週刊READING LIFE Vol.350

「うまく言えないけど、たしかにあった感情」 

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*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

2026/04/02 公開

 

記事:山上 安見子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

 

熱い、というより、城そのものが恐怖と怒りのために高熱を発しているようだった。

 落城まじかの小谷城の廊下は、夜というのに蘇芳色をした炎に、おぞましく染まっていた。まるで乾いた血の色のような炎だった。壁に跳ねる赤黒い光が鬼火のようにゆらゆらと揺れ、柱の影が獣の脚のように長く伸びている。どこかで梁が裂ける音がし、そのたびに女たちの悲鳴が上がった。 

黒煙は低く垂れこめ、息を吸うだけで喉の奥が焼ける。茶々は咳をこらえながら、妹たちの手を強く握っていた。握っていなければ、自分の存在すら崩れ、火の粉になって散ってしまいそうだった。

 侍女たちは口々に何か叫んでいた。「お急ぎくださいませ」「こちらへ」「姫様、どうか」

けれどそのどれもが、茶々には遠く聞こえる。言葉は耳に届いているはずなのに、意味だけは薄くなって流れていく。城が落ちるとはどういうことか、幼い茶々にすべてがわかるわけではない。ただ、もう以前と同じ明日は来ない、それだけははっきりしていた。

 父はいる。

 父はまだどこかで戦っている。

 父が負けるはずがない。

 そう信じたかった。信じ続ければ、それで現実を押し返せるような気もした。けれど炎は、そんな願いにかまわず廊下の先を舐め、障子を黒く縮れさせ、畳の端をじわじわと蝕んでくる。現実とはこういうものかと、茶々は子どもらしからぬ冷静さで思った。人がどう願おうと、燃えるものは燃えるのだ。

 不意に、侍女のひとりが膝をついて泣き崩れた。「もう……もう……」と、その先が続かない。茶々はその顔を見たが、慰める言葉は出てこなかった。泣きたいのはこちらも同じだった。しかし泣いたら、何かに負けてしまう。父がまだ存命のうちに泣くのは裏切りのようで、歯を食いしばるしかなかった。

 そのとき、足音がした。

 荒々しい、けれど慌てふためいた足音ではなかった。火に追われて逃げる足音ではなく、確信を持って火の中へ踏みこんできた足音だった。侍女たちはいっせいに振り向き、何人かは身をすくめた。鎧の擦れる音が近づく。煤に汚れた男たちの影が炎の向こうに見え、その先頭にひとりの小柄な男がいた。

 猿のようだ、と茶々は思った。

 まだその男の名も知らぬうちに、そう思った。小さな目はぎらりと光ってはいるが、口元にはこんな場所に似つかわしくない笑みが浮かんでいる。城が燃え、父の運命も尽きようとしているのに、その男だけはなぜか妙に生き生きとしていた。あまりに場違いで、茶々はかえって見入ってしまった。

「おお、ようやく見つけ申したぞ」

 男はそう言って、まるで大事な失せものでも見つけたかのように安堵の表情を見せた。そして次の瞬間には、何事もなかったように軽く一礼した。

「姫様方、お迎えに参りました」

 お迎え。その言葉の不自然さに、茶々の胸の奥で何かが弾けた。迎えに来たのではない。攻めてきたのだ。城を焼き、父を追い詰め、こうして自分たちをさらっていくのに。それなのに、その男はまるで婚礼の使者のような口を利く。

「誰じゃ」

 茶々の声はいつもより低い。喉は痛んだが、睨む目だけは逸らさなかった。男はまた少し頭を下げた。

「羽柴秀吉にござります」

 その名は聞いたことがあった。伯父の織田信長に取り立てられ、いつのまにか大将のような顔をするようになった男。卑しい身からのし上がった、調子のよい猿。家中で交わされる大人たちの声の端々から、茶々もその名だけは知っていた。

 信長の手先。その認識だけで十分だった。

「おまえは父上の敵だ」

 そう言うと、秀吉は一瞬だけ目を伏せた。だが次にはもう、お愛想笑いが口元に戻っている。

「左様。敵でございましたな」

 ございました、だと。まるで終わったことのように言う。まだ何一つ終わってなどいない。城は燃え続け、父の生死は不明、わたしの胸には焼けた鉄のような苦しみがあるのに。

「なれど、姫様方を死なせるわけには参りませぬ」

「勝手なことを」

 茶々は吐き捨てた。

「父上を追いつめておいて、助けるなど」

 秀吉はそれを受け、怒るでもなく、困るでもなく、ただ少しだけ眉を上げた。その仕草が、さらに茶々の癪に障った。所詮子どもの言い草と軽んじているようにも、いや、軽んじてはいないのにどう扱えばよいか測っているようにも見えた。

「勝手にござります」

 秀吉はあっさり言った。

「戦さとは本来、勝手なものにござる。理にかなうことばかりでは進みませぬ」

 侍女たちが息を呑む。姫の前で、こんなふうに言い返す者はいない。だが秀吉はひるまなかった。炎がその横顔を照らし、頬の煤の汚れまで赤く染めている。ふざけているようで、目だけは笑っていなかった。

「ですが」と、秀吉はつづけた。

「姫様方がここで焼け死ねば、浅井殿の御血筋はここで絶えます。それは、あまりに惜しい」

 茶々の胸の奥が、ずきりと鳴った。惜しい。

 それは情けの言葉なのか、それとも打算か。信長に差し出すために惜しいのか。人質として価値があるから惜しいのか、定かにはわからない。けれど、ただの慰めではない響きがあった。浅井の血、とこの男は言った。自分たちを姫としてではなく、血筋として見ている。その冷たさがむしろ真実のように感じられ、茶々は息をのみこんだ。

 遠くで大きな崩落音がした。床が震え、天井からぱらぱらと灰が落ちてくる。侍女のひとりが「姫様!」と悲鳴を上げた。秀吉はさっと周囲を見回し、笑みを消した。

「もう時間がござらぬ。お連れ申す」

 その声には、有無を言わせぬ硬さがあった。先ほどまでの軽い調子が消え、命令する者の傲慢な声になっている。兵たちもすぐ動いた。茶々はその切り替わりに、はっとする。ふざけた男だと思った。へらへら笑う、成り上がりの男だと思った。だが違うのかもしれない。この男は、ふざけているように見せることで、人を油断させているのかもしれない。

「いやじゃ」

 茶々は一歩退いた。

「行かぬ」

 自分でも無茶だと思った。だが、ここで素直に従えば、すべてを失う気がする。父の城も、父の誇りも、浅井の長女としての自分も、この男に抱え上げられた瞬間に別のものになってしまう。それが耐えられなかった。

「いやにござりますか」

 秀吉は低く言った。

「そうでござりましょうとも」

 その返事は妙に静かで、茶々はかえってたじろいだ。子どものわがままだと笑われるかと思ったのに、秀吉は笑わなかった。茶々が「いや」と言う理由を、最初からわかっている顔だった。

「されど」

 秀吉は一歩近づいた。

「ここで死ねば、悔しいと思う間もなく終わりますぞ」

 悔しい。その一語が、茶々の胸の真ん中に突き刺さった。そうだ。私は悔しいのだ。

 助かりたい。死にたくない。妹たちも生かしたい。けれど、敵に助けられるのは悔しい。父を滅ぼした側の手で命をつながれるのは、腹の底が煮えるほど悔しい。助かりそうで嬉しい、などという単純な言葉では済まない。生き延びられることへの本能的な安堵と、誇りを踏みにじられるような屈辱が、同じ胸の裡で激しくせめぎ合っていた。

 茶々はその葛藤の名がわからなかった。名付けられなかった。だからただ、睨み返すしかない。

「おまえになぞ助けられとうないわ」

 絞り出すように言うと、秀吉は、ふ、と鼻で笑った。だが嘲りの笑いではなかった。

「ようござる」

 秀吉は言った。

「では、信長公の手先に助けられた、と一生お怒りなされませ。そうして長生きなされよ。怒りは人を生かしまする」

 なんということを言うのだ、この男は。

 茶々は唖然とした。慰めもしない。きれいなことも言わない。恨んでよい、生き続け恨み続け、と言う。そんな言い方があるのか。そんな救い方があるのか。侍女たちも呆気にとられていた。

 けれど、その言葉は奇妙に胸に残った。怒りは人を生かす。

 それはあまりに下品で、あまりに真っ直ぐで、だからこそ嘘がなかった。立派な理屈も、慈悲の顔もつくらず、この男は生きることをただ生々しく差し出してきたのだ。

「姫様」

 秀吉の声が少しだけやわらかくなった。

「今はこの猿めをお憎みくだされ。それでようござります」

 その瞬間、茶々はこの男の顔の奥に別のものを見た気がした。軽さの下に、抜け目のなさ。抜け目のなさの下に、なにか得体の知れぬ真実味。上手に人を利用する男なのだろう。調子よく笑い、転んでもただでは起きぬ男なのだろう。だが少なくとも今この場で、茶々たちを見捨てる気はない。そのことだけは、炎の熱よりも確かなものとして伝わってきた。

 次の瞬間、天井の一部が崩れ、火の粉が雨のように降った。侍女たちが身を伏せる。秀吉は迷わず茶々を抱き上げた。驚く間もなかった。ぐっと視界が高くなる。茶々は反射的に暴れた。

「放せ!」

「放しませぬ」

「無礼者!」

「無礼者でございまする」

 そのやり取りがあまりに早くて、茶々は怒る暇もなかった。秀吉の腕は思ったより堅く、熱と煙の中でも不思議にぶれなかった。兵たちが妹たちを守り、廊下を走り出す。足もとで畳が焦げ、軋み、炎の舌が追いかけてくる。茶々は秀吉の肩越しに、燃え盛る城内を見た。

 ここで育ったのだ。

 ここで父に抱かれた。

 ここで母と共に眠ったのだ。

 季節ごとの光が差し、雪の日には白く、春には柔らかな風が吹いていた、小谷城。その城がいま炎の塊になっている。何もかもが燃え尽きようとしている。その痛みが、涙となってこみ上がってくる。けれど泣くものかと、茶々は歯を食いしばった。

 秀吉は走りながら言った。

「よい面構えにござるな、姫様」

 茶々ははっとした。こんなときに、何を言うのだ。

「泣かぬ」

 秀吉は独りごとのように言った。

「まこと、浅井殿の娘御にございますな」

 茶々は胸の奥がひどく荒れるのを感じた。父の名をこの男の口から聞きたくない。聞きたくないのに、その響きは思いがけず丁重で、茶化してはいかった。父を一個の武将として認めているような言い方だった。それがますます腹立たしい。敵なら敵らしく、もっと乱暴に憎める顔をしてくれればよいのに。

 城の大手門を抜けると、涼しい夜風が吹いてきた。夜の冷たさが頬を打つ。外へ出たのだ。茶々は秀吉の腕の中から振り返った。小谷城が闇のなかで巨大な火柱となって燃えている。火の粉は空へ舞い上がり、血に染められた赤い雪のように降りかかってくる。あれは父の城だった。あれは自分の家だった。でも、もう二度と戻れぬ場所。しかし私はここにいる。ここで息をしている。

 茶々の胸に、ようやくはっきりしたものが生まれた。

 助かった。私は助かったのだ。

 そのことに、体は震えるほど安堵していた。肺に入る冷たい空気がありがたかった。妹たちの泣き声が、生きている証として胸にしみた。死なずにすんだのだという喜びは、確かにあった。否定しようのない、生きものとしての嬉しさが。

 しかし、その同じ胸の中で、別の火が燃えていた。悔しい。敵の腕に抱かれて、命をつながれたことが。父の滅びの夜に、自分だけが助け出されることが。これから先も、この事実を抱えて生きねばならぬことが。

 そして、その両方の感情のあいだに、さらにもうひとつ、言葉にしにくいものが残った。

 この男は何者なのか、という、拭いきれぬ引っかかりである。

 ふざけたような物言い。場違いな笑み。へりくだっているのか、それとも食えないのか分からぬ態度。けれど、嘘だけでできた人間ではない。底のところに、妙に生々しい真実がある。善人ではないのだろう。おそらく腹の中には幾重にも算段がある。だが、それでもこの夜、この男は火の中に入ってきた。その事実だけが、鋭い棘のように心に残る。

 秀吉は茶々をそっと地面に下ろした。ようやく足が土を踏む。茶々はふらついたが、転ばなかった。秀吉はそれを見て、ほんの少しだけ口の端を上げた。

「よう耐えられました」

 その言い方は、誉めているのでも慰めているのでもなく、ただ事実を述べる響きだった。茶々は答えなかった。答えたら負ける気がした。

 ただ、秀吉の顔をまっすぐ見た。忘れまい、と思った。父の城が燃えた夜を。自分が助かったことを。助かってしまったことを。その嬉しさと悔しさがひとつになって、喉の奥に固い塊のように残ったことを。

 そして何より、この男の顔を。信長の手先。父の敵の側に立つ者。それなのに、あの炎の中で人間らしい声で「生きよ」と言った男。

 茶々はその夜、自分の胸の裡に、名づけようのない、ある感情が生まれたのを知った。憎しみだけではない。恩義だけでもない。屈辱だけでも、安堵だけでもない。それらが絡み合って、ほどけず、なお脈打つもの。きっと長く心から消えないもの。

 小谷城の炎は、夜明けまで燃えつづけた、そしてドス黒い灰となった。

 だが一度燃えはじめたこの感情は、この先いつまでも消えることなく、私を突き動かすのだろうと、茶々はどこかで知っていた。

 

 

 

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2026-04-02 | Posted in 週刊READING LIFE Vol.350

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