週刊READING LIFE Vol.36

いつでもどこでも、ワンポイントリリーフ!!《週刊READING LIFE Vol.36「男の生き様、女の生き様」》


記事:高林忠正(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 

口ぐせはワンポイントリリーフだった。
 
「先発完投でしょ」と言われても、かたくなにワンポイントリリーフであり続けようとした。
 
1997年10月1日午前9時35分。
福岡天神の渡辺通りは、人が二重三重にもなってあふれていた。
九州初の大型百貨店の開店の日、西鉄ビル裏手の警固公園は、人の列の一時避難場所だった。
 
「72時間前のあの状態からよくここまでこぎつけた」
人の持つ無限の可能性に食品仕入部長、河野大作(仮名)は、ただただ感動するだけだった。
そんな感慨にふけったのもほんの数秒。
次の瞬間、これから始まる「開店」という戦いに全軍を指揮する総大将の顔になっていた。
 
考えてみればいつも人生は、想定とは違う方向に動いていた。
もともとが気が小さいことを自覚している。大それたことをするのは性に合わなかった。
天命に従うまでと割り切っていながらも、ジェットコースターに乗るような人生。
 
1963年(昭和38年)の秋の日の午後、都内の商業高校3年だった河野は、校長先生から呼ばれた。
校長室に行くと、校長先生のとなりに、紺の背広を着た40代のサラリーマンが座っている。
いかにもエリート風である。
バレーボール部に所属していた河野はその年のインターハイの東京都予選の決勝で敗退した。その後、空いている時間は後輩の練習パートナーとして過ごしていた。
就職は都内の印刷工場に内定している。
オレの人生もこんなもんか。
まるで植木等の『スーダラ節』そのものかもなと思い始めていた。
 
「私が見た限り河野くんは、読み・書き・そろばんの能力はピカイチです」
校長は何を言い出すのかと思った。
そろばんのスピードと正確さには自信があった。
文章を書くのは得意な方である。さらに国語の読解力については、大学受験をするクラスメートよりも上という自負があった。何よりも、数学は大好きな科目の1つだった。
 
しかし、進学は遠い夢の世界だった。職人の父の給料を考えると大学受験を言い出すことはできなかった。2つちがいの姉は地元の信用金庫で働いていた。
自分も高校を卒業したら姉のように就職だと思っていた。
 
「河野くん、こちら百貨店の人事部長さん。じつは君のことを推薦させてもらっていたんだ」
 
ちょっと待ってくださいよ。だって印刷工場に内定が決まって……
「部長さんは、有能な高卒の社員さんをさがしていらっしゃるそうなんだ」
 
校長先生はすでにその日、河野に内緒で動いていた。すでに河野の両親に一報を入れたあとだったのである。
 
両親にとって創業300年となる百貨店に入社することに異論のあろうはずがない。
 
人生が新たに動き始めたとき。
それが百貨店への就職だった。
 
1964年(昭和39年)4月にに入社。配属先は、日本橋本店の商品検品所となった。
商業高校卒業の自分が入社できたことは奇跡に近いという前提での仕事始めである。
 
誠心誠意仕事をしようとする河野の姿勢はは最初から目立っていた。
朝8時、開店の2時間前に100社以上の業者さんが納品の品物を持って、あるいは台車に乗せて検品コーナーに列をなす。
順番に品物の検品をするといいんがら、際どうしても声の大きな、態度の大きな取引先の担当者ほど入り込みをしたがるものである。
 
細かいことかもしれないが、19歳の河野はそんな不正を許さない。
順番は順番、正しいものは正しいという態度で臨むのである。
古株の業者から見れば、「生意気な若造」ということになるが、正確でスピーディーな仕事を貫いた。
 
何よりも、河野が際立っていたのは、検品の際に、単価と数のチェックだけでなく品物の不良も同時に見つけるのである。
アパレルの糸のほつれ、食品の異物混入など、瞬時に認めるのである。
 
配属後3ヶ月を過ぎたときには、役職は最下層ながら検品所の仕事のエースとなっていた。
大卒の社員ならば、2年で主任、4年で課長、6年で部長という昇進のモデルケースを頭に描くのが普通である。
 
高卒、しかも日の当たらない検品所勤務の河野にとっては、将来のプランを夢見ることすら現実的な話ではなかった。
55歳定年のときまでにせめて主任になれたらといのが唯一の希望。
他人から見れば検品のどこが面白いの? と聞かれることはしょっちゅうだったが、仕事は面白かった。
何よりも、給与から少額ながらも両親にお金を手渡せることが喜びだった。
 
そんな河野を見ている人がいた。
2年目の年末、その日は検品所総出で、正月のおせち料理の仕分けにとりかかっていた。
もちろん仕事の中心では、若干20歳の河野がサッカーの司令塔よろしく動いている。
 
1人の初老のビジネスマンが河野を凝視していた。
取締役仕入部長の大久保だった。
5分後、彼は検品所の課長に声をかけたのである。
驚いた課長は、直立不動で「はい」と返事をするのみ。
 
その日の晩、河野に一枚の紙が手渡された。
人事異動の内示である。
普段着ない背広を着て本社に行った河野に、人事部長は言った。
「食品仕入、バイヤーを命ず」
 
寝耳に水とはこのこと。
高卒、検品所勤務の20歳が、百貨店ビジネスの花形である仕入のバイヤーに!!
しかも、売上構成の一番高い食品に配属されたのである。
 
人は河野をシンデレラストーリーと呼んだ。
当の本人は、百も承知である。
自分のなかにあるのは、「仕事は永遠ではない。いつもワンポイントリリーフ」という認識だった。
ワンポイントリリーフとは、この1球、1人のバッターに全力投球するという考えである。
 
後年、食品ビジネスを背負って業界をリードする男になるとは、本人も周りも想像すらしなかった。
たった1人、食品仕入部長の大久保を除いて。
 
食品仕入のバイヤーになった河野にとって、毎日が発見の連続だった。
昔も今もバイヤーとはもともと、優秀な販売員が昇格するケースが大半である。
品物の知識や、専門の業務知識があるのが前提。
しかし、河野には現場経験がない。
 
知識の面で大きなハンディである。
 
そこで考えたのが、「ワンポイントリリーフの発想」だった。
総花的に学ぶというものの真逆である。
1つの品物、1つの商売、1人の取引先の担当者
いずれも、「1」を徹底的に掘り下げるというものである。
 
たとえば、カニ缶だったら、
まるはブランドの150g缶の原料から製造、販売にいたるまで、1つのものを徹底的に調べるのである。
 
その、カニ缶の販売方法から、売上高の一番大きな場所で、どのようにお客さまがおかいあげになるかを観察する。
 
さらにメーカーの担当者から聞きまくるのである。まるで自分がその人の分身になったかのうように聞いて聞いて聞きまくる。
 
なかでも一番重要なこと、それは「食べる」であった。
人から見ればハンディであっても、河野本人はそれすらもプラスにとらえたのである。
目が2つ、耳が2つ、鼻があって口がある。手足口を使って仕事することに変わりはないからである。
 
カニ缶でワンポイントリリーフの仕事を行った河野にとって、他の品物でも共通点と相違点があることを知った。
同じ缶詰でも野崎のコンビーフは鮮度管理については共通するものの、カニと豚肉というまったく異なる食材の加工は別であると認識するのである。
 
いつしか、ワンポイントリリーフで品物を深堀をしながら、加工食品全体のプロに近づいていた。
 
20代の後半、松山店の異動の辞令を受けた。
食品部長の補佐役だった。いままではバイヤーとして、缶詰を中心とする加工食品の仕入と開発を考えていればよかったが、松山では生鮮食品も含めて、食品全般を見ることになった。
 
ここでもワンポイントリリーフの考えが活きることになった。
松山の生鮮食品の目玉は、瀬戸内の魚であり果物である
 
なかでも鯛は、温暖な気候の中で、四季折々に味覚が変遷するのである。
 
鯛を深掘りすることで、他の瀬戸内の魚をくわしく知ることにつながった。
 
2年間の松山生活は、新たな品物との出会いであり、仕事の発見の場となった。
 
ふたたび食品の仕入に戻った河野に、バイヤーに加えて新たなミッションが与えられた。
それは、店舗のリニューアルである。
 
そのエリアで、もっともふさわしい品物を、ふさわしい形でお客さまに手渡すには?
という発想と行動である。
具体的にゾーンを書く必要が生まれた。
 
今ならCADなどのソフトがあるが、そのときは、定規と鉛筆、そして方眼紙である。
ここでも、ワンポイントリリーフの出番だった。
 
新たなスキルとしての製図を学ぶことになるのである。
週に2回、仕事の後に専門学校に通った。
 
自分が書いていた図面とは、「正確に書いていたつもり」だったことを知ることになった。
製図によって、図面の正確性とケースをはじめとする販売の位置、人の動きを見るようになった。
 
品物の目利きによる、店舗の展開を考える第一号となったのである。
 
その結果、各店のリニューアルの計画があるとお声がかかるようになった。
北は札幌から南は九州鹿児島まで、本店、支店だけでなく関連会社の商業施設の開発の相談も受けるようになっていた。
 
40代となった河野には、部長職の肩書が付くようになった。
 
検品所からスタートしたキャリアは、食品バイヤーに転じてからはまるで、毎日がジェットコースター状態。気がつくと全国の食品の店舗からの相談の依頼が引きも切らなくなっていた。
それでも、自分が出世したという感覚はまったくと言っていいほどなかった。
 
目の前の仕事をていねいにやってきたという自覚だけだった。
 
食品仕入部長になった河野に、最初で最後ともいえる仕事の相談が舞い込んできた。
九州福岡天神の新規開店だった。
 
福岡の新しい店舗は別会社組織であり、現場の食品部長もいることから、直接支援ではなくあくまでもアドバイザー的な役割となった。
 
しかし、運命は河野に一世一代のワンポイントリリーフの場を与えることになるのである。
 
別会社として開店する福岡は、現地採用の1年目、2年目の社員が中心だった。首都圏の店舗で研修は積んでも、彼らには販売経験の絶対的な時間が足りていなかった。
 
さらに、社長を含め、中核の社員は出向でありながら、新規開店はすべてがゼロからのスタートである。実際の開店準備のオペレーションに関わる人の数は足りていなかった。
 
結果は火を見るよりも明らかである。
 
開店に間に合わない状態に陥ってしまった。
 
9月26日、あと3日で開店の日。
出張した河野の目に飛び込んできたのは、「?!」
まるで開店の2ヶ月前のような風景だった。
 
店頭にケースがあるだけで品物がないのである。
 
これであと72時間後にどうやって開店させるんだ
 
アドバイザーというステートは、瞬時に当事者のそれにに変換していた。
 
食品部長の湯原(仮名)に会ったものの、かれの目は泳ぎ、焦点が合っていない状態だった。
 
「ゆーちゃん。予定通り10月1日に君が開店させるというならオレは何も言わない。ただし、もしオレに任せてくれたら、責任を持って開店させる」と。
 
一刻の猶予もできない状態だった。
 
湯原は言った。
「お願いします」と。
 
肚は決まった。
ワンポイントリリーフの始まりだった。
もし開店できなければ、辞表を提出することを決めた。
 
残された時間は72時間。
 
「できる」「できている」を前提に走り始めた。
 
全長180メートル、幅7メートル。
西鉄大牟田線が地上階の4階に入っている西鉄福岡ビルは、細長い店舗である。
 
まずは、現地の社員と販売応援の出張者の割り振りだった。
 
2名ペアでの開店準備である。
 
50分働いて、5分休むローテーションである。
 
集中して働いて、5分休むという働き方で一気に能率が上がり始めた。
 
ただし、のんびりするわけにはいかない。
 
品物である。販売する品物がないという問題が発生した。
 
ケースがあっても、POPがあっても、品物がなければ販売はできない。
 
緊急ということで、首都圏、阪神地区それぞれの担当者に話した上で、緊急納品の依頼をしたのである。
 
状況は刻々と変化した。
 
72時間前は、絶対に開店はムリと思っていたのが、
残り24時間の時点で、ひょっとしたらという状況に変わっていた。
 
そして、開店の1時間前、すべてのセクションで準備万端がそろうことになった。
10月1日の午後9時過ぎ。店舗はすでに閉店した。
 
開店初日は大成功だった。
福岡店の食品部長と社員たちは涙ながらに開店を喜び合っていた。
それを横目に、河野は店舗を出た。
 
この開店は、あくまでも福岡の食品部長、湯原のものであり、福岡店の社員たちのもの。
 
自分は通りすがりにしかすぎない。
「これでいいのだ」
 
渡辺通りの夜風は心地よかった。

 
 
 
 

◻︎ライタープロフィール
高林忠正(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

ベストメモリーコンシェルジュ。
慶應義塾大学商学部を卒業後、三越に入社。
販売、仕入をはじめ、24年間で14の職務を担当後、社内公募で
法人外商を志望。ノベルティ(おまけ)の企画提案営業により、
その後の4年間で3度の社内MVPを受賞。新入社員時代、
三百年の伝統に培われた「変わらざるもの=まごころの精神」と、
「変わるべきもの=時代の変化に合わせて自らを変革すること」が職業観の根幹となる。

一方で、10年間のブランクの後に店頭の販売に復帰した40代、
「人は言えないことが9割」という認識の下、お客様の観察に活路を見いだす。
現在は、三越の先人から引き継がれる原理原則を基に、接遇を含めた問題解決に当たっている。

http://tenro-in.com/zemi/82065



2019-06-10 | Posted in 週刊READING LIFE Vol.36

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