「息子が死んでも責任を取らせないから校庭で遊ばせてほしい」先生へ母が告げたあの一言が私を今でも支えている《週刊READING LIFE vol,104 私を支える1フレーズ》
記事:すじこ(Reading life編集部ライターズ倶楽部)
「お母さん、行ってきます」
外で遊ぶことを覚えた小学4年の夏から実家を出る一昨年まで、母にこの言葉を何回口にしたのだろうか。
思い返せば、私は幼い時から外で遊ぶことが好きな少年だった。
よく自転車にまたがり、街中を駆け巡ったものである。
街を一つのサーキット上に見立てて、タイムアタックをしたり、友人と速さを競ったりと公道を我が物顔で爆走するまあまあ迷惑なガキであった。(と、自負はしている)
それだけ自転車に乗っている時間が楽しく感じたのは、恐らく乗れなかった時期が長かったからであろう。
私が自転車に初めて跨ったのは幼稚園ぐらいの時だった。
「ペダルを漕ぐと、動く」
その単純な動作に心を奪われた私は、心底自転車に夢中になった。
自転車を買い与えられた日からというもの毎週、公園に行きペダルを漕ぎまくった。
ただ漕ぐだけに飽き足らず、私は「速さ」を求め始めた。
「速いとなんかカッコイイ!」
そんな単純な理由で私は、とにかく、ペダルを漕ぎ続けた。
(どうやら「迷惑なガキ」の片鱗は幼少期の頃から見えていたようだ)
そんな自転車大好き少年だった私にある日転機が訪れる。
「もっと速く走りたいと思うか」
この父に一言が全ての始まりだった。
私は迷わず「うん」と目を輝かせながら、返事をした。
あの時私は何か勘違いをしていたと思う。
てっきり父は自転車にターボや、エンジンを搭載してくれるのだと胸を膨らませていた。
毎週「速さ」を求めることに鍛錬を重ねていた私の頑張りを見て自転車にエンジンを搭載することを認めてくださったのだと、漫画チックな妄想を抱き一人で興奮していた。
しかし現実はマンガのようにはいかない。
父はターボーもエンジンも搭載はしてくれない代わりに「補助輪を外す」というすごい現実的な提案をした。
エンジンを期待していた分、正直がっかりはしたものの今よりも速くなるなら、是非とも補助輪を外したいと思い父の提案を承諾した。
その日を境に私の自転車から補助輪が消えた。
「すぐ乗れるだろう」という気持ちで補助輪なしの自転車に跨りペダルを漕ぐが、どうにもうまく漕げない。バランスが取れないのだ。
「ペダルを漕げば、動く」
その単純な動作にバランスという動作が加わることでこんなにも自転車が複雑な乗り物になるとは。
練習を重ねたが乗れない。何度も転びながら練習を重ねたが乗れなかった。
それは恐らくメンタルだけではどうしても乗り越えられない特有の”壁”があったからではないかと思う。
私の足は一般的な男性よりも内股に変形しており、歩行も他人に比べ遅い。
それがいわゆる「身体障害」というものだと母から聞いたのは自転車から補助輪を取った数日後であった。
「障害のせいで自転車が乗れないこともある」
そんなことを伝えたかったのだろうか。
しかし「障害」があるという理屈より「自転車に乗りたい」という感情が先走りなんども練習を重ねた。そして補助輪を外して4年の月日が流れた。
正直、挫折し、自転車を乗らない時期もあったが「乗りたい」という気持ちは常にくすぶっていた。
「乗れたら楽しいだろうなー」と思う一方、周りの友人は乗れているのに自分だけ乗れないというのが恥ずかしくなり、自転車を使う外遊びから遠ざかった。
乗れたのはたまたまだった。たまたま友人が「抑えてやるから乗ってみろよ」と言ったことをきっかけに数年ぶりにペダルを漕ぐことになったのだ。
「きっと乗れないだろうな」という諦めモードでペダルを漕いだ。
すると、「あれ?意外と乗れる」という感触があった。
もちろん何度か転びもしたが、友人の助けもあり何とか操縦できるまでに成長した。
きっと、成長期だった甲斐もあって知らず知らずに自転車を操縦するのに必要な筋肉が付いていたのだろう。
「練習」、「成長」そして友人の「支援」のおかげで自転車に乗ることができた私が「チャリンコ族」になってしまうのは必然であった。
そしてあの言葉
「お母さん行ってきます」
を言う回数が増えたのだ。
母は、そんな私に「気おつけてね。行ってらっしゃい」と言葉をかけるだけで特に制限や門限を設けなかった。
「お前の母さん自由でいいな」
と友人に羨ましがられるほど自由な環境だった。
その自由に調子づいて自転車を漕ぎまくっていたある日、事件が起きる。
いつも通り公園で自転車レースをしていた際、「レースにリレー要素を取り入れよう」という話になった。
リレーのバトンを持ち、公園一周をし、バトンを次の人に渡すというものだ。
ちょっとした変化だが、画期的なアイデアだと思いすぐ行われた。
私は第一走者になった。スタートし、ペダルを漕ぐ。
スピードを出したいがバトンである木の棒を手に持ち片手放し運転のためなかなかスピードが出せなくライバルとの差は離れる一方。
最終コーナー曲がり、第二走者が見えた。
ライバルとの差はかなり開いている。ちょっとでも差を詰めようと私が考えたのが停止しないでバトンを渡すということだった。
第二走者を追い抜くようにしてバトンを渡せばスピードを殺さないで渡せると思ったのだ。
そんな雑技団みたいな技できるわけない。バカな考えだとは考えればわかること。
しかし、子供というのはバカな考えだということも気づかない。
唯一バカな考えだと理解できるのは痛みだけだ。(私の場合は)
自転車から身を乗り上げた私は、バランスを崩し転倒。
気づいた時は病院だった。
どうやら友人が母に連絡して、病院に搬送されたらしい。
幸い軽い脳震盪で済み大事には至らなかった。
それなりに怒られたがだからと言って自転車を取り上げたりはしなかった。
私も大事故でありながら「やっちまったな。次はちゃんと止まってバトンを渡すか」とまた馬鹿なことを考えていた。
そんな家族内では「かすり傷」レベルで笑い話していたが、なぜか学校は重大に受け止めいたらしい。
事故の次の日休み時間に私は担任から「お前は外で遊ぶな」と言われたのだ。
それは病み上がりの一時的なものではなく半年、1年レベルの話だった。
小学生にとって校庭で遊ぶ事を封印されるということは「死刑宣告」に近かった。
おそらく校内で同じような事故が起きたら困るという判断だろう。
しかし、私じゃなくっても事故を犯した奴なんてたくさんいる。
そいつらに「死刑宣告」がないのは不平等だ。
恐らくその不平等の背景にあるのは私が「障害児」であることが関与している。
「障害児」に怪我させたら監督不十分な印象を与えてしまうという大人的事情があったに違いない。
そのことを母に伝えたところ翌日学校に乗り込み、校長含め、担任と話し合いをした。
あの時何を話したのだろう。
私はおよそ21年ぶりにあの日の話をした。
結果として、「死刑宣告」は免れたが、母は学校側から侵奪な言葉を受けていた。
「学校として面倒を見きれない」や「自転車もやめさせてほしい」など。
でも母は頑なに拒否したと言う。
そして「息子が死んでも責任を取らせないから校庭で遊ばせてほしい」と頼んだようだ。
実は母は私が「行ってきます」と言うたび
「もしかしたら、これが最後の言葉になるかもしれない」
と思いながらの背中を見送っていたそうだ。
学校から「自転車を乗るのをやめてほしい」と言われても、
他の親御さんから「自由にさせすぎではないか」と心配されても、
「息子が死ぬかも知れない」と常に覚悟している母にとっては動じるに当たらない。
母は強い。
その母の覚悟のおかげで小学校を卒業するまで校庭で遊ぶことができ、自転車を取り上げられることもなかった。
「実家を出たい」
そう私が言ったあの日も母も動じることなく頷いた。
24歳の時だ。普通の男性が24歳になって実家を出るというのは特段珍しいことではないが、どうやら「障害者」である息子に一人暮らしをさせる親は少ないらしい。
やはり「心配」という親心が勝ってなかなか一人暮らしに賛成する方は少ないと障害を持つ友人から聞いた。
もちろん、「一人暮らしを賛成すること」が全て正義でもなければ、「悪」でもない。
当事者の障害度合いなどに合わせて慎重に決める必要がある。
ただ、私の場合は特段ためらうことなく実家を出た。
恐らく私の親はいつでも一人暮らしを容認するつもりだったのだと思う。
「息子が死んでも責任を取らせないから校庭で遊ばせてほしい」
そう学校に言ったあの日から。
「息子が死ぬかも知れない」と覚悟し始めたあの日から、私の一人暮らしは容認されていたのだ。
「息子が死んでも責任を取らせないから校庭で遊ばせてほしい」
この言葉が自然に出た母の元で育ったからこそ私は今自由に生きることができているのだ。
実家を出る日。
私は、言い慣れた「行ってきます」を言った。
母も言い慣れた「行ってらっしゃい」を言った。
聞き慣れた「行ってらっしゃい」
だがこの時はいつもと少し違った。
なんだか安心したような暖かさを感じた。
いつも「死ぬかも知れない」と思いながら見送った背が最後の最後で安心した表情で見送ってくれたのだ。
「心配しないでください。私は大丈夫です。あなたの子ですから」
そんな気持ちを込めて私はもう一度「行ってきます」と言い家を出た。
今でもあの母の安心した表情が私を支えている。
□ライターズプロフィール
すじこ(28)
東京出身
読者の気持ちに寄り添うライターになりたいと思い天狼院で修行中
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