週刊READING LIFE vol.328

最後のバトンはわたさない ≪週刊READING LIFEVol.328「アンカー」≫


*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

2025/10/23公開

記事 : ひーまま (READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

 

昭和36年6月 2歳半の私は、大阪から広島へ引っ越ししてきた。

父の仕事で、広島の平和公園の中に「新広島ホテル」があり、新しく「広島グランドホテル」という現在の「リーガロイヤルホテル広島」の前身のホテルのオープンのためだった。

 

世界で初めての原爆が投下された広島に、国際都市としての迎賓館を作ると平和公園の中に建てられたホテルだった。

 

現在では国際会議場となっている場所にそのホテルはあった。

 

今年リーガロイヤルホテル広島はその開業から70周年を迎えた。

歴史を紐解くと昭和30年の開業だ。

その3年後、昭和33年にはダグラス・マッカーサー2世駐日大使が、新広島ホテルにて「米軍核軍縮」について演説している。

マリリン・モンローが新婚旅行で広島へ来た際に「原爆資料館」を見学し、大きなため息を何度もついたという。その際もこの新広島ホテルで休んだといわれている。

 

27歳の父はそんな復興の真っ盛りの広島へ来たのだった。

 

2歳半の私はいまもそのころの平和公園をはっきりと覚えている。

まだまだホテルは一般庶民が気楽に入れる場所ではなく、いわゆる正装でなければロビーに入ることさえできなかった。

 

まさに迎賓館、格式の高い場所だったのである。

 

幼い私とまだ7か月だった妹も父を迎えにホテルへ行く際には、エナメルの靴を履き、白いタイツに可愛いワンピース。そんな正装でホテルに行ったものだ。

 

ホテルの中へ入るとロビーには立派な絨毯が引かれ、レストランではメニューは英語。小さな私も「あいしゅ、ぷりーず」と言わされていた。

 

しかし、ホテルを一歩出れば、広島にはまだまだ原爆の爪痕がそこかしこに残っていた。

 

平和公園は原爆の標的になったT字橋「相生橋」から二本の川に囲まれた地形だ。

 

その川沿いには「原爆スラム」と呼ばれたバラックが立ち並び、平和公園内にまだ平和の灯もなかったし、折鶴の佐々木貞子さんの塔もまだ建設されていなかった時代である。

 

私たち一家が引っ越ししたのはそんな広島市の西の端だった。

現在の西広島駅から歩いて15分くらいの場所にあった「高須湯」という名前の銭湯の裏にくっつくように建てられた長屋の一部屋だった。

 

銭湯のすぐ裏だったが、27歳の父の給料は少なく、一週間に2回いければよいほどの暮らしだった。

 

銭湯にいくと、その長屋の人々もだが、いつもたくさんの人でにぎわっていた。なぜかというと、まだまだ戦後の建物事情は追いついておらず、普通の家には風呂はなかったのだ。

みんな仲良く、大きな湯舟でその日の疲れをとっていた。

 

幼い私が目にしたのは、そんな銭湯で大人の女の人の背中や顔、手や足がひどいやけどのケロイドでひきつった人がほとんどだった。

 

大阪から引っ越してきた母の肌は傷もなく、かえってじろじろ見られていたような気がする。

 

それが原爆によるひどいやけどの跡だという事は、その後の幼稚園で習う平和学習からだった。火傷の跡もあったが、そこに一緒にお風呂にはいっていたおばちゃんたちは、朗らかにいつも笑って大声で話をしていた。

 

暗い顔をした人はいなかったように記憶している。

その時私は、ばりばりの大阪弁で「おばちゃん、これまだ痛いんか?」

とか「なんでみんな怪我しとんねん?」とか話しかけては「もうええけえ、はよ帰りんさい」とか「はよ、寝んちゃいよ」と言われて広島弁が理解できなくて困ったことを覚えている。

 

3歳の私の脳内は大阪弁で出来上がっていて、その後立派に広島弁も話せるようになったバイリンガルだと自分では思っている。

 

広島でいったい何が起きたのか? はまだまだ何も知らないままの私だった。

 

広島の街はどんどんビルが建ち駅前には5階建てのデパートがたった。いろんな店が消えていったのもこのころからだ。

 

高度経済成長期だったのだ。

 

駅から家に続く道には、本屋さんがあり、食堂、があり、和菓子屋さん、お茶屋さん、お肉屋さん、魚屋さん、八百屋さん。と一軒一軒買い物をするたびに大きな声の店主がいて、今日の美味しいものはなんだとか、旬の魚や、旬の野菜を子供にもわかるように教えてくれていた。

 

そのころのお茶屋さんの、香ばしいお茶を炒る香りはいまも忘れられない良い香りだった。

 

だれも「原爆」の話なんかする大人はいなかった。

 

どんなひどいケロイドのひとだって毎日を元気いっぱいに働いて、仕事が早く終われば、近所で一軒だけテレビのある家に集まって「力道山」というプロレスラーのプロレスにみんなで声援をおくっていた。平和な毎日だと子供の私は思っていた。

 

ところが、次第にそんな界隈にも高度経済成長期の波が押し寄せてきたのである。

 

町には車を持つ人があらわれ、会社から早く帰ってきてプロレスを応援していたお父さんたちは仕事が忙しくなり、夕方お父さんたちを見かけることが無くなっていった。

 

毎日遊んでいた子供たちも一人また一人と新しい家に引っ越ししていった。経済が豊かになると人と人は離れていくようだ。

 

我が家も、父は新しいホテルのオープンと同時に忙しくなり、家に帰ってくる時間は夜遅くになっていった。父の平和活動が始まったのがそんな時期だった。

 

幼稚園の私は父から「世界の恒久平和」と書かれたバトンをその時渡されたのだとおもう。

 

家庭を守るよりも先に世界を平和にしなければならないんだ。

父が「平和の灯奉賛会」の活動を頑張っている姿を思い出す。

平和公園や市内の街頭で拡声器を片手に募金を集めていた父。

 

その真剣なまなざしを今も思い出す。

 

「ひろみ、世界は平和にならないといけないんだ」

 

「二度と原爆を使っちゃあいけん」

 

お酒を飲んでは聞かされてきた言葉だ。

 

高度経済成長の波に乗った父は、ホテルマンをしながら夜のお店を経営するという暴挙にでた。

 

7歳だった私は幼い妹と二人夜は留守番。

今でいう「ヤングケアラー」だった。

 

今思い出してもしんどくてつらい記憶がよみがえるが、私の中に「原爆」と「平和」の二つが消えることはなかった。

小学校4年生の時、学校の宿題で近所の人に「被爆体験」のお話を聞いてくること。というものが出された。

 

我が家の両親は大阪出身だから、当時の大家さんのおじいさんに話を聞きに行った。

 

近所で有名な厳しいおじいさんで、笑顔でいたところは見たことがないが、たちまち話を聞けそうな人はその人だけのような気がしたので、恐る恐る大家さんの玄関を叩いた。

 

「こんにちは。すみません、今日学校の先生から原爆の話を聞いてきなさいと宿題が出たので、話を聞かせてもらえませんか?」

 

いま思っても冷や汗が出るが、いままで誰も原爆の話など出たことがないのだ、これはきちんと聞くしかない。わたしも腹を決めてドアをたたいたのだ。

 

こわもてのおじいさんは一瞬本当に「はっ」とした表情になった。これは怒られるのではないか?と、びくっとした私の目をしっかりと見て「そがあな宿題が出るんか?」一言。

 

「はい。だれにきいたらええかわからんかったんで、お願いします」と神妙な顔でお願いした。

 

「ほうか~」と、おじいさんは一瞬考えたが静かな声で淡々と話を始めてくれた。

 

「あんな、ひどい爆弾はなかった。ホンマにひどいもんじゃ」

「わしはあの日もこの家におって、警報がやんだけえ、防空壕からでて家に入ろうと思ったときじゃった」

「B―29の音がしたけえ外に走って出たんよ。そのときにその飛行機からパラシュートが落とされてからの、こりゃあ救援物資が落とされた思うて、そのほうへ走っていったんじゃ」

 

「その時すごい光がピカーっと光ってから、目が光で見えんようになったと思うたすぐ後に、どお~んとすごい爆風がきてから、わしは何メートルも飛ばされたんよ。」

「ほいで、服がぱあっと焼けて顔も手も火傷したんじゃ」

 

そのおじいさんがいつも無表情なのは火傷のケロイドのせいだったのが初めて分かった。

 

おじいさんは重ねて「ホンマにひどいもんじゃ。その後の事は話とおないんよ。これぐらいでええかの?」と、おじいさんは今もその火傷の跡がずきずきと痛むような顔になった。

 

わたしはそれ以上の話を聞くことはできなかったが、いつも怖い顔をして怖いばかりと思っていたおじいさんが、本当はとても暖かい心を持った人なんだ。という事がわかった。

 

「ごめんなさい。ほんまに宿題を手伝ってくれてありがとうございました」そう言うのが精いっぱいだった。

 

広島の人が話せないけれど、みんな同じ体験をしていて、それをみんな抱えて生きているんだとその時に私は感じたのだと思う。

 

それ以降学校の平和学習は聞きたくない授業になった。

 

広島に住むものとして何もできない現実をいつも感じていた。

一人一人の苦しみがあまりにも大きくて見ることが難しかったのだとおもう。

 

そして、現在この3年で私はやっとその大きな苦しみを自分の事のように見て聞くことができるようになった。それは、86歳になった被爆者の方の話をゆっくりとゆっくりと丁寧に聞くことができたから。

 

そんな「平和のバトン」を私は還暦を超えて、やっとしっかりと持って走り始めたような気がしている。

 

そのバトンは、令和4年から受講している「被爆体験伝承研修」だ。

 

この3年間、毎月のように被爆者のかたとミーティングを重ねて、昭和20年8月6日に広島で起きたことの事実を聞かせてもらってきた。

 

当時5歳10か月だった廣中正樹さん。

当時6歳だった梶谷文昭さん。

 

二人とも今年86歳を迎える。

 

被爆80周年の今年、私はやっと3年の研修を経て先日広島市の松井市長から「被爆体験伝承者認定」を受けることができた。

 

父から渡された「世界の恒久平和」のバトン。

 

被爆者の方から渡された「世界平和の祈り」のバトン。

 

この二つのバトンを持って、私はアンカーとして走り抜けようといま、思っている。

 

こんな悲惨な体験を伝承することで、あの戦後の何とも言えない空気感を味わったのは、もう私の代で終わりにしよう。

 

次の世代に渡したいのは「世界は平和を実現した」バトンなのだ。その平和をいつまでも大事に守っていこう。

 

悲惨なバトンではなく、明るく希望のあるバトンを次へ渡していこう。

 

まだ間に合うと思う。

 

世界に平和の種をまいて、ゆっくりでいい、その種を育てていこう。

その種はきっときれいな花を咲かせる。

 

原爆が投下されて80周年。

新広島ホテルの70周年。

 

父の転勤がなければ受け取らなかったこのバトン。

 

しっかりアンカーとしてゴールを目指そうと思う。

 

□ライタープロフィール

大阪生まれ。2歳半から広島育ちの現在広島在住の66歳。2023年6月開講のライティングゼミを受講。10月開講のライターズ倶楽部に参加。2025年9月からの新ライターズ倶楽部を受講中。様々な活動を通して世界平和の実現を願っている。趣味は読書。書道では篆書、盆石は細川流を研鑽している。

 

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2025-10-23 | Posted in 週刊READING LIFE vol.328

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