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週刊READING LIFE vol.47

『ひかりの歌』のことを、書かせてください《 週刊READING LIFE Vol.47「映画・ドラマ・アニメFANATIC!」》


記事:遠藤淳史(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 

オススメの映画を紹介するからには、観てもらいたいのが当然なのだが、ここで取り上げる『ひかりの歌』は8月12日を以って全国での上映をほぼ終了する。また、DVD化もネット配信もされないと現段階では名言されている。
だからここで書いても、実際に鑑賞できる人は限られてくるだろう。完全に私の自己中心的な文章になってしまうけれど、それでも一人でも多くの人の記憶の片隅に留めておいて欲しいという願いを込めて書きたいと思う。
 
『ひかりの歌』は、「光」をテーマにした短歌コンテストから選ばれた4首の短歌を原作に制作した4章からなる長編映画だ。1章に一人、主人公となる女性がいる。彼女たちはそれぞれ誰かを思う気持ちを抱えながら、相手に伝えられずに日々を過ごしている。それでも静かに、力強く確かな一歩を踏み出していく…というストーリー。
封切りされたのは2019年1月12日。インディペンデント作品ながらも着実に観客に支持され、半年以上に渡って公開を続けてきた。私が初めて鑑賞したのは2月の寒い時期。季節が変わった今でもあの時の感覚は体が覚えていて、どうにかして文章に残したいと思っていたけれど、如何せん言葉にするのが難しく放置していた。けれど今回、このお題が出たのはきっと何かの縁だったに違いない。
 
半年前の寒い日、映画館を出るとふわふわしていた。
それはもう、ふわふわとしか言いようがないほどふわふわしていた。
何が、と聞かれれば、ぜんぶが、と答える。
 
ぜんぶとは呼んで字の如く、目の前に広がる景色全て。
日が沈みつつある町の喧騒、家路を急ぐ人たちが持つスーパーのビニール袋、行き交う足音、ロータリーから発車するバスのエンジン音、飲み会に向かうであろう若者のはしゃぎ声、煌々と灯る居酒屋チェーン店の看板。
五感を通して感じるもの全てが朧げになって、周りよりも10センチだけ浮いて歩いているような、そんな感覚に襲われる。映画館のスクリーンが両の目の水晶体にべったりと張り付いてしばらく取れなかった。でもそれはコンタクトレンズがゴロゴロする気持ち悪さとは違って、できることならそのままずっと張り付いて、自分の目で見ている現実を上書き保存してほしいと思えるような、そんな景色だった。
 
自分が生きている今と物語が一体化するときの快感を、どう形容すればいいのだろう。
油は水に溶けない。かき混ぜても時間が経つと二層に分かれてしまう。そんな風に、映画の世界と私が生きる世界は劇場の中だけでしか交わることが出来なくて、一歩外に出れば日常が「おかえり、どうだった?」と聞いて私は「ただいま、めっちゃよかったよ」と返しながら家路に着くのがいつものお決まりごと。明確に分断されている。
だからこそ劇場を出た後に、物語の続きを見ているように思えたこと、現実との境界が曖昧になってくれたことは喜びそのものだった。あの人たちが生きていた世界は紛れもなく自分も今生きている世界に違いないのだと嬉しくなった。
 
『ひかりの歌』が私にとって最高な映画だったのは、「娯楽」としての役割が当たり前だと思っていた映画の在り方に、新たな選択肢を提示してくれたからだ。
 
劇中に登場する人物は、誰一人として叫ばないし怒らない。瞬間的に感情が高ぶるシーンがない。それはつまり、物語にハリがなく冗長だという印象を与えるかもしれない。けれども目に見える感情などたかが知れている。本当はもっと奥底にある、言葉にならない気持ちを伝えられたらいいと誰もが願う。何も起きていない、喋っていない時にこそ、体の内側ではたくさんの感情が渦巻いて暴れている。だから劇中では、人と人が対峙しながらも無言のシーンが多かったりする。
 
歩く、走る、ご飯を食べる、キャッチボールをする、電車に乗る、仕事をする、コーヒーを飲む、見つめる。
ありとあらゆる行為に宿る、不器用ながらも誰かを「おもう」気持ちが光に包まれるように暖かい。私たちはそのひかりにいつの間にか救われて今日まで生きてきた。やさしいね。そんな一言で表せるほど、優しさは単純じゃなかった。
相手が目の前にいてもいなくても、言葉を交わさなくても、人は互いをおもい合う。目には見えないやさしさこそが、自分の、自分以上に誰かの力になってきたのだと、この映画は教えてくれる。
 
その在り方は「娯楽」ではなくまるで「伴走者」だ。
視覚障害のマラソンランナーのそばについて走り、走路や給水所の位置を知らせ、安全にゴールまで寄り添う導き手。同時に、ゴールの瞬間に共に喜びを分かち合える存在でもある。
『ひかりの歌』は、進む先が見えなくなったり、これから先に漠然とした不安を抱える私たちの日常を包み、肯定し、そっと背中を押す。もちろん私たちの日常に決められたゴールはない。だから寄り添ってくれるのは映画を見ている時間だけ。でも不思議と、エンドロールの後には自分の進む道が少しクリアになる。きっと大丈夫だと今を信じられる。力が湧いてくる。いつか来るゴールのとき、きっと私はこの映画を思い出す。
 
ずっと待ち望んでいた気がする。こんな作品を観たかったと。
映画はエンターテイメントであり楽しむもの。現実を忘れ日常を忘れ、自らを投影しながら物語に没入する。その中でいくつもの感情の煌めきと出会うことで泣いたり笑ったり喜んだりできる。希望を見出せる瞬間がある。それこそが大前提であると同時に不変の姿だと思
っていた。
でもまだまだ、映画が示せる希望の形はあったのだ。
 
時々、どうして自分は映画を観るのだろうと問いかける時がある。そんなに毎週映画館に通ってどうするの。もっとやるべきことはあるんじゃないのと。でもハッキリと言える。
私が映画を観続けるのは『ひかりの歌』のような作品にたくさん出会うためだと。
一生かけてもこの世にある全ての映画を観ることは出来ない。だから選ぶ。探す。砂漠の中で一粒のダイヤを見つけるために、これからも私は映画館に通い続けるのだろう。
 
『ひかりの歌』が映画館でしか観られないことを知った時、最初はショックを受けたけれど、今はむしろそれでいい、それがいいと思っている。
伴走者はずっとそばにはいてくれない。走りながら、先が見えなくなった時にだけ進むべき方向を示してくれる存在だ。私が『ひかりの歌』を観たのは何かの縁で、今が然るべきタイミングだったからだろう。
自分に起きる出来事は全て何かのお告げだと思っているからこそ、私がまた道に迷ったときにも、『ひかりの歌』はスクリーンで待っていてくれる気がする。だから大丈夫、きっと。
いつかまた会えるその時まで。
さようなら、『ひかりの歌』

 
 
 
 

◻︎ライタープロフィール
遠藤淳史(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

1994年兵庫県生まれ。
関西学院大学 社会学部卒業。
都内でエンジニアとして働く傍ら、天狼院書店のライターズ倶楽部に参加。
毎週末の映画館巡りが生き甲斐。

 
 
 
 

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2019-08-27 | Posted in 週刊READING LIFE vol.47

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