やっぱり祭りはやめられない。《週刊READING LIFE 「祭り」》
2021/05/17/公開
記事:白銀肇(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
「君は、祭りが好きか?」
目の前で、お酒を飲みながら強面の人が、突然私に聞いてきた。
ひょっとすると、数年後には義理のお父さんとなるかもしれない人だ。
いまの家内と付き合いだして、初めて彼女の実家に訪れた日の夕食での会話だ。
家内は、高校卒業と同時に実家を離れ、ひとり暮らししていた。
結婚する、しない別にして、親には付き合っていること、どんな人と付き合っているか、ということをきちんと説明しておきたいから、という彼女の願いにもとづきこの日の運びとなった。
彼女の実家は花屋さんを営んでいる。
初めて彼女の父親に会ったとき、正直いってかなりビビった。
「花屋のご主人さん」らしかならぬ、細身で寡黙、そしてちょっと凄みがある雰囲気を持っている人だったからだ。
「若い時はケンカっ早かった」と、彼女がそんなことも言っていたことを思い出した。
「祭りを見たりするのは、好きです」
彼女の父からの質問に、答えた。
ずっと緊張しっぱなしで、気の利いたことばなど全く浮かばない。
そのままの思いついたことを口にするのが精一杯だった。
「いっぺん、ここの祭りに参加してみいひんか?」
「え?」
いきなりのことで、一瞬理解できなかった。
それまで生きていて、祭りに参加する、という体験などしたことなかった。
純粋に、生まれてから今まで住んできた街に、祭りというものが存在しなかったからだ。
祭りのイメージというのは、祇園祭や、時代祭り、といった有名どころの祭りを遠巻きから眺める程度だった。
家内の実家は、京都府北部にある宮津市というところにある。
宮津市では、毎年この時季、5月の中旬に「宮津祭」というものが開催される。
この祭りは、市内中心部に近い山王宮日吉神社と和貴宮神社の例祭であり、この二つのお宮を取り巻く町内が、3日間ほどかけて神輿を巡幸する。
そして、神輿の巡幸に合わせて、「神楽」の舞と、「浮太鼓」の演舞が執り行われる。
神輿が通る場所を、神楽組が先立って獅子舞でその露払いをし、神輿が通ったあとは屋台に載せた「浮太鼓」を華やかに叩き上げながら練り歩く。
各町内が、この「神楽」「神輿」「浮太鼓」という役割をそれぞれ担い、祭りの主体となる。
家内の実家は、和貴宮神社の近くに位置していた。
和貴宮のお祭りは、祭りを担うのが五つの町内となっている。
五つの町内のうち、三つの町内が「神楽」「神輿」「浮太鼓」を担い、それ以外の町内は空き番、つまりお休み、となる。
だから、祭りの役割当番は、神楽、神輿、浮太鼓、空き番、空き番、といったサイクルでまわる。
強面で、ひょっとすると義理のお父さんになるかもしれないその人は、この祭りに参加してみないか、と私に促してきたのだ。
ちょうど、こんどの祭りで、住んでいる町内が「神輿」の当番にあたる、という。
このお誘い受けたとき、自分の中に戸惑いがあった。
そもそも「祭りに参加する」という体験が全くないから、まずイメージができない。
聞くほどに、古くから由緒ある祭りのようだし、そんな場に自分のような部外者が参加してもいいのか、そもそもここの人たちに受け入れてもらえるのだろうか、といろんな懸念が思い浮かんだ。
「ワシはこの祭りが好きでなぁ。ホンマに楽しいんや。酒が入るとなおさらや」
私自身も、お酒も、飲みながらワイワイするのも好きなほうだ。
だから「祭りにお酒」ということばを聞き、ちょっとばかり好奇心が芽生えた。
「町内のみんなには、ちゃんとワシが話つけるさかい」
ここまで言われたら、もう断る理由がなくなってくる。
「参加します。よろしくお願いします」
そして、この瞬間から、いまに至るまでの約三十年間、私は宮津祭りに参加していくことになる。
ここの町内の人たちから受け入れてもらえるかどうか、などとは全く余計な懸念だった。
初めて地元町内の方々と顔を合わせたのは、「こぶしがため」と呼ばれる祭り前の会合だった。
祭りを無事成就させるために、文字通り参加者全員で結束しよう、と気持ち固める親睦会のようなもので、このときに、まるで町内の一員となったかのように歓待してもらった。
神輿だけに、少しでも担ぎ手が欲しいといったこともあっただろうが、予想以上の歓待ぶりだった。
「こぶしがため」には、ご年配の方から、子供まで集まっていた。
お酒も入ってこの場自体がすでにお祭り騒ぎの様相であったが、神輿を巡幸する順路の再確認や、それぞれの役割のこと、道具類の準備状況など、祭りに関わる会話が多かった。
由緒ある祭りを、楽しく、そして無事に滞りなく成し遂げようとする、ここの人たちの思いそのものが、地元の神様を慕い敬っている気持ちの表れのように感じた。
祭り当日、朝早くから白い着物に着替える。
肩にはタスキをかけ、頭には鉢巻きを締める。
足もとは、白い足袋と草履。
この姿になったとき、今まで味わったことがない高揚感を感じた。
神輿が待つお宮に行く前に、町内の集会所にみんなが集まり、祭りの無事を祈願して一斉に杯をあおる。
そして、お宮に向かう。
草履で地面を踏みしめいてくごとに、その高揚感はさらに増してくる。
お宮に行くと、神楽組、浮太鼓組を受け持つ町内の面々もあつまり、大勢がごった返している。
お宮の蔵に仕舞われている神輿を、みんなで引き出して本宮へと運ぶ。
本宮で神様に移乗してもらって、そして出立となるのだ。
「あのな、本宮で神様が乗る儀式を済ませるやろ。そすると神輿が一気に重たくなるねんで。今持っている重さと変わるさかい、ちょっと気をつけて意識してみ」
皆で神輿を担いで本宮にまで運んでいたとき、隣にいた私より少し上の青年役の人が、そう話をしてくれた。
「『神様はおる』、ってことや」と、ちょっと悪戯っぽく笑う。
まさか、と思った。
やがて、神輿に先立って巡路を露払いしていく神楽組が、獅子舞を奉納し、そしてお囃子を上げながらお宮を出発する。
そして、いよいよ神輿が出立する番だ。
神様を移乗する儀式を済ませたあと、神輿を本宮から出すため静かに神輿を持ち上げる。
このときはまだ担がない。
本宮から出たところで、一斉に担ぎ上げるのだ。
本宮から神輿を出そうと、持ち上げたそのとき、「えっ?」と思った。
さきほどの青年役の人が言った通り、運び入れたときと重さの感覚が全く違ったからだ。
本当に重たくなっているのだ。
「な、言った通りやったろ?」
私のわずかな反応を見て、青年役の人がそう言って笑った。
周りも同じ感覚を持ったようで、そのことを口々にしている。
全員が同じ体感しているのだから、私だけの気のせいとかではないのは間違いなさそうだ。
不思議なものだと思いながらも、「神様が乗っている」というリアリティも増し、興奮する思いだった。
そして、このことに興奮している自分もまた新鮮だった。
神輿が本宮から出切ったところで、神輿を先導役の人が高らかに声を張り上げる。
「エェッサァァ!!」
すでに神輿の担ぎ棒に肩を入れてしゃがんでいた担ぎ手全員が、その合図を待っていたかのように一斉に声を張り上げ立ち上がる。
「ホイサァァ!!」
肩には緩衝材となるクッションを乗せてはいるものの、担ぎ棒が肩に食い込んでいくのがわかる。
それを堪えて立ち上がったあと、祭りの出立を見物している人たちから一斉に拍手が湧き起こる。
おぉ、なんと気持ちいいのか。
高揚感の理由がわかった。
これだ。
自分は、祭りを盛り上げる演者であり、そして注目されている立ち位置にいる、というところからきているのだ、と思った。
自分は、いま注目されている、そしてパフォーマーなのだ、と。
実際に、汗びっしょりで、肩は痛く、体がヘロヘロになりながらも、いく道ごとに声援と拍手が湧き起こると高揚感と力が湧いてくる。
パフォーマーとしてきっちり見せよう、などと自分の姿に酔いしれている。
ある意味、ナルシストだ。
しかし、祭りに参加する楽しさ、醍醐味というのはここにあるのだ、と実感した。
この翌年に、引き続いて浮太鼓を体験することになるのだが、さらにこの気持ちがわかった。
浮太鼓というのは、太鼓を屋台に積み、神輿のあとを盛り上げるように太鼓を打ち上げていく。
叩くフレーズは決まっているのだが、その叩き方をいかに「魅せる」か、話題はそこにつきる。
「魅せる」演出のために、その叩き方に個性をだしたり、派手な襦袢を着込んだりもする。
それぞれが、自分を開放しパフォーマーとなることに熱中していくのだ。
老若男女問わず、みなが平等にパフォーマートになれる場、それが祭りでもあるのだ。
いまでこそモノも豊富にあり、エンターテイメントもいろんなバリエーションがあるけど、はるか昔の何もなかった時代での祭りというのは、最高のエンターテイメントでもあったのだろうな、と感じた。
祭りで神様を崇め敬うと同時に、その存在を身近に感じ、身近に感じる喜びをお祝いするかのように騒ぎ、飲み、食いながら、その場で自らのパフォーマンスを披露する。
そこにあるのは「悦び」だ。
おそらく、時代は違えども、祭りを支える人たちの「悦び」は変わらないのかもしれない。
「悦び」を皆で分かち合い、共感するから、個性バラバラでもまるでパズルピースが噛み合うような一体感が生まれてくる。
神様をただ奉り敬っているだけでなく、そのお膝下で、そこに暮らす人々が自らを開放する悦びがあるから、祭りとしての伝統が受け継がれていくのかもしれない、と祭りに参加したことで、そんなことも感じた。
実際に、私自身がこの高揚感、一体感を忘れることができず、その後も三十年間に渡ってこの祭りに参加していくわけだから。
祭りの最終日、お宮での最後の奉納を終えた瞬間、事故もなく無事に終わった安堵感、疲労からの解放感、そしてその次に襲ってくるのは、容赦のない寂寥感だ。
ただ、祭りは毎年ある。
翌年の祭りに思いを馳せて、普段の日常を頑張ろう、と思うこともできる。
実際に、翌年の役割はどのようにしようか、どう盛り上げようか、と地元町内の人たちは、もうそんな会話もしだすのだ。
そんな話を耳にすると、この祭りは、本当に地元の人たちの心の拠り所なっているのだな、と思う。
このコロナ禍で、残念ながら昨年の祭りは中止だった。
おそらく、この調子であれば今年も中止だろう。
「祭りをオンライン」で、できるわけがないし、こればかりはどうしようもない。
我が町内の役割が「浮太鼓」あっただけに、止むを得ないと思いつつも残念な気持ちは否めない。
おそらく、地元の人たちはもっとそう思っているだろう。
人との繋がりの基本は、今風で表現すれば「オフ」なのかな、と素直に思う。
オンラインの利便性や恩恵も確かに大きい。
でも、そればかりでは、やはり味気はなくなるように感じる。
身近に触れ合って、お互いの感覚を刺激し合うということが、人間である以上、やはり必要なような気がする。
それは、人同士だけでなく、自然との触れ合い、という点でもだ。
リアルな触れ合いとその刺激のなかで、生まれ持っている感覚や感性が磨かれていくものではないかとも思うのだ。
初めて祭りに参加し、魅了された高揚感、一体感は、そんなリアルな触れ合いの際たる体験だ。
三十年前から、自分の中で、五月といえば「祭り」だ。
それだけに、五月に入りながらも、どうやら今年も祭りがなさそうだ、という事実は、祭りへのいろんな思いを深める。
かといって、いつまでも残念がっても仕方がない。
必ず祭りはいつかきっと始まる、と信じている。
それこそ、いつでも祭りに参加できるぞ、という気持ちで体力と気力を前向きにシフトさせて日々を過ごすのだ。
□ライターズプロフィール
白銀肇(READING LIFE編集部ライターズ俱楽部)
京都府在住。
2020年6月末で29年間の会社生活にひと区切りうち、次の生き方を探っている。
ひとつ分かったことは、それまでの反動からか、ただ生活のためだけにどこかの会社に再度勤めようという気持ちにはなれないこと。次を生きるなら、本当に自分のやりがいを感じるもので生きていきたい、と夢みて、自らの天命を知ろうと模索している50代男子。
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