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週刊READING LIFE Vol.33

ブラジリアン柔術を勧める理由を、柔道との比較から《週刊READING LIFE Vol.33「今こそはじめたいスポーツの話」》


記事:千葉とうしろう(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 

何かしらのスポーツを始めるのであれば、ブラジリアン柔術がいい。ブラジリアン柔術とは、明治期に日本で生まれた柔術が、格闘家によってブラジルに伝わり、ブラジルで独自に進化した格闘技である。武道とも言える。武道である柔道がスポーツとして人気がある様に、丁度スポーツと武道の中間の位置付けだろう。
 
「GI(ギ)」と呼ばれる柔道着の様なものを着る、打撃なしの格闘技である。相手の襟を締めたり、関節を極めたりして相手から「参った」のタップ(床や相手の体を数回叩く)を引き出す。
 
ブラジリアン柔術は、よく柔道と比較される。見た目は柔道にそっくりだし、やっていることも柔道とあまり変わらない。けれど、その雰囲気において両者は全くの別物である。水と油、具体と抽象、マックとウィンドウズ。「どっちがいい」という話ではない。優劣があるというわけではないのだが、似ている両者は別物なのである。
 
私は20歳代の頃に柔道とブラジリアン柔術、両方を経験した。ブラジリアン柔術の青帯はもらえなかったが、柔道は段位を持っている。もちろん、私が経験した柔道とブラジリアン柔術が「この世界の全てだ」というつもりはない。けれど最低限、当たらずとも遠からずだと思うし、人に説明するときには分かりやすい例えなのではないかと思う。以下、柔道との比較を持ち出して、ブラジリアン柔術の魅力について説明する。
 
ブラジリアン柔術の魅力、それは自由奔放さにある。自由、可能性の広がり、頭の柔軟さ、それがブラジリアン柔術の雰囲気であり魅力だろう。ブラジルに行ったことはないが、明るくてきらびやかなサンバの国、ブラジルの雰囲気を表しているのではないだろうか。
 
ところで自由、可能性の広がり、頭の柔軟さ、と言われて、何か頭によぎるものはないだろうか。この文章を読んでいる読者ならば、感じるところがあると思う。そう、これらから思い起こされるのは「起業」である。世の中の常識の囚われずに自由さを求め、自分や社会の可能性を信じ、頭の柔軟さで持ってサービスを作り出す。起業の精神であり、起業の魅力であり、起業の本質ではないだろうか。ブラジリアン柔術の魅力とは、いわば起業の様なものなのである。
 
それに対して柔道はどうか。あなたも柔道の試合や練習風景を見たことがあるかもしれない。柔道場の厳格な空気、キリリと顔を硬くした選手、身だしなみを重んじる審判。柔道の雰囲気は、伝統を重んじ、上下関係を意識し、本音を抑えて建前を通す。いわゆる伝統的大企業の雰囲気だ。柔道とは、伝統的大企業の様なものなのである。
 
柔道は決められているのだ。何が決められているかというと、「柔道とはこういうものである」というのが決められているのである。聞いたことがないだろうか。オリンピックの柔道の試合などで、アナウンサーが日本選手に勝った外国の選手に対して「これは本来の柔道ではありませんね」などいうのを。昔、女子軽量級で無敵の強さだった谷亮子選手がオリンピックの試合で敗れた際に、ニュース番組でコメンテーターが、勝った外国の選手に対して「この様な試合運びは本来の柔道ではない」というニュアンスのことを言っていた。柔道とは、「こうでなければならない」というガチガチの雰囲気の中で行われるものなのである。
 
柔道は練習内容も決められている。おそらく、日本全国で大体、似た様な練習が行われているのだろう。初めに道場を走って、次に整列して礼、それから回転運動や受け身、そして寝技をやってから立ち技の練習、最後に乱取り。多少の違いはあるかもしれないが、おそらくどこの柔道場もこの様な練習の流れだろう。
 
柔道とは中央がしっかりしている組織であり、その中央が頭が固く、大きな影響力を持っている。故に、強固な三角形の構図が成り立っているのだ。中央が「こう」と決めたら、そうでなければならない。「こんな練習がいい」と言ったら、そうしなければならないのである。
 
何もかも決められている柔道に対して、ブラジリアン柔術は決められていない。しっかりとした組織の中央があるわけではなく、それぞれのジムで指導者が独自に練習方法を決めている。それぞれの指導者が、自分たちの持ち味や「何をしたいのか」などを考えて、独自に練習メニューを練り、ジムの雰囲気を作っているのだ。
 
ブラジリアン柔術の練習が決められたものではないことは、しっかりとした組織があるか無いかということだけでなく、ブラジリアン柔術というスポーツそのものにも由来する。ブラジリアン柔術は広がりのあるスポーツである。可能性が無限なのだ。
 
柔道は決まり手が決まっている。一本背負い、払腰、大外刈り。それぞれの技には名前がついていて、手技、腰技、足技に体系づけられている。故に、決められた技をいかに練り上げるかが、柔道の練習である。
 
それに対してブラジリアン柔術は決められないし、体系づけることができない。これは、技の広がりや試合の流れに無限の可能性があるからだと言える。ルールはシンプルだ。打撃なしで相手のタップを引き出せばいい。シンプルであるが故に、やっていいことが無限にあるのだ。想像して欲しい。人間の体と動きは無限だ。関節の数だけでも、数え方にもよるが200から300あるらしい。そのどれを極めてもいい。さらに「着ている道着をいかに使うか」という要素も加わるし、「相手の動き」という要素も加わる。お互いに立っているわけではなく、マットに座ったり寝たりしている状態での流れなので、どんな体制にでもなりうるのだ。
 
ブラジリアン柔術の可能性を、あらかじめ想定することは無意味であり、あらかじめ限定することは不可能なのである。荒野を走っている様なものだ。何もない荒野。目の前には遥か向こうまで続く荒野が広がっており、そんなだだっ広い場所で「何をやってもいい」と言われる。相手のタップを引き出す方法は無限だし、その方法が確立されているわけでも無い。
 
だから今こうしている間にも、世界のどこかでブラジリアン柔術家が、新たな技を編み出している可能性がある。発想力も、相手に勝つための重要な要素である。「そんな技があったのか!」「そんなことができるのか!」「そんな発想があるのか!」と、相手が考えてもいなかった技を出すのである。相手の虚を衝く。相手の想定外の攻撃。相手の常識の裏をいく考え。ブラジリアン柔術の醍醐味だ。
 
私がブラジリアン柔術にハマっていた頃、アメリカにエディ・ブラボーという選手がいた。彼の得意技は、通称「ツイスター」である。この技を言葉で説明するのは難しい。「動画を見てくれ」としか言いようがない。相手の脊髄を締める技である。破壊力ゆえの「ツイスター」なのか、相手の脊髄を捻るがゆえの「ツイスター」なのか。初めて見たときはゾッとした。生で見たわけでは無い。DVDの動画で、テレビをとおして見ただけである。けれど、一気にブラジリアン柔術の深みを見せられた技である。エディと相手選手が試合をしていて、お互いが寝ている状態。足が絡まり、手が絡まっているように見えた。そこからエディが前転のような動きをしたかと思うと、相手選手の動きが止まる。相手選手の体が不自然な方向に歪められ、顔から苦しさが伝わってくる。エディの想定外からの攻めにより、ツイスターが完成したのである。
 
おそらくエディは荒野を走る中で、徐々にツイスターを練っていったのだろう。試行錯誤の中で、何でもやっていい中で、相手選手にいかに勝つか。失敗と成功、勝ったり負けたりを繰り返す中で、何回も動きを繰り返し、想像を膨らませていったのだろう。技に入るタイミング、相手の足を引っ掛ける細かい位置、回転する方向、手のクラッチまでの微調整。何も無いところから作り上げる。常識を覆す。発想が生命線。まさに起業そのものではないだろうか。
 
「決められているか、決められていないか」という視点で柔道とブラジリアン柔術を比較して、特にブラジリアン柔術の起業との共通点、つまり自由さや可能性の広がりについて話してみた。今度は「本音と建前」という視点で、柔道とブラジリアン柔術を見てみよう。
 
伝統的大企業には、本音と建て前がつきものである。伝統的大企業は社会的な影響力が大きく、社会の模範となることが求められている。理想と現実の狭間で揺れるために、言動が本音と建前に分かれるのだ。これらが柔道というスポーツにも存在する。しかもこの本音と建前は、柔道らしさを形作っている。柔道に感じる奥ゆかしさや、相手に対する気遣い、目上の人に対する礼儀。これは本音と建前として表面化しているのである。
 
柔道において本音と建前を感じるところは多々あるが、私が一番不思議に感じたのは、怪我をした時に申告するかどうかだ。柔道では練習後の礼をした後で、指導者が「怪我をした者はいないか?」と尋ねる。もしも練習中に怪我をしたのであれば、そこで即座に手を上げて、怪我をしたことを申告すべきだと思うだろう。けれど、もしあなたがそこの柔道場や柔道の先生と良好な関係を維持したいのであれば、怪我の申告は慎重にした方がいい。指導者の「怪我をした者はいないか?」という言葉は、フェイクなのである。建前なのだ。ただの形上のものだ。そこで「はい、怪我をしました」と申告してはいけない。いけないこともないが、よく考えてから申告した方がいい。
 
というのも、柔道の指導者は、練習中に怪我をしないように指導しなければならない。怪我人が出るような指導や練習は、指導者にとって失敗なのだ。けが人を出すということは、指導者にとってみれば、やってはいけないことなのだ。そんな指導者の面子を潰しかねない「はい、怪我をしました」という申告を、皆んなが見ている前でしてはいけない。それは、練習を受ける人間にとって、指導者という目上の人間に対する礼儀である。もし怪我をしたのであれば、アンダーでそっと怪我をした旨を伝えなければならない。とはいえ、早く伝えなければ、「もっと早く言えよ」と言われるので、単に慎重にすればいいというものでもない。その辺りの絶妙な加減が求められるのだ。
 
私の友人は、柔道の練習中に「怪我をした」という申告をして「軟弱者」というレッテルを貼られてしまった。本人は相当痛かったのだろう。投げられた後に畳の上で腕を抱えながら立ち上がり、「怪我をした」という旨を指導者に伝えたのだ。だがその怪我の程度が、指導者の考える「わざわざ言うほどの事」には至らなかったのだ。
 
「見せしめ」という意味もあったのだと思う。指導者の「この根性なしが!」という怒声と「気合入れ」という行為で、その友人はすぐにまた畳の上で寝そべることになった。そこにいた誰もが「この程度の怪我で申告をしてはならない」という礼儀を学んだ出来事だった。「怪我をした者はいないか?」という指導者の言葉に甘えてはいけない。男は黙って我慢なのだ。
 
それに対してブラジリアン柔術は、良くも悪くもテキトーである。「これをしなければならない」という圧がなく、自分の本音に素直なのである。大らかな雰囲気で練習しているジムが多い。強くなるとか上手くなるとかは、それぞれの責任であって、建前を求めたりしない。
 
ベストセラー本「嫌われる勇気」には「課題の分離」というのが出てきた。「それぞれの課題に介入しない。相手と自分に距離を置いて、『嫌われても構わない』というスタンスを取ること」が推奨されていたが、そんな感じである。
 
ケガをすれば休めばいいし、練習に出たくなかったら出なければいい。その代わり、責任は自分が負う。周りから無理に「練習に出ろよ」などという圧もないし、「根性なし」というレッテルを貼られることもない。むしろ強いのに練習がテキトーだとしたら、一目置かれるのではないか。ブラジリアン柔術において重んじられるのは、本音と建前よりも、本音に対する素直さなのだ。
 
このように、ブラジリアン柔術の魅力を柔道と比較してお伝えしたが、お分かりいただけただろうか。柔道が伝統的大企業であるのに対して、ブラジリアン柔術は起業家である。ブラジリアン柔術の魅力は自由奔放さだ。大らかで、開放的で、可能性が広がっている。これから始めるスポーツとして、是非ともお勧めしたい。

 
 
 

❏ライタープロフィール
千葉とうしろう(READING LIFE 編集部ライターズ俱楽部)

宮城県生まれ。大学卒業後、民間企業を経て警察官へ。警察の仕事に誇りを感じ、少年犯罪を中心に積極的に対応。しかし警察経験を重ねるうちに、組織の建前を優先した官僚主義に疑問を感じるようになる。現在は組織から離れ、非行診断士へと転身。警察のフィルターを通して見た社会について発信。何気なく受けた天狼院書店スピードライティングゼミで、書くことの解放感に目覚める。
 


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2019-05-20 | Posted in 週刊READING LIFE Vol.33

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