週刊READING LIFE vol.335

「まあまあの幸せ」に殺されかけてる《週刊READING LIFE Vol.335「死に立てのゾンビ」》

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*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

2025/12/11 公開

記事 :パナ子 (READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

 

「そういえば、昨年のランチはさ……」

と夫が笑い出したので、私は吹き出した。

 

吹き出すような笑いが似合わないこの場所は、有名なフレンチの巨匠が手掛ける高級レストランだ。

 

普段よく着るスウェットとスニーカーを脱ぎ捨て、次男の入学式で履いたスーツのパンツに明るい色のセーターを合わせた。持っているなかで一番高価な真珠のネックレスを装着してなんとか体裁を保つ服装でやって来たのだ。服が無いなりになんとかオシャレをしたい。というか、給仕に(お前が来る場所ではない)という目で見られるのだけは避けたい。

 

左手の薬指には、今となってはほぼつける機会がない婚約指輪のダイヤも光っている。

 

毎年恒例の、夫とのランチ会だ。

私の誕生日が12月なので、その頃になると都合を合わせて二人きりで食事に出かける。二人の子供を育てるなかで、夫婦水入らずでどこかに出かけること自体、もう稀になってしまった。年に一回の貴重で特別な日なのだ。

 

それだけ貴重な日だという認識があるにも関わらず、昨年のランチは地獄のようだった。

日々の積み重ねでお互いにたまったうっ憤が爆発したあとの冷戦期間中だったからだ。

 

その頃の状況を考えると「今年はなしで……」となってもおかしくなかった。

しかし、根が真面目な夫は、「妻の誕生日を祝うランチを設定しなければ」という呪縛から解き放たれる事ができず、私に日程や店の打診をしてくれたのだ。

ケンカはしていても美味しいランチは食べたいと食欲が勝った私は、「あの店がいいね」「この店もいいね」「あそこのコース料理が気になっていた」など好き勝手言って店を予約してもらった。

 

当日、店で待ち合わせをしていたにも関わらず、途中の交差点で会ってしまった時、夫は私の顔を見て「そんな怖い顔してどうしたの」と言った。

 

小綺麗な格好をして般若みたいな顔をしていたらしい。

このところのキーンと張り詰めた緊張感を思うと、二人きりで食事をすること自体重荷ですらあったのだ。また、この胸のうちにあるモヤモヤをどう言語化したら伝わるのかを考えていたら段々と顔が般若のように険しくなったということもあるかもしれない。

いや、もしくは、(今行くから待ってろよ!)と半ばカチコミに行く気分だったのかもしれない。

 

到底、これからレストランで愛する夫と一緒に食事を楽しもうとする妻には見えなかっただろう。

 

フライングよりも不安定なスタートを切ってしまったことにより、当然レストランに着いてからもキャッキャウフフな状況からはほど遠く、足元から凍り付くような冷たい雰囲気のなかでの食事となってしまったのだった。

 

重い沈黙に加え、ポツリポツリとお互いに漏らす不満……二度と思い出したくない最悪なランチだ。個室ということもあり、料理を運ぶときにのみ登場する給仕にはきっとこの冷たい空気感がバレていたに違いない。お恥ずかしい限りだ。

 

夫婦というのはケンカしていても結局帰る家はひとつなわけで、子供がいる場合なんやかんやと子供たちのペースに振り回されている間にケンカしていた事実も薄れ、自分でも気づかぬうちにまたいつもの日常に戻っていた、なんてことも大いにある。

 

我が家もそんな調子で、いつの間にか冷戦期間は終わりを迎えていた。

そして、まあなんとか穏やかな毎日を過ごしていたわけである。

 

「うわっ……おっ……いしい~」

今年の高級フレンチは、つい唸ってしまうほど口に運ぶひと口ひと口が本当においしい。

豆乳とチーズのムースの上に外国から取り寄せたという見たことのないキノコのソテー、上には森の奥で摘んできたみたいな様々な形の葉っぱが散らしてあり、さらにはトリュフや抹茶の粉が振ってある。

 

素人では絶対思いつかんだろという奇天烈な組み合わせに見える一品が、口のなかでハーモニーどころかワッショイワッショイと大神輿を担ぎ出す。

 

店内を見回せば、ミュシャの絵画がひっそりと、でも確かな存在感を出していたり、天井まであるガラス扉の飾り棚には大小美しく可愛らしいコーヒーカップが並んでいる。

 

なんだかお姫様にでもなった気分だ。

 

おいしいねと言い合い、お店のことについて二人で会話し、お互いの最近について改めて語り出したあたりで一層和やかな雰囲気に包まれる。

 

もうこの件にそろそろ触れてもいいと思ったのかどうかは定かではないが、夫が昨年の地獄ランチについて言及し、二人は笑ったのだった。

あれは本当に酷かった。もうこりごりである。

 

「まあでもこの一年、穏やかな時間が流れてたよねぇ」

夫が満足そうな表情で言う。確かにそうだ。夫は家庭に余計な心配事がなかったせいかより仕事に精進し、大きな案件があらたに二つ決まった。

妻としても、それは非常に喜ばしくありがたいことだ。

 

そうに決まってる。

決まっているのだが、私にはどうしても一つの心残りがあった。

もう少し日頃から、夫婦だけの時間を取りたい、という気持ちだ。

 

夜が更けるまで仕事に励み帰宅が遅いか、会合などに出席して帰宅が遅いか、出張で不在か、早く帰宅した日は子供と一緒に寝てしまう。夫の生活はこの4択で回っているのだ。

 

ワシわい!!

寂しさから来るこの気持ちがどうしても拭えない。

 

妻との時間を過ごすを5択めに入れてくれよ!!

 

心に若干の距離を感じながらも、私は意を決して言ってみた。言うだけならタダだ。

「いやさ、わかるよ。でもさ、私はさ、もう少し二人で過ごす時間が欲しいわけ」

「うん、まあね~。まあでもいいじゃない、こんな感じの自然体でずっといこうよ」

 

はぁああああああ!? 全然こっちの言うこと響いてないじゃん!?!?!?

そりゃあなたは? 仕事にやりがいがあって? 帰宅したら温かいご飯あって? 子供たちとワイワイ楽しくやって? それでいいんでしょうけど? こっちがよくないっつってんの!

 

ドゥー ユー アンダースタァーン!?!?

 

……。

落ち着け、ここは高級レストラン。

お得意のキレ芸が出そうになるのをなんとか封じ込め、「まあまた考えといてね」と言った。

 

言ったと同時に気持ちがスンとバッテリー切れを起こしそうになった。

心が死んだみたいだ。

しかし、悔しいことにまだ死にきれない。夫との関係にもっと深みを持たせることが諦め切れないからだ。

 

これは、もはや、死にたてのゾンビだ。

まだ体温はあるし、気持ちも残ってる。でもどうすればいいのか考える頭は鈍くスピードが出ない。いま私はすごく中途半端な状態なのだ。

 

私が夫にこれ以上強く言えないのには、他にも理由がある。

夫が、人として完璧過ぎるのだ。

 

子煩悩でとても子供たちを大事に育ててくれているうえに、家にいるときはせっせと家事に励む。大雑把O型の中でも最高峰に鎮座する私なんかよりよっぽど綺麗好きで、トイレ風呂洗面台などなどチリひとつない状態で磨き上げてくれる。さらには仕事が忙しい割に愚痴のひとつもこぼさず「ありがたいよ」と感謝の毎日だ。

性格が穏やかなので、夫がいるときはなんとなく家のなかがふんわりとしたオーラに包まれる。

 

うーん、冷静に考えたら、私のレベルでよくこの夫捕まえたよなという感想しか出ないのだ。

結婚が決まったとき、私の父が「ありがとう、ありがとう」と泣きながら夫に握手を求めたことが今となってはわかる。いや、わかりすぎる。

 

こんなふざけたどうしようもない娘を、あなたのような頼りがいのある男にもらっていただけるなんて万々歳ということなのである。

 

我ながら、いい結婚というものをしたのかもしれない。

悔しいがその自負はあるのである。

 

そういえば三年ほど前に知り合いのツテで出逢った占い師に、我が家の夫婦を占ってもらったところ、私からみたらこの結婚は成功とのことであった。

しかし、問題は、夫からみたこの結婚で

「あぁ~、なるほど、旦那さんは本来結婚する星じゃないね」

 

なんと!

夫はすべてを自己完結できる人間であり、一人で生きていくという強さがあるらしい。これを聞いた時、納得でしかなかった。

 

じゃあなんで私との結婚を決めたのか。

入籍をした日付で運勢をみた占い師はこう言った。

「あぁ~、旦那さん、血迷ったね」

 

ぉおおおおおい!! 血迷ったんかい!!!!!

どおりで私にしてはいい条件だったわけか、って悲しいなおい!!

 

ともかく結婚してしまえば、もうこっちのもんですし。

まあそういう意味では私が勝ったも同然だ。

 

そんな風に死にきれないゾンビの様相で過ごしていたある日、この地域で毎年行われているとある祭りの話になった。

 

朝早くふんどし姿の男衆が神輿をかついで街を走り回るのだ。

それをいつか家族で見に行きたいねと私が言ったら夫は少々渋い顔をした。

「朝早いからねぇ、子供たちが小さいうちはちょっと難しいかな」

それもそうかと引き下がろうとした時、夫はこう続けたのだ。

 

「まあでも、いずれ子供が巣立ったら、二人で行けばいいじゃない」

 

え! そんな気持ちあるの!?

何それ、デートの誘い? ねえそれデートってこと!?!?

 

……悔しい。

夫の一言一言に、一喜一憂してしまう乙女みたいな自分が悔しい。

なんだよ、この片想いみたいな結婚生活は。

 

結局なんだかんだで私の方が夫への愛情を力強く感じてしまっているのかもしれない。

今は子供優先の暮らしになるだろう。もちろん私だって子供は大好きだし大事だし、自分の命を引き換えにでも守りたい存在であることには違いない。

 

でも。

夫からの溢れんばかりのわかりやすい愛情を待っている自分がいるのも確かだ。

 

こんな気持ちのままじゃ、死にきれないだろ?

いつか君からの大きな花束みたいな愛を受け取れる日を待っているからな。

 

死にきれないゾンビは、夫の肩にそっと手を置いた。

 

❑ライターズプロフィール

 

パナ子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

鬼瓦のような顔で男児二人を育て、てんやわんやの日々を送る主婦。ライティングゼミ生時代にメディアグランプリ総合優勝3回。テーマを与えられてもなお、筆力をあげられるよう精進していきます! 押忍!!

 

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2025-12-11 | Posted in 週刊READING LIFE vol.335

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