週刊READING LIFE vol,104

私が幽体離脱出来なかったわけ《週刊READING LIFE vol,104 私を支える1フレーズ》


記事:神谷玲衣(天狼院書店ライターズ倶楽部)
 
 
「えっ? 旦那?」
違うっ! 違うってば! こんな時に旦那なんて言うわけないじゃん!!
私は、心のなかで激しくツッコんだ。
 
渾身の力を振り絞り、もう一度喉から空気を出しながら音を出してみた。
「…タン……」
「えっ? 何?」
「タン……」
「ダン? あ、タン?」
やっと通じた嬉しさで、私は頭をブンブン振った……つもりだったが、それは気持ちの上だけで、実際には体中に鉛がまとわりついているみたいで、思ったように動くことが出来なかった。
 
私の頭は包帯でぐるぐる巻きになっていた。頭どころか、手にも包帯が巻かれ、色々な管が通されていた。
そこは病院のICUだった。私に「旦那?」と聞いたのは、私の手術に助手として参加してくれていた、30代そこそこの若い医師だった。
手術前に「麻酔のために喉から管を通すので、麻酔が覚めると喉が痛かったり、タンがからんだりするかもしれません。そんな時はすぐに言ってくださいね」と説明してくれたのは彼なのに、なぜ「旦那?」なんて聞くのだろう。
 
きっと、まだ結婚していないであろうその若い医師は、「大手術を終えた奥さんが、愛する旦那さんに会いたがっている」という美しいストーリーを想像したのかもしれない。彼の幻想を壊して申し訳ないが、私が死の淵に居たとしたら、一番最初に呼ぶのは、間違いなく夫ではなく、子供だ!
 
病気が発覚してから手術をするまで、2年半もあったので、覚悟はしっかりできていたし、執刀してくれた主治医からも充分に説明は受けて心の準備も出来ていた……はずだったのに、生まれてはじめて体中にたくさんの管をつけて、ICU(集中治療室)に寝かされている自分に、まだ現実味を感じられなかった。体は辛いのに、気持ちは「あ、なんかかなりヤバいかな。思ったより大変かも」と、ひとごとのようにぼんやりと感じていた。
 
私の体を数人の看護師さんが持ち上げて、担架からベッドに移してくれた。バタバタと忙しそうにたくさんの管の処置などを済ませてもらっている間もタンが絡んで苦しいので、再び医師に訴える。今度はすぐに理解してくれて、また処置をしてもらう。
 
「先生、ありがとう」と言いたいけれど、「タン」と一言いうのも必死だったくらい、頭も体も重くて言葉にならない。医師はそんな私を見つめて、「麻酔も覚めてきたし、少し落ち着いてきましたね。では、ご家族をお呼びしましょうか?」と言った。
 
私は今度こそ、少しだけ首を縦に振れたように思うが、医師にそう見えたかどうかはわからない。私の目を覗き込んで確認してから、彼はベッドを離れて夫と娘を呼びに行ってくれた。
 
娘と夫がベッドの足元にやってきた。当時小学校5年生だった娘は、気丈にも泣かずにいてくれたけれど、微妙な顔をしている。夫は娘の手前、いつも通りの平静を装った顔つきをしていた。その二人を見た途端、私は自分でも意外な言葉を口にしていた。
 
「幽体離脱…、出来なかった」
 
生死の境をさまようような体験をした人が幽体離脱をして、自分の体や周りの人達を上から眺めていた、などという話があると聞いたことがある。大手術を受けるので、もしかしたらという気持ちがあったのだが、私にはそんな不思議なことは起こらなかった。
 
あとになって「手術後の第一声があれには、さすがに驚いたな」と呆れられたが、私と長い付き合いの夫は、私がまだぼんやりとした感覚で発したそんな言葉も黙って受け止めてくれた。
娘は、私が言葉を発したことに安心したのか、そこで初めて「ママ〜!」と泣き出した。
そうだ、幽体離脱なんて言ってる場合じゃないんだ! 娘の声で、私は現実に引き戻された。
 
 
 
2016年、夫の転勤で住んでいたアメリカから帰国したものの、夫は単身赴任になり、娘と二人きりの田舎暮らしが始まった。引っ越しがやっと一段落したと思った頃、めまいが始まった。それまで本当に元気で大病もしたことがなかった私は、生まれて初めて経験するめまいの原因は、更年期障害だと思っていた。
 
色々な検査をしたり、薬を服用しても、めまいは一向に良くならなかったので、MRI検査を受けることになった。検査結果を告げる医師の声が、どこか遠いところの雑音のように感じたのだけはよく覚えている。
 
「脳腫瘍です」
 
ノウシュヨウ。病気のことに疎い私でも、さすがにその病名が深刻なものだとはわかった。
脳腫瘍って、死んじゃう病気だよね……。
 
それから、脳外科で有名な東京の病院に転院し、専門の医師の診断を仰ぐまでは、本当に生きた心地がしなかった。
精密検査を受けた結果、私の脳腫瘍は良性の髄膜腫(ずいまくしゅ)というもので、幸い何も影響のない部分にあるので、このまま大きくならなければ経過観察を続けるだけで良いとのことだった。悪性のものとは違い、命に関わるものではなかったのだ。
 
その診断の後、不思議なことに、それまで何をしても治らなかっためまいは、ピタっと治った。まるで、脳腫瘍を発見させるためだけに存在したかのようだった。
 
めまいもなくなり、髄膜腫の影響は何もなく、普通の生活が出来てはいたが、気持ちの上では孫悟空のような状態で、いつなんどき、頭の輪っかが閉まるかと、ドキドキしながら暮らしていた。
帰国した当時、小学校2年生だった娘は、文字通り私の生きる望みだった。
「ママ、宇宙一大好き!」娘はいつも笑顔で私にこう言ってくれた。
娘がそう言ってくれるたびに、
「何があっても、この子のために生きなければ!」と思った。
初めての田舎暮らしで、しかも病気を抱えての娘と二人だけの生活。そんな心細い私を支えてくれたのは、この娘の言葉だったのだ。
 
その後、半年に一回MRI検査を受ける生活が続いたが、2年経過したあたりから、髄膜腫が少しずつ大きくなりだしていた。
 
「これ以上大きくなると、顔の右半面が麻痺したり、右の聴覚が失われたりする可能性があります。そうなる前に手術をしたほうが良いでしょう」
そんな主治医の言葉で、発覚から2年半たった2018年に手術を受けることになったのだった。
 
 
 
「痛い!」 生まれて初めて頭痛の辛さを知って、思わず独り言をつぶやいてしまう。
手術してもう10日以上経つのに、まだ髄液の調節がうまくいかないらしい。脊髄に管を通して、髄液の量を計りながら過ごすという、予想もしなかった入院生活を送っている。
 
頭を水平よりも上にしていると、ズキズキと痛むのは、髄液の量のせいらしい。何ができるわけでもなく、ただただ痛みに耐えて寝ている私の目は、病室のテレビを見つめている。
テレビを見ているわけではなく、テレビに貼られた紙を見つめているのだ。
 
その病院は生のお花をお見舞いに持ち込むことが禁止されていたので、娘が
折り紙をちぎって貼り、お花を描いてくれた。
そこには、「ママ、早く元気になってね。ママ、宇宙一大好き」と書いてある。
 
あとどれだけこんな状態が続くのだろうか。我慢しきれない頭の痛みに、涙がポロポロ流れてくる。
泣いたって仕方がないのに、どうしても涙が止められない。
 
「どうしてこんなことになったんだろう。私が何か悪いことをしたっていうのだろうか?」
今までの人生を振り返り、我と我が身を反省したりもするが、それでも釈然としない思いを抱えて、今のこの状態を呪いたくもなるというものだった。
 
ベッドの上で頭を下にしてうずくまる私の目が、娘の書いた文字を捉えた。そのとたん、私の中で何かがはじけた。
「そうだ、私は宇宙一の存在なんだ! 私はどんなことをしても生きなきゃいけないんだ! 痛くたってなんだって、生きなきゃいけないんだ!」
 
どうやら娘の言葉は、私のシルバーコードだったようだ。
シルバーコードというのは、人間の体と魂を結ぶ紐のようなもので、それが切れかけると幽体離脱して、完全に切れるとあの世に行くらしい。
 
私は痛い頭を抱えて、何度も娘の言葉を繰り返した。
私が幽体離脱出来なかった理由が、その時わかった。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
神谷玲衣(天狼院書店ライターズ倶楽部)

イタリアでファッションバイヤーとして勤務。帰国後は、16年間、カラーコンサルティング、テーブルコーディネート、人材育成事業などの講師として、専門学校、大手企業、ホテルとフリーランス契約。日本で出産後、夫の転勤でドイツとアメリカで子育てをする。2020年9月から天狼院ライターズ倶楽部に参加。

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2020-11-17 | Posted in 週刊READING LIFE vol,104

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