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週刊READING LIFE vol.49

アリとの遭遇2019《 週刊READING LIFE Vol.49「10 MINUTES DOCUMENTARIES〜10分で読めるドキュメンタリー特集〜」》


記事:吉田けい(READING LIFE編集部公認ライター)
 
 

これは、平凡な主婦とアリの戦いの記録である。
だから虫が苦手な方は読まない方がいい。
 
ある熱帯夜の夜、洗面所で歯磨きをしていると、白い洗面台の上に、小さな黒い点がいくつもあるのを見つけた。あれ、ゴミかな。しゃこしゃこしながら眺めていると、黒い点はじりじりと動いているではないか。少し屈んで凝視すると、小さな小さなアリだった。洗面台の縁に沿って、テクテク歩いている。三匹くらいだろうか。
 
わ、アリだ。
 
私は歯磨きを終えると、口をゆすぎ、歯ブラシを洗った。水を出したままシャワーヘッドを引き延ばして、アリめがけてかける。アリたちは慌てふためきながらも水流に負け、排水溝の奥に流されていった。我が家は戸建だから、家の中に小さいアリがいることくらい普通だ。なんならクモもいるしゴキブリとかゲジゲジとか紙魚とかも出る。庭にはバッタもカマキリも息子が大好きダンゴムシも、その他諸々もたくさんいる。クモは他の虫を食べるから無罪放免、ゴキブリは天敵なので悪即斬、ほかもまあうまく外に逃がしたり、やむを得ず駆除したり。アリンコの我が家の巡回経路がたまたま洗面台だったんだろう、いちいち目くじらを立ててもしょうがない。息子が見ていると、「アリしゃん」なんて指差すので駆除できず、そっとつまんで外にポイポイしてくるが、そうじゃなければガムテープでペタペタと駆除がよいところだ。彼らの末路が水に流れるか、ガムテープに磔にされるか、その程度の違いで、何の感傷もなかった。
 
次の日、また歯磨きをしていると、また黒い点を見つけた。
 
「…………」
 
熱心に巡回しているなあ。その日も昨日と同じように水で流して終わった。だが、さらに次の日も同じように歩いているのを見ると、ちょっと気色ばむ。我が家の洗面所・脱衣所は、一畳半ほどの広さだろうか。縦長の長方形で、入り口の引き戸を開けると、右手に洗面台。その隣に乾燥機、洗濯機と続く。洗濯機の向かいあたりにタンス、その手前にちょっとした物干しと洗濯物入れのかご。歯磨きしながらぐるりと見まわしてみると、タンスの上の小物置き場に、テクテクしている黒い点を見つけた。私は眉をひそめてしかめっ面になる。思案する時の私の癖だ。歯磨きを終え、ガムテープを持ってくると、洗面台とタンスの上にいるアリを、ペタペタと磔にした。全長二ミリもない、小さいアリが十匹ほどとれた。
 
「……ヒメアリかな」
 
さてどうしようか、と更に顔をしかめたところで、息子が起きて泣いている声が聞こえた。この日はタイムアップだ。磔ガムテープの粘着面どうしをくっつけて、ゴミ箱にポイ。こいつらも私の目に留まらなければこんな風に死ななかったのにな。小さな感傷はガムテープと一緒に投げ捨てられたが、嫌な予感は消えることはなかった。
 
次の日朝起きてみると、案の定、洗面台とタンスにたくさんアリいた。ガムテープは洗面台に置きっぱなしにしていたので、すぐさま磔の刑を開始する。ところが、洗面台を終え、タンスを終えた頃には、また洗面台にアリが沸いている。そこが終わるとまたタンス。全然終わらない、無限に沸いてくる。ガムテープを何回も切って、もう百匹ほど仕留めただろうか。苛々してきた私は、磔の刑の手を一度止め、アリたちの行く先、来た方向をじっと目で追う。すると、今まで気が付かなかったのが不思議なくらい、床にもたくさんアリがいる! 知らず知らず踏んづけていてもおかしくはない。我慢しきれず、床のアリをガムテープ磔にしながら、その出どころを追っていく。どうもシロアリ駆除用の点検口の隙間から出入りしているようだった。これはまずい。すぐに対策をしなきゃ。
 
我が家の殺虫剤は、庭からすぐに取れるように玄関の下駄箱に置いてある。洗面所からはすぐ目の前だ。早速下駄箱を開けて殺虫剤を物色するも、アリ用殺虫剤はなかった。そのかわり、キンチョールと、ハチ用と、ゴキブリ用が見つかった。これから朝食の準備やら保育園の準備やらしなければいけない、わざわざ近所のドン・キホーテまでアリ用殺虫剤を買いに行くほどの時間はない。まあ、虫を殺すほどの威力があるんだし、他の虫にも全く効かないってことはないんじゃないかな。なんとなくハチとアリは形が似ている気がしたので、私はハチ用殺虫剤を装備した。洗面所に戻り、点検口を開けると、アリたちは散り散りにどこかに逃げていく。点検口の底からむっとした湿気が立ち上り、むき出しの地面が見えた。でっかいムカデとかいたらどうしようかと思ったが、何事もない。少しほっとして、点検口の縁にまんべんなくハチ用殺虫剤を吹きかけ、フタを戻した。
 
アリたちは、匂いに敏感だ。さっきまで点検口のあたりをうろついていたのに、点検口には一切近寄らなくなり、右往左往している。これは効果あったな。私は得心し、洗面所に残された哀れなアリたちをすべてガムテープ磔の刑に処した。何匹いたのかなんてもう覚えていないが、少なくともガムテープを五回はちぎった。
 
もうこれで、大丈夫だろう。
 
ところが、夜に歯磨きしていると、またアリがいた! なんでだ! 床をチェックすると、もう殺虫剤の効果が切れたのか、点検口あたりをウロウロしているアリが何匹かいた。私は朝と同じ手順でハチ用殺虫剤を噴射し、アリどもを皆殺しにした。今度こそ大丈夫! そう思って眠りについたが、次の日の朝も、洗面所には招かれざる小さな客に占拠されていた。出どころを辿ると、今度は点検口ではなく、床と壁の小さな継ぎ目の隙間から侵入しているようだ。なんて根性だ。これはもはや単なる巡回じゃない、きっとこの洗面所に奴らの餌になるものがある。奴らはそれを手に入れるために、殺虫剤やガムテープの危険を顧みずに全軍を派遣しているのだ。これを見逃すわけにはいかない、これ以上侵入を許すわけにはいかない! 私はひとまず息子を保育園に送り出し、帰りにドン・キホーテにより、アリの巣コロリを購入した。
 
アリの巣コロリは、いわゆる毒餌だ。
 
アリが好きそうな香りがする毒餌を持ち帰らせ、巣ごと一網打尽にする、というコンセプトの商品だ。餌にたかられているのでは、もう今更アリの侵入口にアリ用殺虫剤を散布したところで手遅れだ。アリを引き付けている何かを突き止めて廃棄、その後はアリの巣コロリで全軍コロリだ!
 
家に帰って洗面所を見ると、相変わらず大群に攻め込まれている。時間的にはもう点検口の殺虫剤の効果は薄れているはずなのに、もうそちらから侵入してくる様子はない。アリたちも学習しているという事だ。一寸の虫にも五分の魂というが、彼らもただ甘いものへと向かうようにプログラミングされているだけではないのだ。彼らなりに知恵を働かせて、それでも戦利品を手に入れようと四苦八苦している。なかなか興味深いが、その知恵を働かせた先に我が家があるのはたまったものではない。彼らに罪はないが、私は息子の為にも、負けるわけにはいかないのだ。
 
侵入口が点検口から床の隙間に代わった後は、タンスの方にはアリは現れていなかった。だからきっと洗面台のどこかにアリのターゲットがある。私は歯磨き粉や裏の隙間をチェックするが、何もない。アリの行方を辿ってみると、三面鏡の左側あたりによくたかっている気がする。鏡の裏は、それぞれ収納がある。
 
「うげっ!」
 
もしやと思って左の鑑の収納を開けてみると、ごま塩のようにアリが大量にいた! ここだ、ここに間違いない! 棚に入っているのは夫の整髪剤ばかりだが、その中で一つだけ、種類が違うものがあり、アリもそれにたかっていた。
 
「……マウスウォッシュ……!」
 
オトク用サイズのマウスウォッシュ。薄紫色の液体がまだボトルに半分ほど残っている。そのボトルの表面を、十匹以上アリがうろついているではないか! これだ! 間違いない! このマウスウォッシュ、いつのなんだろう? 少なくとも去年とかではなさそうだ、もしかしてこの家に引っ越してきた当時のものか。だとしたら五年物になる! そんなに経っていたら、もうアルコール成分は揮発して、単なる甘い水になってしまっているに違いない。我が家を定期巡回していたアリが、この大量の砂糖水を発見せしめたというわけだ。アリたちにとってはゴールドラッシュのようだったに違いない。容量にして500mlほどか。少なくともこの夏、この巣のアリたちの食事を賄うには十分な量のはずだ。しかし、もう私に見つかってしまった。ゴールドラッシュならぬ、マウスウォッシュラッシュは終わりの時が来たのだ。
 
私はマウスウォッシュを棚から出し、表面のアリを全部取った。マウスウォッシュ自体は袋に入れて厳重に縛って捨てる。後は、宝物を失って右往左往する残党アリ狩りだ。ペタペタ、ペタペタ、ただ無心にアリたちをガムテープ磔の刑に処していく。こいつら、ご馳走の山があって、それを持って帰れると思ってウキウキやって来たんだろうな。ちょっとつまみ食いしようとか考えてたんだろうな。こんなに慌てて逃げ惑って……自分の仲間がくっついてるでっかい壁が迫って来るってどんな気分なんだろう。進撃の巨人みたい? なんにせよ人間だったらパンデミック系漫画になりそうだよな。わ、侵入口から新しいアリが入ってきてる。こいつらも何も知らずに、うっかり顔を出したから私に殺される羽目になったんだな。あーあ、この家に入ってこなければ、庭で干からびたミミズでも運ぶ部隊に編成されてれば、こんなことにはならなかったんだよ。妙な感傷に浸りながら、私はアリを殲滅した。二百匹以上いたのかもしれない、とにかく手あたり次第ペタペタして磔にした。大量に発生した磔の証を丸めてゴミ箱に捨て、アリの巣コロリを設置すると、不思議と清々しい気持ちになった。いよいよ大詰めだ、アリの巣コロリの餌をこいつらが持って帰れば、今度こそ私の勝ちだ。
 
「わ、いるいる」
 
数時間後洗面所を覗くと、アリたちが何匹か、アリの巣コロリの中に入ってる様子を見かけた。毒餌とも知らず、足早に餌の山の上を行ったり来たりしている様は、無邪気にはしゃいでいるように見えた。マウスウォッシュはなくなったけど、これがあれば安心だ、とでも思っているのだろうか。
 
こいつらが、この餌を持ち帰ったら、巣にいるすべてのアリが死ぬ。
働きアリも、幼虫も、女王アリも、みんな死ぬ。
 
「…………」
 
不意に、罪悪感が私の心臓をぎゅっと握って、アリの巣コロリから目が離せなくなってしまった。アリたちは自分の家族のために、懸命に食事を探していただけだ。自然界ではごく当たり前のことだ。巣に待つ幼虫や女王アリは、何の疑問も持たずにこの餌を食べるだろう、今日もご飯があって良かったなと思いながら食べるに違いない。その餌を食べて、毒でもがき苦しんで死ぬなんて、なんてむごたらしいことだろう。私にも息子がいて、息子のために毎日ご飯を用意している。必死に買い物して料理した食べ物に毒が入っているのに気が付かず、息子に食べさせてしまって、息子が苦しみ出したら、どれほど悲しいだろう、己の愚かさを責めるだろう。ああ、アリたちはそんな可能性を微塵も考えず、せっせと毒餌を運び出している、次の部隊もまた毒餌を取りに来ている……。そんな風に苦しめるつもりじゃなかったんだ。ただ家の中に入ってきてほしくなかっただけなんだよ。アリたちにも分かる看板でも立てられたらよかったのに。危険を承知で外を歩いている働きアリだけでなく、いたいけな子供まで毒餌の餌食になるなんて、なんて酷いことをしてしまったんだ。
 
自分を責める私の目の前で、アリたちは猶も毒餌を運び出している。
 
「…………」
 
私は何度も躊躇ったが、結局、アリの巣コロリを撤去することはできなかった。ただ毒餌を運び出すアリたちを眺め続けるのは見るに堪えず、足早にその場を後にした。
 
害虫を駆除する時も、庭の雑草をむしり、お気に入りの植木に水をやるときも、いつもそうだ。私は何の権利があって、一方を活かし、一方を殺しているのか。生殺与奪の権利を掌握するなど、神様気取りで偉そうに何をしているんだ。害虫にも雑草にも何の罪もない。ただ私にとって不要、邪魔だった、ただそれだけだ。無益な殺生をするなとブッダも言っているのに、ただ邪魔だから、気持ち悪いからと駆除し、いっぽうで綺麗だね、可愛いね、と花や動物を愛でるのは、傲慢そのものではないのか。
 
じゃあ、アリをそのままに、ゴキブリをそのままに、蚊に刺され放題で、雑草はぼうぼうのまま、共生していく?
 
「……無理」
 
自分の罪深さと傲慢さを握りしめて、この家を、息子と夫を、守り手入れしていくしかないのだ。そもそも動物も、自分にたかる虫を追い払うし、宿主がどうなろうとお構いなしにウィルスや寄生虫が侵入してくる。植物どうしも、陣地や日射しを争って葉っぱを伸ばし、負けた方は枯れてしまう。体の大小で人間ばかりが一方的に殺していると思いがちだが、広い生態系のサイクルで見ると、結構人間もやられる側だったりするのだ。仕方ない。生命が生命として生きていくために、他の種と争わなくてはならないのは、仕方のないことなんだ。
 
分かり切っている答えを呟いて、私はうなだれるしかできなかった。

 

 

 

夜になってもう一度アリの巣コロリを覗いてみると、もう一匹もいなかった。それどころか洗面所から一匹もいなくなっていた。なんとなく、アリたちはあれが毒餌なのだと学習したのではないかと思った。駆除しても駆除してもあんなに大群で押し寄せてくるアリたちが、たった数時間、見た目にはほんの少ししか減っていない毒餌を、全員が食べたとは私の感覚では考えられなかった。もしかすると何匹かは犠牲になってしまったのかもしれないが、それを見て、私の家の中にある餌は毒、と学習し、うちに来なくなったのではないか。実際のところは誰も知る由がないが、そう考えると、この家の主を続けていく重荷が少し軽くなったような気がした。
 
その後ぱったり見かけなくなったアリだが、数日して、一匹だけ洗面所を歩いているのを見かけた。毒餌のことを忘れたのか、承知の上でまた巡回に来たのかは分からないが、のんびりとした足取りで洗面台の縁をテクテクと歩いていた。彼はまた新しい食べ物が落ちていやしないかと、自分の任務を忠実に遂行しているのだ。そこにどんな危険があっても、自分の死の可能性が転がっていても、怯むことはない。種を生かすために、あるいは自分が生きるために、厳しい現実を、テクテクと歩き続けている。
 
「……頑張れよ」
 
私はアリにそう声をかけ、ちぎりかけたガムテープをしまい直したのだった。
でも、次はもう、容赦しないからね。

 
 
 
 

◻︎ライタープロフィール
吉田けい(READING LIFE編集部公認ライター)

1982年生まれ、神奈川県在住。早稲田大学第一文学部卒、会社員を経て早稲田大学商学部商学研究科卒。在宅ワークと育児の傍ら、天狼院READING LIFE編集部ライターズ倶楽部に参加。趣味は歌と占いと庭いじり、ものづくり。得意なことはExcel。苦手なことは片付け。天狼院書店にて小説「株式会社ドッペルゲンガー」を連載。
http://tenro-in.com/category/doppelganger-company

 
 
 
 

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2019-09-09 | Posted in 週刊READING LIFE vol.49

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