセル界隈に住んでます」と。息子の言葉に背中を押されたような気がした。
人は何かをやめるとき、何かしらの「引け目」を感じる。本当にそれでいいのか、後悔しないのか、その判断が正しいのか。デメリットやリスクを抱えながら決める。でも、この「キャンセル界隈」という言葉には、そういったモヤモヤを抱える必要を感じない。きっと、「界隈」という言葉の力だ。ふんわり、ぼんやり、「この辺」という境界線を持たない感じ。白とも黒ともつかない。まるで都の人が自分の思想が腹の中にあるのに明らかにせずやり過ごしていることにも似ている。とはいえ、それよりも、もっとライトなものだ。何も背負っていない。そして、やめることを決めているようで決めていない。キャンセルは一時的な棚上げで、またいつでも再開する、もしくは仕切り直すというニュアンスがある。一度はインストールしたアプリを「やっぱコレいらないかも」と削除したのに、思い直してもう一度取り込むように。やめたっていい。選びなおしたっていい。やりたくなったらまた始めればいい。大切なのは、自分の手に選択肢を戻してくること。自分でどうにでも出来ることが手中にあるということ。そう感じる。
そういえば、20年以上勤めた職場を退職するときもお客様に「チャレンジしてダメだったら戻ってきたらええやん? 出戻りもありやんか」と言われたことを思い出す。「へぇ」とか「はぁ」とか、曖昧な返事をしただけだったが、ふと心が軽くなったのは覚えている。実際に出戻るかどうかは別として「出戻ってもいいんだ」と思えること。選択肢が一つ自分の中に増えること。それって心強い。実際、取引先には、一度退職した営業さんが、出戻っていた例もあり、それこそ興味深い。
人は無意識のうちに「やらなきゃ」の檻をつくってしまう。「○○すべき」「○○ねばならない」でがんじがらめにしてしまっている。お弁当は手作りじゃないと愛がない。体に悪い。母親失格。そうやって、気づけば自分自身も檻を作って中にいた。その檻の鍵は自分が持っていて、出入りは自由だというのに。
「キャンセル界隈」と言う言葉は、人が本来持っているはずの軽やかさをそっと返してくれた。やってもいいし、やらなくてもいい。その間にある、選べるという贅沢。何かを手放しても、自分は減らない。むしろ自由度は上がっていく。そうやって肩の力を抜いたときに人は案外、最強になる。「最強」とは、何かを全部制覇した人とか、誰にも負けない人を想像しがちだ。でも実際はもっと地味で、静かで、たぶん見た目では分からない。外から見れば、何かを“やめた人”にしか見えないこともある。けれど本当の最強は、「やめても大丈夫」と知っている人だ。やめても、手放しても、自分の価値が変わらないことを骨の奥で分かっている人。強くあろうとして肩に力を入れるのではなく、どこで力を抜くかを知っている人。その軽さがあるからこそ、何が来ても立ち直れるし、何度でも始められる。最強なのは、戦う人じゃなくて、選べる人、そんな風に思う。私はこの夏、「キャンセル界隈」に住んでみて、その「最強」に一歩近づいた気がしている。
❑ライターズプロフィール
志村幸枝:しむらゆきえ(READING LIFE編集部 ライターズ倶楽部)
京都在住の道産子。27年勤めた漢方相談店を退職し、2025年1月より、ライティング・ゼミに参加。16週間で13作品が天狼院メディアグランプリに掲載され、66th Season総合優勝を果たす。2025年5月より、ライターズ倶楽部へ。今は神戸で漢方相談に携わる。わかりやすいたとえ話で「伝わる漢方相談」をするのがモットー。
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