週刊READING LIFE Vol,97

あなたに時給30万円の報酬をプレゼントしてくれるかもしれない、48歳の男の秘密とは? 《週刊 READING LIFE vol,97「また、お前か!」》


記事:タカシクワハタ(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
もし、「時給30万円の仕事がある」と言われたらあなたは引き受けるだろうか?
「えっ」と思うだろう。
「きっと何か特殊な技能が必要な仕事なんだろう」とか「ひょっとしたらとてつもなく危険な仕事なのかもしれない」と思うかもしれない。
しかし、全くそのような心配はない。
20歳以上であれば、経験、資格などは一切不問だ。
危険なことも全くない。それどころか家で寝ててもらっても構わない。そんな仕事だ。
ますます怪しく感じてきただろうか。一体どんな仕事なのか、早く教えて欲しいだって?
わかった。教えよう。
その仕事の名前は「競馬」だ。
いや、ちょっと待ってくれ。「なんだよ」と言いたくなる気持ちはわかる。
だが、話を最後まで聞いてくれ。
少し話が飛躍していたようだ。あなたに課せられたミッションは
「万馬券を当てること」だ。
 
「万馬券」とは何か? ご存じない方がいるかもしれない。
万馬券とは配当が100倍以上の馬券のことだ。例えば100円の馬券を買ったとすると配当が1万円になる。そのことから俗に「万馬券」と言われている。
競馬の1レースにかかる時間が大体平均2分程度としよう。
時給換算だと1万円x60/2=30万円だ。
だから時給換算30万円の仕事なのだ。
8時間勤務だとすると日給240万、それを20日で月給4800万、✖︎12カ月で年俸5億8000万円だ。ちょっとした大リーガー並みの給料となる。夢のある話ではないか。
当然ながら万馬券を当てるのは簡単なことではない。
競馬の配当は、買っている人が多ければ多いほど低くなる。言い方を変えるならば、勝つ確率が高いと思われている馬であればあるほど配当が低くなるということだ。つまり、勝つ確率が低いと思われている馬が勝ってしまうレースを当てなければならない。
当然ながら万馬券はそう何度もお目にかかれるものではない。
だから当てるのが難しいのだ。
「そんなものどうやって当てればいいんだよ」
確かにそう思うのもごもっともだ。私も30年以上競馬を見ているが、万馬券を当てたことはほとんどない。
ただ、一つだけ万馬券が高い確率で出る条件は知っている。
今回はその方法をお教えしたい。
万馬券が出やすい条件は、次の3つが重なったときだ。
1つは中山競馬場で開催されていることだ。
中山競馬場は右回りで一周2000メートル弱の非常に小回りのコースだ。
その上直線の最後に急坂が控えている非常に特殊なコースのため、紛れが生じやすいと言われている。
2つ目は不良馬場であることだ。
不良馬場、つまり雨が降ってコースがぬかるんだ状態のことだ。
これは想像してもらえればわかることだろうが、当然このような状態は走りにくいしストレスもかかる。いつもの実力が発揮できない馬も多いはずだ。
そして、3つ目。実はこれが最も重要なファクターだ。
それは騎手だ。
ある騎手が乗っている馬を探して欲しい。
もしその騎手が乗っていて、しかもその馬が人気がないようであったらチャンスだ。
「いや、その騎手は誰なんだよ」だって?
わかった。教えよう。
その騎手の名は江田照男という。
今年48歳のベテランジョッキーだ。
彼は、年間10から20ほどの勝ち星を挙げている。
これがどのくらいなのかと言われると、失礼ながら
「多くはないけど、全く勝てないというわけでもない」
という比較的地味な成績の騎手だ。
しかし、彼は類稀なる天賦の才能を持っている。
それは、
「全く人気のない馬を勝たせる能力」だ。
つまり彼こそ「万馬券の申し子」なのだ。
 
江田照男がデビューしたのはもう30年も昔になる。
小柄で少年のような風貌の江田であったが、
デビューしてからまもなく勝ち星を挙げるなど、
騎手生活は上々のスタートを切っていた。
その頃はあの武豊騎手を筆頭に、松永幹夫騎手、柴田善臣騎手、横山典弘騎手など
若手騎手の台頭が著しく、江田も彼らに続く存在として大きな期待がかけられるようになっていた。
そんな中、彼にスポットライトが当たる日がきた。
8月最終週にある重賞レース「新潟記念」で、彼は勝利してしまうのだ。
新人ジョッキーがその年に重賞レースを勝つというのは快挙である。
事実、その次の日には「新人騎手として史上最速(当時)の重賞勝利」と
話題になり、江田が騎手界のホープとして将来が約束された日でもあった。
しかし、この勝利に彼の「別の才能」が発揮されていたことに気づく人は当時ほとんどいなかった。
このレースを勝った馬というのはサファリオリーブという7歳の牝馬である。
7歳というと人間で言えば30代中盤、もうそろそろ引退してお母さんになろうかという年頃である。しかも最近のレースが不振でもあったため、全く人気がなかったのだ。
そんな馬を江田は勝たせてしまったのだ。
16頭中最低の16番人気、オッズは100倍を超えていた。「万馬券」だ。
つまりすでにこの頃から「万馬券の申し子」としての片鱗を見せていたのだ。
 
「江田は何か不思議な力を持っている」
そういった声が聞こえるようになってきたのは次の年の秋、天皇賞という大レースでのことであった。
この年の天皇賞はメジロマックイーンという馬が圧倒的な人気を誇っており、どの馬が勝つのかというよりはメジロマックイーンがどれだけ引き離して勝つのかに注目が集まっていた。
一方この時、江田にも大きなチャンスが巡ってきた。
対抗馬として挙げられていたのはここまで4連勝中のプレクラスニーという馬で、メジロマックイーンと初対決ということからも大きな期待がかけられていた。
そしてこのプレクラスニーの騎手としてデビュー2年目の若武者、江田照男が抜擢されたのだ。
レース当日の東京競馬場はあいにくの雨、芝コースには冠水し、いかにも走りにくそうな不良馬場であった。レースが始まっても、少し靄がかかって馬群がよく見えない。ようやく馬群が見えると、白い馬体のプレクラスニーが先頭に立ち、後続の馬群を先導しているのがわかった。そしてメジロマックイーンとホワイトストーンがプレクラスニーのすぐ後ろに位置しており、白い馬3頭がレースを引っ張っている形となった。やがて馬群が4コーナー手前の大欅の木を通過すると、するするとメジロマックイーンが動き出した。プレクラスニーも懸命についていこうとしている。
そして直線コースに入った。
メジロマックイーンは騎手の武豊がゴーサインを出すと、あっという間にプレクラスニーを交わし、ぐんぐん後続を引き離しにかかった。ぬかるんでいるはずの馬場をただ一頭だけすいすいと涼しい顔で走っている。一方のプレクラスニーもなんとかメジロマックイーンに食い下がろうとしている。江田照男が小さな全身を懸命に動かしてなんとかパートナーを鼓舞する。しかし、その思いとは裏腹にメジロマックイーンとの差はどんどん広がっていく。
そして、メジロマックイーンが後続を6馬身引き離したところがゴールであった。6馬身というのは馬が6頭分の差であって、時間にすると約1秒の大差だ。そしてプレクラスニーは、後方から懸命に追ってきたカリブソングをわずかに振り切りなんとか2着を確保した。
メジロマックイーンの大圧勝劇でこの天皇賞は幕を閉じた、誰もがそう思っていた。
おや、と思った。
勝ったはずの武豊騎手がなぜかガッツポーズをしていない。むしろ何かうなだれたような感じで引き上げてくる。
ふと電光掲示板の方を見ると「審議」の赤ランプがついていた。
審議というのはレース中に何か事故や違反があった可能性があることを示している。
見ている感じでは特に何かあったように思えなかったのだが、見えないところで何かあったのだろうか?
そして数分後、電光掲示板に上がっていた着順掲示がふっと消えた。
「只今の審議について、お知らせいたします」
無機質な声の場内放送に、競馬場全体がしんと静まる。
「スタート直後の出来事につきまして審議をいたしましたところ、一着入線の13番メジロマックイーン号が外に斜行し、複数の馬の進路を妨害しておりましたため、18着へと降着とし、2着以降の着順を繰り上げといたします」
なんということだ。圧勝していたはずのメジロマックイーンが降着、そして繰り上がりで江田照男のプレクラスニーが優勝となったのだ。
表彰式に現れた19歳の少年、江田照男はどこかバツの悪そうな顔をしていた。しかし、この瞬間、競馬場にいた誰もが予感したかもしれない。
「雨の日の江田は何かを起こす」と。
 
その予感は計らずとも現実となった。
江田はその後、数年間スランプに陥るも、時折超特大のホームランを放って存在感を誇示した。
例えば、1998年の日経賞では倍率300倍を超える大穴馬であるテンジンショウグンを勝利に導き我々を唖然とさせた。さらには「中山、雨、江田」の三条件が全て揃った2008年のスプリンターズステークスという大レースでも16頭中最低人気で倍率225倍のダイタクヤマトという馬を優勝させている。そしてやはり「中山、雨、江田」の三条件が全て揃っていた2012年の日経賞でも、ネコパンチという名前からしてあまり強くなさそうな馬を勝たせてしまったのだ。
「また江田か」「また江田だ」
江田が大穴を開けるたびに、観客からはそんな呟きが聞こえるようになった。
30年間の騎手生活の中で、江田は「期待の星」から「稀代の穴男」へと変貌していったのだ。
 
これだけ何度も大穴を開けるということは、彼の乗る馬は人気がないということである。
面白いデータがある。
ここ1年間で彼は532レースに騎乗している。
そのうち約半分の260レースで10番人気以下の馬に乗っている。
ちなみに昨年の最多勝ジョッキーのルメール騎手は700レース以上に乗って10番人気以下はゼロ、第2位の川田騎手も700レース以上乗って、10番人気以下は2回しかない。
この数がどれだけ驚異的かわかっていただけただろうか。
それにしても、不思議ではないだろうか。
なぜ、彼の乗る馬は人気がないのだろうか。
技術がないわけではない。
むしろ誰もが勝てると思っていない馬を勝たせるのだから
相当の技術を持っているはずである。
それには理由がある。
彼はある雑誌のインタビューでこう述べていた。
「いや、どんな時でも何かあるんじゃないかなって思って乗ってるだけですよ」
「馬は数乗らなければうまくならないよ、とデビュー当時に田子先生がたくさんの馬に乗せてくれたのにはとても助けられました」
彼は、デビュー時の師匠にたくさんの馬に乗せてもらえた。そのおかげで1年目から重賞も勝てたし、2年目でGⅠを勝つこともできた。何よりも、「万馬券の申し子」という才能を見つけることもできた。
その恩義もあるのだろう。彼くらいの腕があれば、勝てそうな馬を選ぶこともできるのに、彼はどんな馬の騎乗依頼も断らない。人気があろうがなかろうが、場所がどこであろうが乗りに行く。そして、必ずベストを尽くしその馬を勝たせに行く。その姿勢が、彼をここまで支えてきたし、数多くの万馬券を産み出してきたのだ。
 
彼は冬のどんな寒い朝でもピンク色の半袖シャツを着て調教に臨んでいる。
きっと彼の溢れ出る情熱のおかげで、寒さを忘れてしまうのだろう。
あなたに時給30万円の仕事をお約束するこの男は、どこまでも義理堅い男でそしてどこまでも諦めない男なのだ。それだけでもこの男に賭ける意味があるではないか。
いつまでも情熱を燃やし続けるピンクのおじさんは、またいつかきっと僕らを驚かせてくれるに違いない。
その時は、ぜひ彼の馬券を握り締めながら、「また江田だ!」と歓喜の叫び声をあげようではないか。僕も、あなたも。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
タカシクワハタ(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

1975年東京都生まれ。
大学院の研究でA D H Dに出会い、自分がA D H Dであることに気づく。
特技はフェンシング。趣味はアイドルライブ鑑賞と野球・競馬観戦。

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2020-09-28 | Posted in 週刊READING LIFE Vol,97

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