週刊READING LIFE vol,101

子どものように無頓着ではいられない《週刊READING LIFE vol,101 子ども時代の大事件》


記事:記事:今村真緒(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
「大人しくしないと、刺すぞ」
突然、低いしゃがれ声が背後から響いた。
いつの間にか、後ろから両腕をがっしりと掴まれていた。
誰なのか顔が見えない。
痛い。
ギリギリと締め付ける力に、顔がゆがむ。
助けを呼ばなきゃ。
真っ白になった頭で、どうすればこの危機を回避できるのか考える。
とにかく相手に落ち着いてもらおう。
明るいところに行けば、顔を見られて逃げるかもしれない。
グッと腕を引かれたとき、男が持っていたものがキラリと光った。
ヤバい。何とかしなくては。
辺りを見回しても、もう真夜中過ぎということもあって、窓に明かりのある家が見当たらなかった。
助けを呼びたいのに、これじゃどうしようもない。
そもそも、声を失ったかのように、喉から空気の漏れるような声しか出ない。
 
「明るいところに、行きましょう」
震えながら、か細い声で絞り出した。
相手に聞こえたかは定かではないが、男を半ば引きずるように、電柱の明かりに向かって、しゃにむに進む。
掴まれている腕が、痛い。
でもこのまま暗いところに引きずり込まれたら、私は一巻の終わりだ。
必死に抗いながら、少しでも明るい方へ。
徐々に迫ってくる絶望と戦いながら、何とかこの場を切り抜けることしか頭になかった。
 
当時、私は大学生だった。
友人と遅くまで遊んだ帰り道だった。
終電に乗り、最終バスに飛び乗った。
バスの中には、酔い潰れたサラリーマンと思しき人や疲れて眠っている人たちがいた。
女性は、私のほかに見当たらなかった。
友人と楽しい時を過ごした私は上機嫌だった。
国道を走るバスから降りると、自宅までは10分ほど歩く。
勝手知ったる、いつもの道。
小声で、鼻歌交じりで歩いていく。
しんとした暗い道を、電柱についている小さな光を頼りに進む。
怖いもの知らずの私は、何の警戒もしていなかった。
今まで何も起こらなかったのだから、これからも起こるはずがないと固く信じていた。
世間知らずの私は、大学生とはいっても、危機意識の低さは幼い子供レベルだった。
のどかな田舎町で、怖い目に遭うはずがない。
こんな出来事、テレビドラマの中でしか見たことがなかった。
 
じりじりと光のほうへと必死に足掻いている間、ちらっと男の顔が見えた。
縮れた白髪交じりの頭に、すこし小太りの体格の男。
目が据わっている。
どこからつけてきたのだろう。
全く気付かなかった。
 
電灯のぼやけたオレンジ色の光だけが、頼りだった。
起きている人の気配は、相変わらず感じられなかった。
あまりの静けさに、耳鳴りのようなキーンという音が私の頭の中にこだましていた。
 
男が持っていた銀色の何かは、私には先の尖ったナイフのように見えた。
ここで、むざむざと乱暴されて殺られるわけにはいかない。
まだ、私にはこれからの未来がある。
大学を卒業し、就職して、結婚して。
子どもだって産みたい。
占いで長寿と言われたのに、ここで終わるわけがない。
 
きっと、これは悪い夢だ。
警戒心もなく調子に乗って、夜遅くまで出歩いているから、神様が私にお灸を据えているのに違いない。
ならば、ごめんなさい。
もっと、これからは気を付けます。
大人として分別を持って、身の危険が及ぶようなことはしません。
だから、お願い。
今回だけは、助けて。
どうか、私を救ってください!
私は心の中で、どこかで見ているであろう神様に必死に訴えていた。
何とかして電灯の明かりに進もうとする私と、それを阻止しようとする男。
やはり男性の力には、悔しいがかなわない。
懸命の抵抗も虚しく、私は、暗がりへと次第に引きずられようとしていた。
 
ああ、こんなことなら、もっと色んなことをやっておけば良かった。
後悔のような感情と、今までの自分がフラッシュバックした。
人は死ぬときに、走馬灯が過ぎるように自分の過去を振り返ると言うけれど、今がその時なのかもしれない。
死ぬのは、痛いのだろうか?
やっぱり、あの尖ったナイフで刺されてしまうのだろうか?
 
もう限界だった。
これ以上、男の力に逆らって踏ん張ることはできない。
まるで重たい骸のように、ズルズルと引きずられていく。
 
もう、駄目だ。
悔しいが、なす術がない。
万事、休す。
 
自然と涙が頬を伝っていた。
声が出ない代わりに、私の体は涙を流すことで無念を表していた。
 
観念し、打ちひしがれていたその時、離れたところで小さな白い光がピカッと瞬いた。
もう少しで、道の脇の茂みに連れ込まれそうになっていた。
男は、その光に一瞬反応した。
私の腕をきつく締め付けていた力が、わずかに緩くなった。
 
今だ!
私は、あらん限りの力を振り絞って、男の手を振りほどいた。
 
白い光は、こちらに速いスピードで近づいてくる。
私は、光に向かって、一心不乱に駆け出した。
体が動いたからか、自分でもびっくりするほどの大声が出た。
「助けて! 助けて!」
 
私の声に驚いたのか、近づいてくる光に驚いたのか、なんと男は踵を返して、反対方向へとダッシュで駆けていった。
 
助かった……。
遅いよ、神様。
間一髪で、間に合った。
体中の力が抜け、へなへなと倒れ込みそうになった。
 
神様が私に遣わしてくれた光は、車のライトだった。
車は近づいてきたのに、私に気づくことなく横を走り抜けていってしまった。
あれ? 今の場面、見えていなかったのかな?
あっさりと通り過ぎた車に拍子抜けしたが、おかげで命を救われた。
 
車が通り過ぎると、また静寂が戻ってきた。
男が再び追ってきては、大変だ。
私は、一目散に家に向かって駆け出した。
 
私の家もまた、真っ暗だった。
私の帰りが遅いのも気にせず、家族は寝てしまっていたようだった。
まさか娘がこんな目に遭っていようとは、夢にも思わないだろう。
 
急いで玄関の鍵を開けようとするが、手が震えて、なかなか鍵穴に鍵を差し込めなかった。
ガチャ、ガチャ、ガチャ。
何とか鍵を開けて、家の中に滑り込んだ。
内側からしっかりと鍵をかけ、のぞき穴から外を窺う。
5分くらい息を潜めて外の様子を観察していたが、どうやら男は追ってこなかったようだ。
玄関で靴を脱ぐことも忘れ、しばし私は座り込んでいた。
時計を見ると、午前1時を回っていた。
 
疲れた。途方もなく疲れた。
季節は秋だというのに、私はびっしょりと汗をかいていた。
このままでは、落ち着いて眠れない。
汗を流そうと風呂に入ったが、シャンプーをするために目を瞑ると、すぐ後ろにあの男の顔が迫ってきて恐ろしかった。
 
2階の自分の部屋で眠ることもできず、ついに私は父を起こした。
初めは寝ぼけ眼で話を聞いていた父も、私に降りかかった大事件に一気に眠気が吹き飛んだ様子だった。
 
間一髪で男から逃れたところまで話すと、父は大きなため息をついた。
女性が深夜に一人歩きをすることについて、懇懇と説教をされた。
もう大人だからと思って自主性に任せていたが、何かあってからでは取り返しのつかないことになるから、もっと早く帰宅するようにと、きつく諭された。
見かけは大人でも、リスク管理能力が子ども並みに低かった私には反論の余地はない。
言われなくても、リアルに十分すぎるほどのお灸を据えられた私は、これから夜遅く出歩くことが恐ろしくなった。
 
次の日、父と一緒に交番へ向かった。
昨夜起こった出来事を事細かく話すと、お巡りさんが重点的にあの場所をパトロールすると約束してくれた。
男の人相などを聞かれたが、チラッと見た男の顔や体格は、断片的にしか覚えていなかった。
特徴を詳しく伝えることができず落ち込む私に、お巡りさんは、気落ちしないよう慰めてくれた。
怖い思いをしている時に、細部まで観察することなど難しいと。
お巡りさんにも再び、深夜に一人で出歩かない様にと諭され、父と私は交番を後にした。
 
その後、しばらく私は悪夢にうなされた。
いつも暗闇から、あの男のものと思われる手が迫ってくる。
「やめて! やめて! 触らないで!」
大声を上げて、抵抗しているところで目が覚める。
悪夢を見ることは苦痛だったが、本当に襲われていたなら今頃私はどうなっていただろう?
 
女性が襲われたニュースを見ると、まるで自分のことのように胸が痛んだ。
どんなに怖かっただろう。どんなに辛かっただろう。
寸前で助かった私は、こうして日常を送ることができている。
 
その後、地元のスーパーで、あの男とよく似た人を見かけた。
あの男ではないかもしれない。
断片的にしか覚えていないはずなのに、私のセンサーは鋭く反応した。
 
瞬間、体が硬直した。
ドクン。ドクン。
心臓が激しく波打った。
男との距離は、2、3メートル。
私が凝視していたためか、男もこちらを見た。
 
この人、かもしれない。
直感でそう思った。
だが、証拠がない。
私のアラームが音を立てて知らせているのに、私は男を睨みつけるしかできなかった。
もし違っていたなら失礼な話だが、この時の私は自分の直感に抗えなかった。
 
あの男が、近くにいるかもしれない不安。
向こうだって、私の顔をしっかり覚えているかどうか分からない。
一方で、私はスーパーで見た男の全体像をしっかりと記憶した。
もし再び会ったなら、今度はスーパーで見た男かどうかは分かるくらいに。
 
本当は、記憶したくなかった。
掴まれたときの感覚や、嫌な冷や汗を思い出すからだ。
でも、再びどこかで同じ目に遭わないためには用心に越したことはない。
 
それからというもの、私は自分でもびっくりするくらい慎重になっていた。
まず、夜には出歩かない。
どうしても行かなければならないときは、誰かと二人で行動した。
バス停には、両親に迎えを頼んだ。もちろん早い時間に帰宅する。
 
一人暮らしをするようになると、カーテンは女性が住んでいると分からないような色柄のものにしたし、オートロックがついていても、必ず入口の周りに人影がいないか何度も確かめた。
 
夜道を一人で歩くときは、ちょっと気が触れた人のようにオーバーアクションしながら走って帰った。
何度も何度も、玄関の鍵が閉まっているか確かめた。
 
結婚してからは、夫が必ず迎えに来てくれた。
自分で車を運転するようになり、一人で夜道を歩くこともほぼない。
子どもが女の子だったこともあり、夫と私はどこに行くにも娘の送迎をする。
ちょっと過保護かもしれないが、我が家は田舎なので駅から自宅までの道が暗くて心配だ。
 
娘の危機意識は、同じ年頃だった私と比べればとても高い。
幼い頃から、一人娘を心配する父親と、怖い思いをした母親から、口を酸っぱくして諭されているからだ。
今では、私の方が娘に、もっと用心しなければとたしなめられるほどである。
 
私が未熟だった時代の、ドラマのような大事件。
リアルに体験したからこそ、分かったことがある。
 
何かあってからでは、手遅れ。
この言葉は、あの時から私の胸に深く刻まれた。
勿論、用心したからといっても避けられないこともあるが、無頓着ではいられない。
 
いざという時のための用心は、怠ってはならない。
いつ、どこで、誰かの身に、同じことが降りかかるのかも知れないのだから。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
今村真緒(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

福岡県出身。娘とワンコを溺愛する兼業主婦。
自分の想いを表現できるようになりたいと思ったことがきっかけで、2020年5月から天狼院書店のライティング・ゼミ受講。更にライティング力向上を目指すため、2020年9月よりREADING LIFE編集部ライターズ倶楽部参加。
興味のあることは、人間観察、ドキュメンタリー番組やクイズ番組を観ること。
人の心に寄り添えるような文章を書けるようになることが目標。

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2020-10-26 | Posted in 週刊READING LIFE vol,101

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