週刊READING LIFE vol.328

そんした気分になるから ≪週刊READING LIFE Vol.328「アンカー」≫


*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

2025/10/23公開

記事 : パナ子 (READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

 

差し込むマンションの通路でエレベーターが到着するのを待つ間、毎朝必ず行うルーティンがある。朝日が

 

「いい? 車には気を付けてね。知らない人にはついていかない」

じっくり観察するように目を見てそう言った後、ランドセルを背負った子供たちを順番に強く抱き締める。子供の体温を私の肌に刻みながら、今日一日が安全に過ごせるよう祈りを込めるのだ。

 

「うん」

渡したエネルギーを循環させるかのように、子供たちが私をじっと見返す。それが終わると今度はほっぺにチューをする。上は小学4年生、下は小学1年生、どちらも男子で母からのアツいキスをいつまで受け入れてくれるか定かではない。しかし、今のところクレームがないので勝手にヨシとしている。

 

エレベーターが開いて二人が乗り込むと「いってらっしゃい!」と扉が閉まる直前まで手を振る。今度は下のホールから出てきた兄弟が振り返ってバイバイするのを見守りながら、彼らの姿が見えなくなるまで私は両手をブンブンと大きく降り続けるのだ。

 

小1の次男にいたっては、消えたと思ったらまたひょっこりと戻ってきたりする。何度も行ったり来たりする姿に加えて一年生特有のランドセルカバーと帽子の黄色がまるでひよこみたいでピヨピヨと可愛いく、目が細くなる。ついこないだまで幼稚園に通ってたんだもんなぁと感慨深くなりながら、もしもう一度ひょっこり戻ってきても私の姿が見つかるように少しの間そこにとどまる。案の定5秒ほど消えた次男がまた現れ、最後に小さく腰のあたりで控えめに手を振ると学校の方向へと向かって行った。

すれ違う女子高校生二人がその様子を笑っているように見える。兄弟の一日が無事でありますように、通路をちょうど照らすお日さまの光を浴びながら私は今日もそっと心で願う。

 

思えば私も同じように母からの目線やふれあいを受けながら育ってきた。

「オアシス運動わすれないでねっ」

朝の登校前、語尾に音符でもつけそうな勢いで明るく言うと母は笑顔で手を振った。

オアシス運動とは「おはようございます」「ありがとうございます」「失礼しました」「すみません」の頭文字をとった挨拶運動のことだ。昭和中期に一気に世間に広まったらしく、令和の今となっては死語かもしれない。しかし、朝といえばオアシス運動と思い出してしまうくらい母が刷り込んだイメージは強力だ。

 

気が乗らない朝は子供なりに数えきれないほどあったが、それでも母が口角をキュッと上げて笑う顔は「ふーん」と思いつつも知らぬ間に活力として自分のなかに落とし込まれた。学校が終わって家に帰れば、あの母がいる。

時には饅頭作りにハマって毎日狂ったように栗饅頭を作り続けたり、深夜までミシンをガタガタ言わせて子供のワンピースを作ったり、面白そうな講演会などあれば飛んで聞きにいくし、自分の趣味をイノシシのような勢いで追いかける母は決して優等生タイプの母親ではなかったが、それでも子供が安心して帰って来る場所としては十分だった。

 

母はスキンシップもとても多く……いや、こちらから抱っこされに行ったのか、向こうから抱っこしにきたのか、今となってはもうわからないが折に触れて私や姉を抱き締めていたという記憶がある。

 

ある日、姉とのケンカで癇癪を起こしギャーギャーと騒いでいたら、堪忍袋の緒が切れたのか母は私を玄関から放り出した。「開けてよぉ~!!」玄関の郵便受けからすぼめた口を差し込み、家に向かって吠えてみるが何の返事もない。しーーーんとした空気だけが口元に伝わってくる。何みんな気配消してんの?

5分、10分と時間が経過するにつれ、いよいよやばいと震え出した私は再びしくしくと泣き出した。このまま一生家に入れてもらえなかったらどうしよう。

そんなわけあるはずもないのに、当時小学生だった私には立派な死活問題であった。

 

「ごめんなさい……」 

郵便受け越しに涙ながらの謝罪を聞いた母は、ガッチャと玄関の鍵をようやく開けた。

「入りなさい」

母は玄関横の部屋に私を連れて行くと、正座した膝の上に乗せてギュッと抱き締めてくれた。お説教はそこそこに「あんなに怒るもんじゃないよ」と言って笑った。緊張から一転、一気に解放された私は「わーーーーーん! ごめんなさい~!!」と大泣きした。

母から伝わる温度はとても温かく、体の柔らかい厚みが私をすっぽりと包み込んだ。

 

もう母はこの世にはいない。

母との記憶の詳細が少しずつ薄れゆくなかで、母から感じた体温は確かに思い出せる。母からもらったぬくもりは、形はなくとも私のなかでいまだ生き続けているのだ。

 

 

 

午後三時。

スマホで子供の位置を確認する。彼らのランドセルには、それぞれの位置を指し示すGPSのキーホルダーがぶら下がっている。次男が校門を出たようだ。やはりひよこみたいな足取りを想像しながら彼が帰宅するのを待つ。

 

ピンポーン。

マンションのエントランスのカメラにはまだ完全に背が足りない次男の黄色い帽子だけが写っている。ほどなくして玄関が開いた。

「ただいま~」

「おかえり~!!」

涼しくなってもなお背中をぐっしょり濡らして帰宅する次男の服を脱がせて着替えさせる。

手洗いをすませると抱っこタイムだ。

「今日も無事に帰ってきてくれてよかった、ちょっと抱っこさせて」

照れ笑いする次男をぐっと引き寄せ、赤ちゃんみたいに横抱きしてみる。

「赤ちゃんじゃないよぉ、おれ」

そうは言うものの完全に体を預けてくる次男のほっぺをスリスリしながら、ちょっと酸っぱい頭皮の匂いをくんくんと嗅ぐ。

横抱きついでにふざけて赤ちゃんを寝かしつけるときみたいに揺らしてみたらこれが案外好評で笑った。

「ねえ、もっとゆらして」

 

こうして猫と飼い主みたいにゴロニャーゴとじゃれ合っていたら、次男が言った。

「ねえ、なんで朝おれが何回もおかあさんのことみるか、わかる?」

「なんでだろ?」

おそらく言いたいことは何となくわかるのだが、どんな言葉を紡ぐのか聞きたいのであえてわからないフリをした。

「おかあさんのかお、みなかったら、そんした気分になるからだよ」

 

私も母と一緒で全然優等生タイプの母親ではない。

ふざけたことばっかり言っているし、掃除はサボるし、自分の好きなことに夢中になりすぎてしまうこともある。

 

こんな私でも、一応は子供の安全基地として認識されているのかもしれないと思ったら、嬉しくてこそばゆくて、真正面から真直ぐに私を見つめてくる次男に少し照れた。

 

しばしの間、離れて過ごす前に私の顔を見ておくことが、次男にとっては船の錨、つまりアンカーを海に降ろすことに繋がっているのだ。それがあればいくら風に吹かれて浮遊したとしても必ずここに戻って来られる、と信じて。

 

そして、忘れてはいけないのが、子供たちと目を合わせ肌の温もりを与え合うことが、私自身にも大きな安心感を与えているということだ。これから先AIがどんどん進化して仕事が奪われる危機もあるなんて言うが、肌のぬくもりだけはきっと人間にしか出せない。

 

子供たちを抱き締めるとき、もしかしたら私はその胸に母を思い出しているのかもしれない。母から譲り受けた心のアンカーが私を通して、今度は子供たちに受け継がれていく。

 

「いってらっしゃい!」

今日も私は子供たちを強く抱きしめ、チューをする。

これは今日という日をつなぎとめるアンカーであり、いつか未来へ渡すためのアンカーなのだ。

 

 

❑ライターズプロフィール

パナ子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

鬼瓦のような顔で男児二人を育て、てんやわんやの日々を送る主婦。ライティングゼミ生時代にメディアグランプリ総合優勝3回。テーマを与えられてもなお、筆力をあげられるよう精進していきます! 押忍!!

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2025-10-23 | Posted in 週刊READING LIFE vol.328

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