週刊READING LIFE vol.328

 白雪姫は運がいい? 《週間READING LIFE Vol.327「あなたは運がいい? それとも悪い?」》 


*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

2025/10/16 公開

記事 : ひーまま (READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

 

白雪姫のお母さんは、白雪姫がお腹にいるときにお祈りをした。「お腹の赤ちゃんが雪のように白い肌で生まれてきますように」

 

そして裁縫をしていた時に、うっかり指を刺してしまって真っ赤な血が布に一滴落ちたのをみて「この血のように真っ赤な唇のかわいい赤ちゃんが生まれてきますように」とむかしむかしのおとぎ話は始まる……。

 

「ほんでな、ママはひろみがお腹に入ってるときにおんなじお祈りをしたんや。 雪のように色白で、血のようにまっかな唇で生まれてきてほしいて」母は私が物心ついたころからこの話を何度もしてくれた。 

その後に母の話はこう続く。

 

「そやさかいひろみは色白で、唇がええ赤い色しとるんやで」

さらにこう続くのだった。

「せやから、色の白いは七難隠すゆうてな、ほんまによかったなあ」

 

まだ幼稚園に入る前のわたしは、(ほんまにすごいな~、色が白いだけで丸儲けや)と、うまく言葉にはできないが、心の底から「私は白雪姫なんやな」と思っていた。

 

母は何回もその話をしてくれたが、実は白雪姫のお話の全容は話してくれていなかったのだ。 私は母のお腹の中で、母の美しいお祈りによって(色白)という宝物をいただいたんだ、と思っていた。

 

ところがそのあと幼稚園に入園すると、先生が「白雪姫」の絵本を読んでくれた。最初のお母さんのお話以降の展開は想像を超えていて衝撃だった。白雪姫の人生がこんなに波乱万丈だったなんて!

 

色が白いだけで7つもの災難を隠すのではなかったのか?

 

と感じつつも私は「白雪姫」の物語がなんど聞いても飽きない素晴らしい物語として深く心に残ったのである。

 

第一に白雪姫は、色が白く唇が赤いかわいいだけのお姫様ではないことである。お母さんは白雪姫を残して亡くなってしまうがお母さんの深い愛情にきっと守られていたのだろう。すくすくと素直でかわいい女の子として成長する。

 

第二に白雪姫は、かわいいだけではない心の強さを持っている。継母に邪険にされても意地悪をやり返したり、くよくよと落ち込んだりはしないのだ。

 

第三に白雪姫は、自分の境遇を嘆いたり悲しんだりすることなく、目の前に起きてくることに対して実に前向きである。

特に暗い森の中でさまよいながらも小人たちの家を見つけると、そこに住むまだ見ぬ住人のために、掃除や食事の用意までしてしまうのだ。

 

ここまで白雪姫の話を思い出してくると、白雪姫ほど運がいい女の子はいないのではないのか? と思えてきた。

 

私が考える「運」の良さとは、生まれた環境や、才能のあるなしにかかわらず、どんな状況にあっても物事を好転させる「考え方」にあるのではないのか? と昔から感じてきた。

産まれながらに「運」がよいとか、天から幸運が降ってくるようなことではないような気がしている。

 

白雪姫は、その物事の良い側面を何十倍にも大きくして、たびたび訪れる「不運」を乗り越えたのではないのか?

 

最後に「お妃さま特性毒リンゴ」を食べさせられたときは、これはついに運の尽きか? と思ったが、さにあらず、王子様の登場によって急展開の「大幸運」の最後を迎えるのだ。

 

白雪姫の、素直で無邪気な心の美しさが報われたような気持になって、ハッピーエンドに感動したものだ。

 

その白雪姫と同じ色白で唇の赤い私は、母からのお話を聞くたびに、

自分は運がいいのだ。 と思っていた。

 

何しろ「色の白いは七難隠す」のだ。

 

「運」がいいと思っていた私の人生は、その後文字通り「運」がよかったのか? と思い返すと、実は私の人生、白雪姫ほどとは言わないが、実に波乱万丈だった。

 

その事実にはっきりと気が付いたのが還暦を前にして、人生の振り返りと言うことを、あるワークショップで取り組んだことからだった。

 

私の人生の始まりは、大阪の八尾市である。

おじいちゃん、おばあちゃんと、両親、二歳離れた妹と、母の年の離れた妹、居候といわれていたお兄ちゃんが二人の9人が住む大所帯だった。

 

昭和35年の事だ。私が生まれた翌年が、現在の上皇ご夫妻がご成婚された年で、真新しいテレビに結婚のパレードが映っている画面の前にちょこんと座らされている赤ちゃんの私の写真がある。

 

いまでもはっきりと覚えているが古い日本家屋のその家は、広い玄関から畳敷きの広い廊下があって、玄関の正面に10畳ほどの広い和室があり、来客があると決まってその床の間のある部屋に通される。

 

おじいちゃんはそこで煙草盆のなかで炭をおこして、いつもゆっくりとキセルで煙草をふかしていた。

 

その部屋をまっすぐ庭に向かうと縁側があって、庭にはたくさんの盆栽の鉢が並んでいた。

 

玄関から左へ行くと6畳ほどの和室がありそこが家族の食堂だった。 大きな木の机に、みんながずらりと並んでご飯を食べるのが本当に楽しいひと時だった。

 

その部屋からは土間があり、そこにはおくどさんが並ぶ台所だ。

現在では古民家でも行かなければ見ることのない、昔の台所だ。

 

おくどさんには2個のかまどがあって、いつも火をおこすのはおばあちゃんだ。今、思えばよくそんな台所でご飯を炊いたり、おかずを作ったりしていたものだ。

 

水は井戸から汲み上げて、大きなかめのようなものになみなみとためてあった。柄杓でその水を飲ませてもらうのだが、いま思い出しても美味しい水だった。

 

思い出の中のお爺ちゃんやおばあちゃんは、いつもニコニコ笑っている。若い両親も穏やかな顔をしている。

 

私が2歳半の時、父の転勤で広島へ引っ越しすることになった。

 

それを告げられた2歳半の私を、はっきり記憶している。

 

(父と母と一緒に住めなくてもいい、私はお爺ちゃん、おばあちゃんと一緒にいたい! 広島なんか行かへん! ) 

 

言葉にならない私は、暴れるしか手立てがなかったが、言葉にならない私の気持ちを、おじいちゃんははっきりわかってくれて、「ひろみがな、おじいちゃんのへそまで大きなったら、大阪へ帰ってきたらええからな。約束やで」と指切りしてくれたのだった。

 

早くおじいちゃんのへそまで大きくなるのだ!

 

そう思いながら列車に乗ったのだった。

 

広島は原爆が投下されてからまだ14年目の街だった。

 

一面の焼け野原には、新しい街が作られていた。そんな広島の迎賓館を作る。という事で大阪の中之島にあった、ロイヤルホテルグループのホテルが現在の広島平和公園の中に作られたのだ。

 

父はまだ26歳の若者だった。母は25歳。二人ともホテルマン同士の職場結婚だったという。若い家族は意気揚々と広島へ来たのだった。

 

2歳半の私はまだ生後7か月の妹と広島の人間になった。

 

当時の広島は原爆の傷痕から必死に立ち直ろうと、広島市のあちこちでビルの建設や町の整備が活発だった。2歳半のわたしでもその熱気を感じることができた。

 

駅から自宅のある長屋へはまだ土埃の舞う、アスファルトの敷いていない土の道路だった。雨が降ると道路は水たまりができて、小さな私は赤い長靴で水たまりを飛んで回っていた。

 

長屋の周りは一面の田んぼが広がり、水の張られた田んぼにはたくさんのオタマジャクシがいて、手ですくえるほどだった。

 

父の職場は平和公園の中にある「新広島ホテル」だったので、私と妹は父の仕事が終わるのを待って、よく平和公園の噴水に入って遊んだ。今では考えられないが「原爆ドーム」の中にはいって遊んだこともある。

 

そんな復興の気配の中で、父はホテルマンの仕事の傍ら平和活動を熱心にやるようになっていく。

 

拡声器を片手に。街中で「平和の灯」を作る運動に参加していた若い父の姿を覚えている。父の平和節は幼稚園生の私を正座させてよくひと演説聞かされたものだ。

 

白雪姫の私はそのころから、だんだんと人生の試練に立ち向かわされていたのかもしれない。

 

父の活動は、平和活動から労働運動に移行していった。

 

私が幼稚園の年長になるころには、「広島グランドホテル」がオープンする。父は宴会部長になっていたが、同時に労働組合の組合長になり、労働運動にたずさわっていく。煙草をふかしながら、経営者との話し合いを、夜を徹してしていたようだ。

 

私が7歳のころ、父は労働者の憩いの場を作る。とホテルマンの仕事に加えて、夜の店をオープンさせた。

 

そのころから私の運も尽きてきたのだろうか?

 

父の店に母がママさんとして働くようになり、夜の留守番は私と妹の二人だけになった。

 

夜は長く、怖くて、私はお姉ちゃんだからいつもすりこぎを片手に妹を守っていた。お姉ちゃんは泣くわけにも、逃げる場所もなかった。

 

今でいうヤングケアラーと言うのだろう。

私の家事の腕はどんどん上がってはいかないが、負担だけは増えていった。

 

白雪姫の姿が私には救いになっていた。

 

2歳離れた妹の下に、10歳離れた弟が生まれて、私はいつの間にか父に小さいママさんと呼ばれていた。

 

私は、さながら小人たちの世話をする白雪姫になった気持だった。

 

白雪姫はいつも歌って踊りながら家事をこなしていく。

私も赤ん坊の弟をおんぶして掃除をしたり、ミルクを飲ませたりしていた。「小さなママさん」は泣き言を言わない強い女の子だった。

 

両親の働く店が繁盛してもう一店舗お店ができたころから、この我が家の雲行きはどんどんと暗くなっていく。

 

まるで目覚めたお妃さまが、黒い雲になって魔法の毒を作るように、父はお酒に飲まれていく。怒りと不安が家を支配していた。

 

そんな家庭だったが、白雪姫はめげない。

 

苦しみの中にも楽しみがあるもので、私の楽しみは自宅の裏山だった。その山のてっぺんには神社があって、その神社の境内まで駆け上がって、山の斜面を滑り降りたり、山の中を通っていた旧街道の後をたどって、古い井戸を見つけたり。

 

山の自然は、いつも苦しい大人の世界から私を助けてくれていた。

 

小人たちはいなかったけれど、昔の防空壕の中に入ると、ひんやりと涼しくて、そこでこっそり読む漫画もしばし安らぎを与えてくれた。

 

そのころの幼い私を思い出すと「運」がよかったのだと思う。

近所のおばさんが、「いつもがんばっとるね」とこっそりパンをくれたり、寒い中そとにいるとき「うちに入って、こたつにあたりんさい」と声をかけたりしてくれた。

 

そんな時は(天の神様が見てくれとるんじゃ)と思って勇気をもらった。人の温かさが感じられることが、何より私の「運」がいい証拠だとこうして振り返ってみるとしみじみ思うのだ。

 

それからの人生も決して楽ではなかったが、66歳になったいま、私はしみじみ「運」がいい。と思う。

 

どんな苦しみの中にあっても、その苦しみの中から「天からのプレゼント」を見つけることができた。

 

「天からのプレゼント」は一番タイムリーな時に出逢う人によって渡されてきている。その人との出逢いの数々が私の「運」のいいところだな。

 

そして白雪姫は、現在白髪の王子様と毎日楽しく暮らしています。とさ。

 

 

□ライタープロフィール

大阪生まれ。2歳半から広島育ちの現在広島在住の66歳。2023年6月開講のライティングゼミを受講。10月開講のライターズ倶楽部に参加。2025年9月からの新ライターズ倶楽部を受講中。様々な活動を通して世界平和の実現を願っている。趣味は読書。書道では篆書、盆石は細川流を研鑽している。

 

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2025-10-16 | Posted in 週刊READING LIFE vol.328

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