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週刊READING LIFE Vol,95

戦うべきこと、逃げるべきこと《週刊READING LIFE vol,95 「逃げる、ということ」》


記事:東ゆか(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
「仕事行かなくて良いの?」
朝8時半。シングルベッドの隣でゴロゴロしている男に尋ねられた。
「いいの。今日は休むの。会社にメールした」
「………………」
 
その前夜、知り合ったばかりのよく知らない男の家で飲んでいたら、気づけば終電が終わっていたため、その男の家で寝かせてもらった。
始発で帰ればいったん自宅に戻って、シャワーを浴びて化粧をして会社へ行くことができたが、それもめんどさく、まだ他人の家にいるのに始業まで30分を切っていた。
 
よく知らない男に三軒茶屋の駅まで送ってもらい、べとべとの身体のまま自宅へ帰った。その日は昼過ぎまでぐーぐーと寝た。
 
「昨日はありがとうございました」と男にLINEを送ったが、夕方過ぎに目を覚ましたときには返事はおろか、既読もついていなかった。
代わりに職場の上司から体調を気遣うLINEが来ていたが、既読だけ付けてそのまま放置した。
 
翌朝、目を覚ましたと同時に「今日も会社に行きたくない」と思った。
電話連絡だと、口頭で休むことを伝えないといけなので気まずさがあるが、メールだと罪悪感が軽減される。昨日送ったメールに「連日申し訳ありません」とだけ付け足し、送信してまた寝た。
 
その翌日も、翌々日も会社を休んだ。ただ、上司は何かを察したのか、今度はLINEをよこさなかった。

 

 

 

私は当時、派遣社員として働いていた。
詳細は伏せるが、私が派遣されていた企業は、社会的にとても意義のある大きな法人の下請けをしていた。「意義がある」というのは経済界の中でということではなくて、日本の文化や学問や人材の育成にとって意義があるという意味だ。
 
社内の雰囲気は穏やかだった。
上部法人の安定した財政の中から、安定して仕事が生まれてくる。競合他社との顧客の奪い合いや、業務上の無理難題を押し付けられているようなことも、派遣社員の私の目から見た限りなさそうだった。
 
派遣社員だから息を殺して静かにしている必要もなく、隣の席の上司からはよく話しかけられた。
趣味の料理教室や手芸教室といったプライベートの話をよく聞かせてくれたし、会社の愚痴を聞かされることも多かった。どんな会社にいようとも会社や同僚に対しての愚痴の一つや二つは生まれるものだ。本来なら派遣社員に愚痴をこぼすことなんて憚られそうだが、それだけ心を許されているんだと受け止め、親身にうんうんうなずき、気の利いた相槌やコメントをすることを心がけた。
 
私の担当していた業務は、その企業では珍しく関連法人からではない、外部企業から請け負った案件だった。
詳しい内容は割愛するが、必要に応じて調査をしたり、複数の企業や個人とやりとりをする業務だった。レアな外部案件だったため、チャレンジングな取り組みとして社内ではほんのり注目されていたらしい。
「それなら期待を2倍にして返すぞ!」と意気込んで業務に励んでいた。
 
先方から送られてきた案件の中には綿密な調査が必要なものがあった。ネットや図書館の資料検索で探してもどうしても見つけられないものもあり、何度も図書館に足を運んでは手掛かりになりそうな資料を探した。関連がありそうとあらば、本もまるまる1冊に目を通した。
 
「無理のない範囲でいいから」
と上司に言われた案件も、多少の無理をして資料を揃えた。
そのことを誇らしげに上司に報告すると
「そう」とだけ言われた。
予想外の薄い反応にびっくりしたが、私はもっと頑張らないといけないんだと、さらに根を詰めて業務に励むようになった。
 
就業から1年を過ぎたあたりから、トイレに行くたびにお腹を下すようになっていった。お腹が痛くなるわけではないので、あまり気にも留めなかった。
 
真面目に働いていれば、ここで正社員として雇ってもらえるのではないかと希望を抱いていた。
私の上司も同じチームにいた社員も、元は派遣上がりだということを聞いたからだ。社員になるためにはもっと業務に積極的に取り組んで、期待を2倍にして返そうとずっと思っていた。
 
ぷっつりと糸が切れたのは、年度が変わりが間近に控えた2月の終わりの金曜日だった。
 
私の担当業務の契約継続のために、上司が先方の企業へ出向くことになっていた。チームメンバーに一声かけて外出する上司を見て、同じチームの女性社員が屈託のない笑顔で私にこう言った。
「彼女には頑張ってもらわないとね! 東さんの運命がかかっていますもんね!」
 
彼女に悪気はなかったのだと思う。しかしそのとき自分の心がひどく傷付いたのが分かった。
どんなに頑張っても、業務がなくなれば私はただ単に首を切られるだけなのだ。周りもそんなふうに私のことを見ているんだということを思い知って、その後にはふつふつと怒りが湧いてくるのを感じた。
「人の気も知らないで」
という言葉を飲み込んで「ははは。そうですね」と、へらへらと笑った。
 
その日の夜に、なんとなく登録したマッチングアプリで知り合った男と意気投合した。
日曜の夜に飲みに行って、そのまま月曜の朝を迎えた。
男の仕事は楽しそうだった。ゲームの開発をしているらしく、少数精鋭の仲の良いメンバーで一緒に働いているらしい。海外からスカウトしたクリエイターのキャラクターデザインが好評で、今後伸び代のあるベンチャー企業だった。
 
目が輝かせて仕事の話をしてる彼の表情から、仕事にやりがいを感じて楽しんでいるということが伝わってきた。
「君はどんな仕事をしてるの?」
と聞かれて、私は一瞬返答に詰まった。笑顔で説明できない自分がいたからだ。
「ほんとにつまらない仕事なんです」
それが私の本音だった。

 

 

 

3日会社を休んだ後に、派遣会社へ仕事を辞めたい旨を電話で伝えて、あっさりと仕事を辞めた。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
と派遣会社の担当者へ詫び、スマホをほっぽり投げてベッドへ潜り込んだ。
「あぁ、私は逃げたんだな」
とだけ思った。
私が担当していた仕事はそのまま上司に引き継がれることになるのだが、あれだけ責任感を持っていたはずなのに、途中でほっぽり出したことに対して不思議となんの罪悪感も沸かなかった。
 
それから1週間はなんとなく気分が晴れず、ベッドから起き上がることができなかった。
毎日鬱々としていることに嫌気がさしたので元気が出る方法をネットで探したら、「元気が出ないときは『どうぶつの森』で遊ぶと良い」という記事を見かけた。普段ゲームなんて滅多にしないが、スマホにアプリをダウンロードした。
 
スマホ版『どうぶつの森』(通称『ポケ森』)は、自分のキャンプ場を作り、そこに動物たちを住まわせながらキャンプ場の設備を充実させるというゲームだ。
キャンプ場に動物を呼ぶには、まず動物と仲良くならなければならない。仲良くなるためには動物たちが所望している果物やら魚やら虫やらを採ってきて、動物にあげるのだ。
 
これだけ聞くと少々味気のなさそうなゲームだが、何日も気分が晴れていない私にとっては格好の癒しになった。丸みを帯びた造形と、ポップな色使いのゲームの世界の中で、もくもくと果物や虫や魚を集める単純作業は、塞ぎ込みがちな心を無心にさせてくれた。
さらには集めたアイテムを動物たちににあげるととても喜ばれ、「ありがとう!」とお礼を言ってもらるのだ。『ポケ森』のキャラクターたちの動きは可愛らしい。嬉しいときには体を震わせて喜びを表現してくれる。
キャンプ場に招待した動物たちからは「おいら、こんなに素敵なキャンプ場に住まわせてもらって幸せだよ〜」と喜んでもらえる。
ほのぼのとした絵柄と、動物たちが幸せに暮らす姿に癒されながらだんだんと元気になっていくにつれて、「私はもうあの会社に行かなくていいんだ」と清々とした。
 
元気になると、本心ではずっと職場のことを嫌っていた自分がいたことに気がついた。
 
会社の空気は「穏やか」なのではない。裁量の全てを上位組織である法人に握られているから、単純に社員のやる気と活気がないだけだった。
 
上司の話を聞くことも本当は嫌だった。
趣味の話の中に登場する料理教室や手芸教室の内職を、彼女が就業中にしていることを知っていた。朝から調べ物に奔走している隣で、そんなことを堂々とするなんて、オープンな人だと受け止めるようにしていたが、単純に私が舐められているだけだったのだ。
職場や同僚に対する愚痴も聞きたくなかった。他人の悪口を延々と聞かされるのはしんどかった。上司の被害妄想ではないかと思っても、派遣社員という立場上、意見をしないほうが良いに決まっている。言いたいことを我慢するのもストレスだった。
熱心に聞いているそぶりを見せていたが、内心「早く終わらないかな」と思っていた。気の利いた相槌も、なるべく早く上司が不満をぶちまけ終わって、スッキリして話を切り上げてくれるように誘導するためにしていた。
 
どんなに収集が難しい資料を見つけても、誰からも何も褒めてもらえなかった。
「こんなに大変なことをしているのに、どうして誰も労ったりしてくれないんだろう」
と、自分のやっていることの価値が分からなくなっていった。
 
私の自己評価ばかりが高くて、上司から見ればそうではないのかと思ったが、派遣会社の担当者からは「上司さんが『よくやってくれている』と褒めてましたよ」というコメントをもらっていた。私の働きぶりが悪いのかといえばそうではないらしい。
それならばと50円の時給アップを何回も要望したが、「それとこれとは別」とばかりに受け入れられることはなかった。
「社内で注目されているチャレンジングな業務」なのに、給与交渉も受け入れられないのは不満だった。期待を2倍にして返すなんて意気込んでいたことが馬鹿らしい。
 
ずっとお腹を下していたのも、今から考えればストレスからくる過敏性腸症候群なのではないのだろうか。仕事を辞めた途端にお腹の調子は良くなった。
 
昔から自分が無理をしていることに気がつくのが苦手だ。
何か違和感を感じても、それを嫌だと思っていることに気がつくことができない。自分の気持ちと上手に向き合える人は、苦手な環境や人間とはうまく距離を置いて防御することができるのだが、私にはそれができない。嫌なことをうまく自覚することができないから、自分への防御ができずに最後に爆発してしまう。
足が痛くなる靴を履いているのに痛みに気がつかないから、いつの間にか足が動かなくなってしまい、慌てて靴を脱ぎ捨てるようなものだ。途中で靴を履き替えたり、靴下や絆創膏で痛みを緩和させたり、手当てをすることができないのだ。
 
一緒に飲んだ楽しそうに仕事の話をするよく知らない男から
「どんな仕事をしているの?」
と聞かれたときに、私は少しだけ自分の置かれている環境や、仕事を外側から捉えようとした。そのときに初めて「私のしている仕事はつまらないんだ」ということに気が付くことができた。
 
「過労死するぐらいなら仕事を辞めればいいのに」という意見を耳にすることがあるが、その環境に身を置いていると、自分がいかにおかしな場所にいるかが分からなくなってしまうのだ。
無理をし過ぎることで心が麻痺して、環境が自分に合っているのかいないかを判断する感度が鈍ってしまうのだ。私もきっとそんな状況に近かったのだろう。
 
本当はファーストインプレッションで「嫌だ」と思っているはずなのだ。でも「嫌じゃない。心の持ち方ひとつで嫌じゃなくなるはずだ」と言い聞かせて順応しようとしていた。
「ちょっと嫌かも」を感じたら逃げるべきだったのだ。それは物理的な逃げでも良いし、心理的な逃げでも良かった。
 
しかし「逃げてばかりでは良くない」ということもよく言われる。でもきっと、本当に逃げずに向き合ったり戦わないといけないことに対しては、自分でもそう気づくはずだ。もしくは一旦は逃げたとしてもいつまでも追いかけてこられて、遅かれ早かれ決戦を迫られる状況に陥るはずだ。そんなときに初めて戦って勝つなり負けるなりすればいいのではないかと思う。向き合ったり戦いたくないと思ったら逃げるが勝ちである。
私にとってかつていた職場は、あのときに逃げ出して正解だったと今でも思う。不快だったあの場所で、向き合ったり戦ったりすべきことは何一つなかったと思う。
 
「昨日はありがとうございました」
と、よく知らない男に送ったLINEが既読にならないのは、彼の上手い「逃げ」である。
「仕事がつまらなさそうで、当日の朝になって仮病を使って欠勤の連絡をしてる女なんて、社会人として魅力的じゃない。しかも酔っ払って自宅にやってきたのに、何もさせてくれない女を相手にしている時間なんてあるか」という彼の賢明な判断である。
 
一度逃げたことで、心の「嫌だ」センサーがちょっと敏感になった。落ち込んだときには「どうぶつの森」がてきめんな効果を示すことも分かった。
これからは「嫌だ」の指示に従って、上手に嫌なことから逃げていきたいと思う。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
東ゆか(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

湘南生まれの長野育ち。音楽大学を声楽専攻で卒業。フランスが大好き。書店アルバイト、美術館の受付、保育園の先生、ネットワークビジネスのカスタマーサポート、スタートアップ企業OL等を経て現在はフリーとして独立を模索中。

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2020-09-07 | Posted in 週刊READING LIFE Vol,95

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