週刊READING LIFE vol.73

意気地なしのままでいたくなかった《週刊READING LIFE Vol.73「自分史上、最高の恋」》


記事:篁五郎(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 

「意気地なし」
 
彼女は、僕をなじった。
 
カチンときたけど何も言い返せない。なぜなら間違いなく僕は逃げたからだ。
 
当時、僕は仕事が怖くて行きたくなかった。行けば、自分の無力さ、スキルのなさをまざまざと見せつけられていたからだ。一つの仕事が終わるのに人の2倍3倍かかるのも珍しくない。あまりの遅さに上司から「時間ないから取りあえず出せ」と言われるのが日常茶飯事。
 
しかも、労働時間が異様に長い。出社時間は遅くて月曜日に昼の12時くらいからスタートする。そこから終電までなんて当たり前。翌日の始発まで働いていたこともある。
 
「お疲れさま。じゃあ12時間後に」
 
そんな挨拶をして帰って行く。疲れ切った身体に無理やりご飯を流し込んでから泥みたいに眠る。目が覚めれば出社時間。そんな日の繰り返しだった。
 
でも、そんな日常からおさらばできたんだ。
 
どうしてか?
 
いつものように朝寝ようとしたらお腹が痛くて眠れない。キリキリとして眠れない。
 
「寝るんだ! 寝れば痛みなんて気にしなくなる」
 
自分に言い聞かせるけどまったく眠くならない。それどころか余計にお腹が痛くなってきた。吐き気もする。トイレで吐いてこよう。そうすればすっきりして眠れるさ。
 
僕はお腹を押さえながらトイレへと向かっていった。足はふらつき、頭はクラクラする。これだって寝れば治るなんて軽く考えていた。
 
便座に向かってえずくと出てきたのは真っ黒な液体だった。
 
「なんだ? これ」
 
出てきたのはゲロではなく血だった。一度吐いたらまた吐きたくなってきた。また血が出てくる。
 
どうしよう?
 
どうしよう?
 
頭の中はこの言葉でぐるぐる回ってきたところで意識を失った。気づいたときには病院のベッドに寝ていた。胃かいようと診断されて二週間の入院が必要と言われた。
 
幸い安静にしていればすぐに良くなる程度の症状だったが、僕は会社に診断書と退職願を郵送で送ってそれっきり。退院して初めてお酒を飲んだときに彼女から冒頭の言葉でなじられたんだ。
 
初対面の男にそんな言葉をぶつけてくるなんてとんでもない女だと思われるかもしれない。
 
言われても仕方ないことをしたんだ、僕は。
 
彼女は、当時町田でバーテンダーしていた。働いていたお店は女性のバーテンダーしかいない。でも、今でいうガールズバーとは全く違う。オーセンティックなバーで色々なカクテルを作っている。いつまでもできないとお店には立てなくなる。そんなお店に入った理由はもちろんスケベ心からだ。無職になったから慰めてもらおうとかわいそうな自分を演出して話を盛りに盛った。何人かの若くてきれいなお嬢さんに「大変でしたね」「頑張ってください」と慰められて有頂天になった。
 
少し時間が過ぎて、彼女に「何を作りますか?」と聞かれてジントニックを注文した僕は会社を辞めた話を始める。さっきよりも今まで以上に大げさに。上司の悪口や会社の労働環境の悪さをぶちまけた。最初は黙って聞いていたけど段々としかめっ面になっていく。そして感情を消した顔でこう言ってきたんだ。
 
「かわいそうって言ってほしいのはわかりました。結局のところ仕事がつらくて逃げたんですよね?」
 
図星だったから僕は黙り込んだ。
 
「意気地なし。悔しかったらもう一度、頑張ってみなよ」
 
恥ずかしかった。一回り近く年下の女性にこんなことを言われる自分がとんでもなく恥ずかしかった。逃げるように僕はその場を立ち去る。でも、彼女の声と言葉が消えない。
 
「意気地なし」
 
いつまでも頭の中に焼き付いていた。
 
その晩から数日経ってから僕は再びあのお店に行った。彼女にどうしても謝りたかったからだ。
 
「いらっしゃいませ」
「えっと、ジントニックをください」
「はい」
 
所在なさげにしていると彼女から話しかけてくる。
 
「この間は言い過ぎました。申し訳ありません」
 
こう言って頭を下げてきた。
 
「止めてください。僕が悪かったんです。それにあなたの言うとおりだ。だから頭を上げてください」
 
顔を上げた彼女はクシャッと音が出てくるような飛びきりの笑顔を僕に見せた。
 
「良かったです。本当は怒らせたんじゃないかと心配で心配で」
 
そう言ってジントニックを作り始める。
 
どき。
どき。
 
あれ? なんでこんなに心臓の音がでかいんだろ?
これってきっと忘れかけていた感覚だ。
 
どこかの歌手が「もう恋なんてしない」と歌っていたが、僕もそうだったはず。婚約まで考えていた女性にプロポーズ直前に振られて以来、恋愛なんて自分とは関係ないものと思って生きていた。あり得ない。絶対にあり得ない。しかも、たった二度しか会っていない女性に惹かれるなんて。
 
「お待たせいたしました。ジントニックです」
 
彼女ができあがったカクテルを盛って僕の元へ来る。
 
「あ、あの」
「はい?」
「お名前を聞いていいですか?」
「木村です。木村あすか」
「僕は篁といいます」
「篁さんですね。よろしくお願いします」
 
こんなやり取りをしているだけで胸が高鳴るのがわかる。間違いない。僕は彼女に恋をしたんだ。
 
それから店に通って飲みに行くようになった。オーセンティックといってもバーテンダーが店長以外は女性なので客はほぼほぼ男。彼女が他の客と楽しそうに話していたら気分が沈むし、自分と話しているときは天国にも昇るようだった。
 
彼女はお酒は一滴も飲めないけど、すごく努力家で練習したカクテルの試飲をお願いされたこともある。
 
「篁さんに出すのが初めてなんですよ」
 
いたずらっぽい笑顔を見せてくれると僕はちょっとした優越感を覚えた。
 
横浜で開かれたバーテンダーのコンテストに参加したから見に来てほしいと頼まれたときも仕事を休んで駆けつけた。無理をしてスーツを新調したのを覚えている。
 
会場でビシッと白のジャケットを着込んでシェーカーを颯爽と振る姿を見て惚れ直したこともある。
 
そんな彼女は地道に努力を重ねて、大きな成果としてコンテストで大きな賞をもらった。それをきっかけに有名バーテンダーが都内に新たに開くお店にスタッフとして引き抜かれるほどにまでなった。
 
町田のお店を退職する日、お店にはたくさんのお客さんが駆けつけた。僕のその一人。みんなに、いつものようにクシャッと聞こえてきそうなくらいの笑顔を向ける彼女はキラキラと輝いている。
 
僕も頑張ろう。
 
そう思わせてくれる女性だった。だからこそ僕は彼女に惹かれたのかもしれない。
 
これでサヨナラなのかな? いいや、実は都内のお店も教えてもらっていた僕はわざわざ彼女に会いたくて出かけていた。遠いから通うのは月に一度。それが楽しみで日々の生活をしていた。
 
新しいお店のオーナーは、バーテンダーとしても超一流で日本中のバーテンダーを指導する役職も兼任している。彼女が賞を取ったコンテストでも審査員をしていた。それくらいのお店だからバーテンダーにも厳しい。彼女は最初、カクテルを作るのを許されていなかった。
 
「大丈夫?」
 
こっそりと聞くといつもの笑顔で「大丈夫ですよ。いつかきっと認めてもらいますから」と笑顔で答えてくれた。
 
彼女がカクテルを作るのを許されるようになったのは、それから半年くらいの後。毎月の楽しみで通ったときにオーナーは不在で彼女だけだった。
 
「お酒お願いしてもいいの?」
「はい! もうお客さんのお酒作っていいって!」
「やったね!」
 
そんな言葉を交わしたのを覚えている。
 
彼女とカウンター越しに会話をするのが楽しみだった。会話とお酒、それだけで十分だった。
 
ウソだ。
 
本当は、一緒に食事にも行きたかったし、隣にも座ってみたかった。手もつなぎたかったし、キスもしたかった。
 
でも、できなかった。
 
これでいいんだ。
 
そうやって自分を誤魔化していた。
 
どうして?
 
仕事が忙しかったから?
 
違う。忙しくなんかない。あの仕事をした後に就いた家電量販店の販売員なんて何の責任もないし、売れなくても別に自分は困らない。極端なことを言えば誰にでもできる仕事だ。派遣だからできる内容は限られていたし、お金さえ稼げたらいいから特にやる気もなかった。
 
じゃあ、夢に向かって努力をしていたから?
 
それも違う。やりたいことはあったけど特に何もしていない。せいぜいネットで他の人の成功例をみて自分も同じようになりたいと妄想していただけ。
 
自分で何もしていなかったんだ。彼女みたいに努力して結果を出したわけじゃない。ただ、生きているだけ。そんな自分がイヤなのはわかっているのに動こうとしなかった。それが恥ずかしかった。
 
打ち破るにはどうすればいい?
 
答えはとっくに出ている。一言、面と向かって「あなたが好きです」とだけ言えばいいんだ。でも、言えなかった。
 
なんでか?
 
わかっているさ、告白すると今の関係が壊れるのが怖かったからってだけ。あのクシャッと音が出てくるような笑顔を見られなくなるのがイヤだった。それが見られなくなるくらいならこのままでいいと思った。それだけ。
 
そう。初めて彼女に会ったときから僕は変わっていない。
 
「意気地なし」
 
ただ、それだけだった。
 
意気地なしのままだった僕は、結局彼女に「好き」とは言えず時間が流れた。彼女は都内のお店でバーテンダーとして頑張ってきて、オーナー不在のときでもその日の営業を任せられるほどにまでバーテンダーとして成長していた。僕とは全く違う。
 
しかし、彼女は実家の事情で田舎に帰ることになった。それを聞いたときにも僕は何も言えなかった。
 
「意気地なし」
 
そう。その通りだよ。僕は意気地なし。でも、そんな意気地なしに「頑張ってみよう」と思わせてくれたのは彼女だった。今ではどこで何をしているかわからない。でも、ふと思い出すときがある。クシャッと聞こえてきそうな笑顔をね。
 
 
 
 

◽︎篁五郎(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
初代タイガーマスクをテレビで見て以来プロレスにはまって35年。新日本プロレスを中心に現地観戦も多数。アントニオ猪木や長州力、前田日明の引退試合も現地で目撃。普段もプロレス会場で買ったTシャツを身にまとって港区に仕事で通うほどのファンで愛読書は鈴木みのるの「ギラギラ幸福論」。現在は、天狼院書店のライダーズ俱楽部でライティング学びつつフリーライターとして日々を過ごす。

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2020-03-30 | Posted in 週刊READING LIFE vol.73

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