週刊READING LIFE vol.322

内なる怪物が大暴れ。人生最大の自己嫌悪は夫のジーンズをお好み焼きに仕立てた事件。《週間READING LIFE Vol.322「本当は墓場まで持って行きたい話」》


*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

2025/9/4/公開

 

記事:志村幸枝(READING LIFE編集部 ライターズ倶楽部)

 

 

女性の多くは怪物を飼っている。思春期頃からムクムクと育ち、それが大きくなると、こちらではコントロールしきれない存在になる。自分の中にいるのに自分ではない感じ、別の自分に侵食されそうな不安。カラダの変化に戸惑う年頃に、そんな不安も同時に抱えるから厄介だ。イライラが止まらない、自分が自分でなくなる、あとから恐ろしくなって自己嫌悪に沈む。これは生理前に、より顕著になる。ああ嫌だ。何故こうも影響を受けるのか。そう、PMS。日本語では「月経前症候群」ともいう。生理の数日前から現れる心と体の不調の総称だ。ホルモンの変動によって起こるもので、頭痛やむくみといった身体症状から、イライラや落ち込みといった精神症状まで幅広い。要するに、本人の意思ではコントロールできない「強制イベント」みたいなものである。もちろん個人差はあるので、世の女性が全員そうだとは言わないが。

 

そばにいる人間にしたらどうか。もう、これは完全に地雷原を歩く訓練である。女性同士、気心が知れていれば事前に「わたし、もうそろそろピリつく予定です」なんて言えたりするが(実際、そう言って周りの理解を得ながら社会生活を送っている女性がいる)、男性に対してはそうはいかない。それでも最近はそういうことを認識している男性も多いらしい。水面下で機嫌を伺い、余計なことは言わず、嵐が過ぎ去るのを待つ人が居るというのだ。

 

——ここまで書くと「いやそれは理不尽すぎる」と言いたくなる男性も多いだろう。だが、持って生まれた性分(イライラしやすい、短気、怒りっぽいなど)とPMSがタッグを組んだときの爆発力は、人智を超えている。もはや「機嫌」ではなく、「人体のシステム」に支配されている、という話だ。本人ですら止められないのだから、周りの誰かにだって止められるわけがない。

 

じゃあ、丸腰でひたすらじっと待つしか無いのか?

いや、そんなことはない。

 

私の仕事は漢方相談だ。日頃の相談で何度も出会ってきた。こういう女性がなんと多いことか。わかる。私もその一人だったから。自分が嫌で嫌で仕方が無かった。でも安心して欲しい。わたしも、無事に生きているから。

 

さて、ここからが本題だ。今でこそ飼い慣らせている私の内なる怪物。その昔、制御不能となり大暴れした時の話だ。中でも忘れがたいのが、夫と同棲を始めたばかりの頃の出来事だ。まだ恋人モード全開で、相手の一挙手一投足に神経がヒリついていた時期。ある晩、夫が飲み会に出かけて、夜になっても連絡がつかなかった。今の私なら「まあ、飲み過ぎて電車の中で寝ちゃったから終点まで行ってるんやろな」と思って終わる。だが当時は違った。電話に出ないのは何故? 嫉妬と不安で眠れず、イライラは頂点を迎えた。

 

眠れない。眠れないとさらにイライラが募る。そうすると人はどうなるか。理性は蒸発し、感情だけが暴走する。私の場合は「モノに当たる」だった。思春期から続く習性だが、その夜はスケールが違った。頭は真っ白、ただ一つ「何を壊せば一番彼に効くか」という冷静な演算だけがフル稼働していた。そこで視界に入ったのが、夫が大事にしていた生デニムのジーンズ。いわゆる「新品を育てるやつ」で、二人お揃いで買った一本だ。濃い藍色の生地がようやく柔らかくなってきて、色落ちの仕方や、身体へのフィット感など、彼にとって、愛着が湧く逸品になりつつあるものだった。

 

私はそのジーンズにハサミを入れた。工作ばさみではなく、裁ちばさみで。そうじゃないとジーンズのような厚手の生地は裁断出来ない。そういう判断だけは、やけに冷静だった。じょき。じょき。じょき。手にその感触が伝わってくる。その鈍い振動がたまらなく気持ちいい。これで再起不能だ。ダメージジーンズとしても存在できない状態になった。しかし気は収まらない。私はキッチンに向かい、おもむろに冷蔵庫を開けた。マヨネーズとお好み焼きソースを取り出し、自分の中の最大握力でこれでもかと言うくらいに絞り出した。大事なものがこんなにもぐちゃぐちゃになって、彼はさぞかしショックを受けるだろう。そこに満足すると、抑えきれなかった感情がおさまり、私はようやく眠ることが出来た。

 

でも翌朝。私は自己嫌悪で死にたくなった。なんでこんなことをしてしまったんだろう。お揃いで買ったのに。良い感じで色落ちしてたのに。同じものをまた買ったって最初からやり直しだ。愛着が沸くまでどれくらい時間がかかるだろう。モノを失っただけでなく、そういったプロセスや思い出も私は全部ぶち壊してしまったのだ。夫は床に転がるジーンズの残骸を見て、激怒したりしなかった。悲しんだような、哀れんだような、そんなやりとりがあったように思う。普通の男ならここで別れるだろう。でも夫は別れなかった。とにかく夫は私のその「仕業」を受け止め、それからずっと一緒に居てくれている。

 

 

 

 

この「黒歴史」から30年。私はようやく勇気を出して、あの夜のことを夫に改めて尋ねてみた。

 

「ねえ、あの時どう思ったん?」

すると彼は、パソコン作業の手を止めてこう言った。

「かわいいと思っただけや」

……は?

「鰹節と青のりまで散らして見事にお好み焼き仕立てになってたやんか」

……へ?

 

わたしの脳内記憶では、ソースとマヨネーズでドロドロにしたのはしっかり覚えていたが、トッピングまで施していたとは、なんとご丁寧な! 「我ながらあっぱれ」と思えて笑ってしまった。とはいえ、その当時の現場でそれを思えるかは別の話だ。ジーンズをお好み焼き仕立てにした女を前に「かわいい」と思える精神構造。私には理解できない。こわい。こわすぎる。

 

これを「かわいい」と評するなら、動物園でライオンがシマウマを仕留めた瞬間を見て「キャワイイィィイ」と叫ぶレベルの感性だ。動物的自己防衛反応の観点から捉えるに、これは人類の進化から軽く逸脱している。

 

ではなぜ「かわいい」になるのか。夫には独自の脳内翻訳機があるようだ。普通の人が見れば「恐怖」が、彼には「愛情の暴走」。普通の人が感じる「怒り」が、彼には「不器用な表現」。普通の人なら逃げる「危険信号」が、彼には「なんかかわいい」など。プラス解釈にもほどがある。

 

……なるほど、つまり彼は30年間、私を「人間」ではなく「やんちゃなペット」として認識していた可能性がある。床で暴れる柴犬。ソファを引き裂く猫。カーテンによじ登るフェレット。そこに「かわいい」が発動するなら、ジーンズお好み焼き仕立て~鰹節と青のりを添えて~も同じカテゴリに入るのだろう。自分がやった黒歴史がちょっと健気にかわいく思えてきたぞ。

 

内なる怪物に翻弄されている女性のみなさんへ。

私はこの黒歴史を明らかにしつつ、でも今はそれを漢方という方法で飼い慣らし、社会的に過ごせている、と伝えたい。長年、この事件を墓場まで持って行こうと思っていた。あまりにも恐ろしい出来事だと自覚していたから。でも、それから30年経って、夫が「かわいい」と言い切った瞬間、言ってしまっても良いことなのかもしれないと思えた。

 

いずれにしても、胸を張れることではない。私にとっては恥であり、罪であり、自己嫌悪の象徴だった。でも誰かにとって、自分の中で持て余す怪物を飼い慣らし、「自分のことを好きになれる可能性がある」って思うきっかけになるのなら、ここで差し出す意味があるのではと思う。

 

 

❏ライタープロフィール

志村幸枝:しむらゆきえ(READING LIFE編集部 ライターズ倶楽部)

京都在住の道産子。27年勤めた漢方相談店を退職し、2025年1月より、ライティング・ゼミに参加。16週間で13作品が天狼院メディアグランプリに掲載され、66th Season総合優勝を果たす。2025年5月より、ライターズ倶楽部へ。今は神戸で漢方相談に携わる。わかりやすいたとえ話で「伝わる漢方相談」をするのがモットー。

 

 

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

2025/8/28/公開

お問い合わせ


■メールでのお問い合わせ:お問い合せフォーム

■各店舗へのお問い合わせ
*天狼院公式Facebookページでは様々な情報を配信しております。下のボックス内で「いいね!」をしていただくだけでイベント情報や記事更新の情報、Facebookページオリジナルコンテンツがご覧いただけるようになります。


■天狼院カフェSHIBUYA

〒150-0001 東京都渋谷区神宮前6丁目20番10号
MIYASHITA PARK South 3階 30000
TEL:03-6450-6261/FAX:03-6450-6262
営業時間:11:00〜21:00


■天狼院書店「湘南天狼院」

〒251-0035 神奈川県藤沢市片瀬海岸二丁目18-17
ENOTOKI 2F
TEL:04-6652-7387
営業時間:平日10:00~18:00(LO17:30)/土日祝10:00~19:00(LO18:30)


■天狼院書店「京都天狼院」

〒605-0805 京都府京都市東山区博多町112-5
TEL:075-708-3930/FAX:075-708-3931
営業時間:10:00〜22:00


■天狼院書店「名古屋天狼院」

〒460-0002 愛知県名古屋市中区丸の内3-5-14先
Hisaya-odori Park ZONE1
TEL:052-211-9791
営業時間:10:00〜20:00


■天狼院書店「福岡天狼院」

〒810-0021 福岡県福岡市中央区今泉1-9-12 ハイツ三笠2階
TEL:092-518-7435/FAX:092-518-4149
営業時間:
平日 12:00〜22:00/土日祝 10:00〜22:00



2025-09-04 | Posted in 週刊READING LIFE vol.322

関連記事