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週刊READING LIFE vol.73

転んだのは私?《週刊READING LIFE Vol.73「自分史上、最高の恋」》


記事:綾乃(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 

本当に好きな人は夢に出てきてくれない。
そういう決まりが私にはある。
高校生の頃から思い続けているその人も、やはり夢の中で私に逢いに来てはくれない。その人とは二次元世界のキャラクターではない。実在の人物だ。
名前は益田四郎時貞。通称で天草四郎と呼ばれる。
 
出会いは最悪だった。
中学校の時、日本史の授業で彼のことを初めて知った。江戸幕府を脅かす「島原の乱」の総大将に、16歳でなったと教科書にあった。
「自分よりちょっと年上なだけで、総大将とは何ごとか?!」
当時、委員などの面倒ごとをなるべく避けて生きていた私は、戦の総大将などという責任と重圧があるポジションに16歳の若造が就いたことに衝撃を受けた。
校内では自分と同じ年頃の生徒たちが陸上やら水泳やらで、毎週のように表彰されるのを、何の特技もない自分は、遠い異国の出来事としてただ見送ることができた。
しかし、16歳で乱を指揮するとは生意気だと天草四郎に嫉妬した。
 
高校生になり、突然、彼への愛を自覚した。
きっかけが何であったかは覚えていない。また彼のどこを、どのように好きになったのかもわからない。ただ何となく存在が気になり始め、名前を見ると胸がざわつき、そして多くの恋愛がそうであるように、気がついたら恋に落ちていた。
しいて言えば、友人の中に源義経が大好きな子がいて、彼女と張り合ったのが引き金となり、愛が形を伴い爆発した。
「義経チャン、かっこいい~」と友人は四六時中言っていた。あまりにしつこくのろけるので、
「顔の良さなら天草四郎の方が上でしょ。なんたって彼は美少年なんだから」と言ってやった。
その後も彼女は、「義経(ぎけい)記」の中に眉目秀麗って書かれてあるから、義経チャンの方が綺麗よ~などと言い、一歩も引かなかったが、ともかく、この件以来、私は四郎のことが気になり始め、友人が「義経チャン」と騒ぎだすと、「四郎さんだってね……」と言い返し、言の葉とは恐ろしいもので、口に出す回数が増すにつれ、彼への愛情も増加していった。
 
一度好きになると、私は一途だ。
好きな人と同じ髪型をすることに喜びを見出す癖がある私は、似合いもしないポニーテールにして満悦した。しかし、髪を頭皮から抜かんばかりに引っ張り上げるそのヘアスタイルに頭痛を覚え、数日でやめた。
クラスメートたちが、先輩だのアイドルだのと騒ぎ立てる中、その手の話には全く興味を示さず、四郎のことを思い続けた。教室では例の友人と歴史談義をして、他の者たちから冷たい視線を浴びた。「歴女」という言葉はまだ存在しなかった。
「四郎さん、四郎さん」と連呼する私に、他の友人は「シローさんと呼ばれている先輩がいるから気をつけなよ」と心配した。その先輩は名字がスズキと平凡であったため、特別に下の名で呼ばれていた。私は友人が言うのももっともだと彼女に感謝し、隠れたところでしか愛しい人の名を呼ばないように注意した。
 
こんな浮ついた愛情の示し方だけではなく、正当な愛し方もした。
本屋で目についた「島原の乱」関係の本を買いあさった。中には難解でつんどく対象のものも多くあったが、それでも心を込めて資料を読み、彼の足跡を追った。
テレビの時代劇で「島原の乱」のシーンが少しでも出てくると、迷わず録画し保存した。しかし江戸時代初期の、九州の一地方で起こった乱がドラマの中で取り上げられることはごくわずかだった。ドラマのストーリーに大して関係がないのに、面倒で金がかかる合戦シーンを撮影するのは割に合わないのだろう。「九州の島原・天草地方のキリシタンが圧政に耐えかねて一揆を起こした。いわゆる島原の乱である」とナレーターの一言で片づけられることも多くあった。
それすらまだいい方で、何もなかったかのように一切触れずに話が進行することもよくあった。
織田信長や徳川家康の本やドラマは巷にあふれているのに、天草四郎の情報は世の中にほとんどなかった。だから私は歴史からのアプローチをやめて、エリアから攻めることにした。
「いい旅夢気分」などの旅番組を欠かさずチェックして、天草・島原地方の回を見逃さないようにした。長崎・熊本県を特集した旅行雑誌を買い求め島原の乱に関連する地名を嬉々として覚え、そこで何が起きたか学んだ。
旅番組や雑誌で見る彼の故郷は、光がまぶしく海が青く、美しさしかなかった。そのどれもがキラキラしていればそれだけ、過去に起きた歴史の暗さが浮き出て、心が痛くなった。
 
現在では長崎県の島原地方と熊本県の天草地方にわかれる一帯はもともとキリシタン大名の有馬晴信(ありまはるのぶ)と小西行長(こにしゆきなが)の領地で、大半の住民がキリシタンだった。
豊臣秀吉の時代に発布されたキリシタン禁教令は徳川家康の死後、効力を強め、宣教師とキリシタンの迫害が激しくなる。もともと戦国大名たちが南蛮貿易で富を得るためにキリスト教布教を許可しただけだったので、布教を伴わないオランダとの貿易が軌道に乗ると、権力者にとってキリスト教は不要になった。
そうしてキリシタン迫害は全国に広がり、九州でも多くの信者が弾圧され、処刑された。
それと同じ頃、島原・天草地方では天候不良で作物が育たず飢饉となった。領民のことを思うキリシタン大名はもういない。新たに入封した松倉氏と寺沢氏は年貢を容赦なく取り立て、払えない者を見せしめに牢に入れて拷問した。
心の自由と生活の基盤。その両方を奪われた領民たちが、小西行長らの遺臣である元武士たちの先導で立ち上がり、蜂起したのが島原の乱だ。
1637年10月(旧暦)に始まった島原の領民による武装蜂起は圧政を敷く松倉氏の居城である島原城を包囲。そこへ天草側の領民も合流し、追い詰める。
いいところまで攻めるのだが、幕府からの援軍が到着すると、形勢を立て直すために一揆勢はかつての領主・有馬晴信の城で、当時は使われていなかった原城に籠る。
そこでも一揆勢は奮闘する。幕府援軍の司令官を殺害し、戦を優勢に進める。これに怒った江戸幕府3代将軍の徳川家光が重臣・松平信綱(まつだいらのぶつな)を派遣し、兵糧攻めにした上で総攻撃をかけ、乱を鎮圧させる。1638年2月28日(旧暦)のことだ。
 
37,000人の一揆勢は全滅。もちろんその中に天草四郎もいた、と言われる。
討ち取った四郎と同年代の少年の首を並べ、先に生け捕りしていた四郎の母親に見せて、確認をさせたと言う。
 
この事実を知った私は、松平信綱のことを憎んだ。あの男さえ出てこなければ、一揆勢は革命を成し遂げたかもしれないのに、と。
当時、再放送していた「柳生一族の陰謀」で松平信綱を演じた高橋悦史氏まで嫌いになったほどだ。
 
けれども、もっと恨んだ人物がいる。
一揆勢に組して、四郎に近いところにいた人物である。
名前は山田右衛門作(やまだえもさく)。職業は南蛮絵師、つまり西洋画家。世界3大聖旗のひとつとして有名な「天草四郎陣中旗」を描いたと言われる。
その男が幕府方と連絡を取り合い、スパイ行為をしていた。最後は四郎と一揆勢を裏切り、自分だけ生き残る。
 
キリシタン禁教令が出てから、信仰を放棄することを「転ぶ」と言う。
山田右衛門作がキリシタンであったかどうかは、どのような書物を見ても、今のところ記述を見つけられない。だから正確な意味では、彼は「転びキリシタン」ではないかもしれない。しかし、おそらく乱の最中にキリシタンの同僚たちを疎ましく思い、彼らを捨てたことは確かだろう。
 
天草四郎への愛を募りに募らせていった私は大学で彼のことを研究したいと願い、S大学の神学部を受験した。
S大学は、キリスト教修道会のひとつであるイエズス会が設立したキリスト教系の大学である。イエズス会と言えば、日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルの会派だ。最近では来日したローマ教皇フランシスコがS大学校内で講演するなど、日本のカトリックの総本山とも言える大学だ。
その聖域の中でも、最も純度が高い神学部への入学を目指したのである。
 
神学と言えば、ヘッセの「車輪の下」に出てくる、あの世界である。ラテン語とかギリシャ語とか、トマス・アクィナスとか。神学部は司祭や修道者を育てるところでもある(もちろん教会関係以外のところに就職する者もいる)。
いかに自分が門外漢で、図々しいかはわかっていた。
私はクリスチャンではない。我が家は法事や葬式を仏式で行う、日本でよくある無宗教に限りなく近い仏教徒の家だ。四郎に憧れてキリシタン文化も好きになり、改宗を考えないわけではなかったが、まだ高校生の身分だったので、大人になってからでも遅くはないだろうと先延ばしにした。
 
S大学神学部の受験では1次試験を通過すると、2次試験で面接と小論文がある。面接を待つ小部屋で一緒になった受験生と話していると、彼女たちは皆、キリスト教徒だった。興味本位で受験するような能天気な人間はひとりもいなかった。
面接で、イエス・キリストの生涯を語って下さいと言われた。ただそれだけだったような気がする。
「何故、神学部を受験したのですか?」
「どうしてキリスト教に興味を持ったのですか?」
「入学してから学びたいことは何ですか?」
そういう質問に対する答えはきちんと用意していた。しかしそんな柔らかい問いかけは全くなかった。
「キリスト教を学ぶ下地はできているのでしょうね」と硬質な要求を突きつけられた。
聞きかじった話をくっつけたり、引き伸ばしたりして、どうにかイエスの誕生から復活までを話したつもりだったが、結果は不合格だった。
 
やはり生半可な決意で受け入れてもらえる世界ではなかった。
私はリベンジを決意し、一浪をして再びS大学を受験した。今度は神学部ではなく矛先を文学部史学科に替えた。
二次試験の面接では、昨年想定していた「入学してから何を学びたいか」が来た。
私は「島原の乱を研究したい」と宣言した。宗教一揆であり、農民一揆であり、関ヶ原の残党たちが起こした市民革命という3つの意味合いを持ったこの乱は、日本はもちろん世界でも稀有で、非常に興味深いと。
四郎に近づきたい一心だった。
結果は合格だった。
 
しかし困ったことに、その年は他の大学にも受かり、予備校のチューターに相談すると、S大ではなく、迷わずW大学へ行きなさいとすすめられた。
 
悩んだ末に私は先生の教えに従った。浪人生活を送るうちに、予備校の人たちが言うことを聞けば、願いが叶うという考えが、すっかり身体に叩き込まれていた。
確かにW大での4年間は楽しく、充実していた。一生の友だちもできた。
しかし、S大で島原の乱のことを研究していたら、どのような人生になっていたのだろうかと考えることがたまにある。
 
彼への愛を確信してから、四郎は一度も私の夢に現れない。具体的な顔かたちを知っているわけではないので、単に思い描けないだけかもしれない。また、大好きすぎて、夢に見られないのかもしれない。
 
大人になり、念願の島原・天草地方を旅した。初日に島原を訪ね、島原城を見学して、乱の舞台となった原城址へ行った。
城址というだけあって何もない。公園にすらなってない。石垣の上にただ、のっぱらが広がっているだけだ。うらぶれた看板、後世に付けられた大きな十字架、北村西望氏の天草四郎像などがあるばかり。夕方に訪れたため、散策する人影もない。断崖となる敷地の向こうには海が広がる。キリシタンの教えをもたらした南蛮世界に通じる海を、一揆に参加した人たちも眺めたと思うと、穏やかすぎる海が恨めしくなった。
 
翌日、フェリーで天草へ渡ることになっていた。朝から大雨の悪天候で、船が出ないかと心配したが、どうにか出港した。
空は墨色で見通しが悪い。航行中も雨が気になる。旅先で雨が降るのは、数年前に行った長崎の街なか以来。前川清氏も歌うように、長崎市だけは雨でもまあ仕方がないと思えるが、ここは同じ県内でも雨で有名とは言われていない土地だ。
胸騒ぎがする。
風が出て、波が高くなり、そのまま難破する……。そんな事態を予見させるような天候だ。海を渡るなということだろうか。天草は四郎の出身地だ。
S大に進学せず、他大へ行き、しかもキリスト教とは全く関係がない学問をした私に、彼とゆかりの深い地を踏む資格はないのだろうか。
彼を裏切り、転んだのは山田右衛門作ではなく、私だったのだろうか。
 
不安が増す中、船が熊本に近づくと雲は徐々に薄れた。上陸した時には雨はすっかりやみ、太陽まで射し始めた。光の中に四郎の生誕地はあった。
「ようこそ、やっと来たね」
そう言われたような気がした。
 
彼の命日である2月28日には、毎年黒い服を着る。彼を偲び、一揆勢の不遇を思って、喪に服したいからだ。子供じみているかもしれないが、きっと死ぬまで続けるだろう。

 
 
 
 

◽︎綾乃(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
旅と歴史が好きな広島生まれの東京在住者。
旅先での楽しみはおいしいごはんとキリシタン関係の痕跡を見つけること。最近のお気に入りは、富山県にある高岡古城公園の石垣。そこには「キリシタンに関係があるという説もある」文字や文様が刻まれている(単に石工がつけた目印の可能性もあるらしいけれど)。

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2020-03-30 | Posted in 週刊READING LIFE vol.73

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