指が動かなくても、私は音楽を伝えられる ― 病室から響いた、再起動のレッスン《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》
*この記事は、天狼院書店のライティング・ゼミを卒業され、現在、天狼院書店の公認ライターであるお客様に書いていただいた記事です。
人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
2025/9/1公開
記事:内山遼太(READING LIFE公認ライター)
Aさんは、子どもの弾く1音に込められた「気持ちの変化」を敏感に感じ取れる先生だった。60代後半。40年以上にわたり地域でピアノを教えてきた。生徒の心と音に寄り添い、「音楽で誰かを育てること」を生きがいとしてきた。
しかしある日、指の痛みと腫れに襲われ、関節リウマチと診断されて入院。楽譜もめくれず、鍵盤にも触れない。「私はもう先生ではないのかもしれない」そう思ったとき、彼女のなかで何かが静かに止まった。
それは、“停電”だったのかもしれない。そして数週間後、病院のクリスマス会で彼女は”音楽指導役”として再び前に立っていた。音を出さなくても、音楽は伝えられる。その瞬間、彼女は自分と再びつながった。
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朝起きると、指がこわばって動かない。最初は寝違えのようなものだと思っていた。しかし日を追うごとに痛みと腫れがひどくなり、楽譜をめくることさえできなくなった。病院で告げられた診断は「関節リウマチ」。Aさんの人生が、その瞬間から一変した。
入院した病室には、いつものアップライトピアノがない。40年間、毎朝指の準備運動をしていた習慣も、生徒たちの練習を見守る午後の時間も、すべてが断たれた。「私はもう先生ではないのかもしれない」。そんな思いが、彼女の心を重くしていった。
ピアノを教えることが、Aさんにとっての生きがいだった。指が動かなければ、模範演奏もできない。音楽を「見せる」ことができなければ、どうやって生徒たちに伝えればいいのか。自分の価値や存在意義を、演奏という行為と強く結びつけていた彼女にとって、それは単なる身体の不調以上の意味を持っていた。
この状態を、私たちは「停電」と呼んでいる。停電とは、自分の身体や心、そして大切にしてきた役割と「つながらなくなる」状態のことだ。Aさんにとっての停電は、「もう誰にも音楽を届けられない」という思い込みによって、自分自身との接続が断たれてしまったことだった。
白い病室の天井を見上げながら、Aさんは静かに涙を流していた。心の電源が落ちたような、深い暗闇の中にいた。
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入院から2週間ほど経ったある日、教え子の一人である中学生のMちゃんが面会に来てくれた。お見舞いの花束と一緒に、練習中の楽譜を持参していた。「先生、この曲がなかなか上手く弾けなくて…」。
Aさんは楽譜を見つめた。指で弾いて見せることはできないが、目で音符を追うことはできる。「ここの部分はね、雨が屋根を叩く音をイメージして。『ポツポツ』から『ザアザア』に変わる瞬間を表現したいのよ」。自然と言葉が出てきた。
Mちゃんの目が輝いた。「先生、それすごく分かりやすいです!」。楽譜を見ながら、Aさんは曲の背景や作曲者の意図、感情の込め方について詳しく説明していった。音は出せなくても、音楽について伝えられることが、こんなにもたくさんあったのだ。
その後、Mちゃんは自宅で練習し、次の面会時に演奏を聞かせてくれた。驚くほど表現力が豊かになっていた。「先生の言葉のおかげで、この曲が全然違って聞こえるようになりました」。
この瞬間、Aさんの心に小さな光が灯った。自分はまだ「先生」でいられる。音楽を教えることは、必ずしも楽器を弾くことだけではない。言葉で感情を伝え、イメージを共有し、生徒の心に音楽の種を植えることも、立派な指導なのだと気づいた。
失われたと思っていた役割の一部が、静かに戻ってきた。それは、完全な復活ではなかったが、確実に「自分らしさ」を取り戻すきっかけとなった。
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入院から1ヶ月が経った頃、担当の看護師から相談を受けた。「来月のクリスマス会で、患者さんたちに音楽を楽しんでもらいたいんです。Aさんに何かアドバイスをいただけませんか?」。
最初は遠慮していたAさんだったが、看護師の熱意に押されて引き受けることにした。指は使えなくても、曲の選定、進行の組み立て、簡単な合奏のアドバイスならできる。久しぶりに、音楽の「中心」に戻れる機会だった。
クリスマス会の準備期間中、Aさんは病棟の様々な人々と関わった。歌の好きな患者さんには歌詞の意味を説明し、リズムを覚えたい人には手拍子の取り方を教えた。楽器を演奏する看護師には、伴奏のコツを言葉で伝えた。
本番の日、Aさんは司会と音楽進行を担った。「皆さん、『きよしこの夜』を歌いましょう。この曲は、静かな夜に生まれた小さな命への愛を歌ったものです。優しく、温かい気持ちで歌ってください」。
病棟全体が一つの音でつながった。患者さんたちの歌声、看護師の伴奏、そして自分の導きによって生まれたハーモニー。それは、Aさんが今まで経験したことのない、新しい形の音楽だった。
「私は、やっぱり音楽の人間だ。」
心の奥底から、静かな確信が湧き上がってきた。
この体験を通して、Aさんは重要なことを理解した。「再起動」とは、過去に戻ることではなく、「自分ともう一度つながる」ことなのだと。指が動かなくても、音楽への愛は消えていない。教えることへの情熱も、生徒を育てたいという想いも、すべて心の中に残っている。
Aさんは、教えるという新しいかたちで「自分の存在価値」を取り戻した。それは以前とは違う姿だったが、確実に「自分らしい」生き方だった。
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入院生活の中で、Aさんは自分なりのセルフケア習慣を見つけていた。それは、決して大げさなものではなく、誰にでもできる小さな行動の積み重ねだった。
毎朝、ベッドの上で深呼吸をする。「心を調律する」と、自分では呼んでいた。楽器を調律するように、心の音程を整える時間。これが一日の始まりだった。
音楽日記を3行だけ書く。「今日聞いた音」「心に残った音楽」「音楽について考えたこと」。指に負担をかけない程度に、音楽との接点を保つ工夫だった。
太ももでリズムタップをする。手首や指に痛みがあっても、脚なら使える。好きな曲のリズムを刻みながら、音楽との一体感を味わった。
片手でハミングの伴奏を思い出す練習をする。完璧でなくても構わない。音楽の記憶を呼び覚まし、心の中で演奏する時間を大切にした。
これらの小さな習慣が、Aさんの心のリハビリになった。「できないこと」を嘆く代わりに、「できること」を一つ続けることで、音楽との関係性を保ち続けることができた。
音楽という創造性が、彼女の再起動スイッチになった。完璧でなくても、以前と同じでなくても、再び自分の大切なものとつながれたことが、真の意味での「回復」だったのだ。
病院での生活を通して、Aさんは学んだ。人生には予期しない「停電」が起こることがある。しかし、その停電は永続的なものではない。自分の中にある光を見つけ、小さなスイッチを一つずつ押していけば、必ず再起動できる。そして、再起動した先には、以前とは違う、でも確実に「自分らしい」新しい生き方が待っている。
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読者への問いかけ:あなたの中の”再起動スイッチ”を探してみませんか?
あなたにとって「自分とつながる」時間はどこにありますか?
演奏でなくても構いません。絵を描くこと、日記を書くこと、散歩しながら空を見上げること。今日、5分だけ「あなた自身とつながる時間」をとってみてください。
それが、静かに落ちていた心のブレーカーを押し直すスイッチになるかもしれません。
どんな小さな行動でも、あなたの大切なものとの接点を保つことができれば、それは立派なセルフケアです。完璧である必要はありません。続けることに意味があります。
人生の停電は、誰にでも起こり得るものです。しかし、その暗闇の中でも、あなたの心の中には消えない光があります。その光を見つけ、育てていくことが、再起動への第一歩なのです。
どんな小さな行動でも、それはあなたと大切なものをつなぐ”光”になります。
暗闇にいるようなときこそ、自分の中にあるスイッチを、そっと押してみてください。
病院の窓から見える夕日のように、静かに、でも確実に、あなたの心にも温かな光が戻ってくるはずです。
❏ライタープロフィール
内山遼太(READING LIFE公認ライター)
千葉県香取市出身。現在は東京都八王子市在住。
作業療法士。終末期ケア病院・デイサービス・訪問リハビリで「その人らしい生き方」に
寄り添う支援を続けている。
終末期上級ケア専門士・認知症ケア専門士。新人療法士向けのセミナー講師としても活動中。
現場で出会う「もう一度◯◯したい」という声を言葉にするライター。
2025年8月より『週刊READING LIFE』にて《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》連載開始。
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