心と身体の再起動スイッチ

統合失調症の青年が「おはよう」と言えたあの日《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》


2025/11/17/公開

 

記事:内山遼太(READING LIFE公認ライター)

 

※一部フィクションを含みます。

 

朝の光が差し込む食堂。湯気の立つ味噌汁を前に、青年は無言で座っていた。幻聴に怯え、言葉を発することすら恐ろしかった。それでも、その日、かすかに口が動いた。「……おはよう」その一言が、彼の世界に再び”人の声”を取り戻した。

——

 

彼と初めて会ったのは、精神科病棟の作業療法室だった。二十代前半、統合失調症の診断を受けて三年が経っていた。幻聴と被害妄想に苦しみ、長期入院を余儀なくされていた。

 

作業療法室に入ってきた彼は、部屋の隅の席を選んだ。他の患者から最も離れた場所。そして、誰とも目を合わせようとしなかった。

 

「こんにちは」と私が声をかけると、彼は小さく身体を震わせた。返事はない。ただ、わずかに首を動かしただけだった。

 

統合失調症の人の多くは、対人恐怖を抱えている。特に幻聴がある場合、他者の声と幻聴の区別がつかなくなることがある。誰かが話しかけてくると、それが現実の声なのか、自分の頭の中の声なのか、わからなくなる。

 

彼もまた、その恐怖の中にいた。

 

看護記録によると、彼は入院してからほとんど話していなかった。食事の時も、作業の時も、常に沈黙。スタッフが話しかけても、頷くか首を振るかだけ。声を発することは、ほとんどなかった。

 

「なぜ話さないんですか」と尋ねたスタッフに、彼は震える手でメモを書いた。

 

「話すと、聞こえてくる」

 

幻聴だった。彼が声を出すと、頭の中で別の声が聞こえてくる。その声は彼を責め、侮辱し、時には命令する。だから彼は、話すことをやめた。

 

これは「停電」の一つの形だった。停電とは、心身の機能が一時的に失われ、感じる・考える・動くといった活動が停止している状態を指す。彼の場合、「声を出す」という人間にとって最も基本的なコミュニケーション機能が、完全に遮断されていた。

 

声を失うことは、世界とのつながりを失うことだった。

 

集団活動でも、彼は常に沈黙していた。他の患者たちが話し、笑い、時には言い争う中で、彼だけが石のように動かない。その孤独な姿を見るたびに、私は胸が痛んだ。

 

ある日、作業療法のセッション後、彼が私にメモを渡した。

 

「僕は、もう話せないんですか」

 

その文字は震えていた。

 

 

私は彼に、新しいアプローチを提案した。「話す」ことから始めるのではなく、「音を出す」ことから始めようと。

 

最初のセッションで、私は楽器を用意した。木琴、トライアングル、鈴。簡単な音が出るものだった。

 

「今日は、音を楽しんでみましょう」と私は言った。「話す必要はありません。ただ、音を出してみるだけです」

 

彼は戸惑った表情を見せたが、私が木琴のバチを差し出すと、恐る恐る受け取った。

 

「叩いてみてください」

 

彼はバチを持ち上げ、木琴に触れた。コーン、と優しい音が鳴った。

 

彼は驚いたように目を見開いた。そして、もう一度叩いた。コーン。また叩く。コーン、コーン、コーン。

 

その音は、彼が発した「声」だった。言葉ではないけれど、彼が世界に向けて出した音。それは、沈黙の壁に開いた小さな穴だった。

 

次の週、彼は自分から木琴の前に座った。そして、今度は少しリズムを変えて叩き始めた。コーン、コン、コーン。

 

「いいリズムですね」と私が言うと、彼は少しだけ笑顔を見せた。

 

音を出すことは、話すことの準備だった。声帯を使わずに、自分の意志で音を発する。それが、彼の中で「表現する力」を少しずつ呼び覚ましていった。

 

数週間後、私は次のステップを提案した。「今度は、声を出してみませんか。言葉じゃなくてもいい。『あー』でも『うー』でも」

 

彼は長い間考えた。そして、小さく頷いた。

 

「怖いですか」と尋ねると、彼は頷いた。

 

「大丈夫。聞こえてきたら、すぐに止めていいですから」

 

彼は深く息を吸った。そして、口を開いた。

 

「……あ」

 

かすかな、本当にかすかな音だった。けれど、それは確かに彼の声だった。

 

彼は目を閉じて、じっと待った。幻聴が来るのを待っているようだった。

 

数秒後、彼は目を開けた。「来なかった」と彼は驚いたように言った。

 

「もう一度、出してみますか」

 

「……あ、あ」

 

今度は少し大きな声だった。それでも幻聴は来なかった。

 

彼の目から涙がこぼれた。「声が、出せた」

 

それは、彼にとって大きな一歩だった。

 

 

それから数ヶ月、彼は少しずつ声を出す練習を続けた。最初は母音だけ。次は簡単な単語。「水」「はい」「ありがとう」

 

幻聴は完全には消えなかった。けれど、彼は少しずつ、幻聴と現実の声を区別できるようになっていった。

 

ある日、病棟のスタッフミーティングで、看護師がこう提案した。

 

「朝の挨拶を、みんなでやってみませんか。患者さんたちに、『おはよう』と声をかけ続ける。強制じゃなくて、ただ声をかけ続ける」

 

私は賛成した。「彼にとって、挨拶は良い練習になるかもしれません」

 

翌朝から、朝食の時間に「おはよう」の声かけが始まった。

 

スタッフが食堂に入ると、患者一人一人に「おはようございます」と声をかける。返事をする人もいれば、無視する人もいる。彼は、いつも無言で頷くだけだった。

 

一週間が過ぎ、二週間が過ぎた。彼は毎朝、同じように頷くだけだった。

 

けれど、スタッフは諦めなかった。毎朝、必ず「おはようございます」と声をかけた。

 

三週間目のある朝のことだった。

 

いつものように、看護師が彼に「おはようございます」と声をかけた。

 

彼は頷こうとした。けれど、その瞬間、何かが変わった。

 

彼の口が、わずかに動いた。

 

「……お、はよう」

 

聞こえるか聞こえないかの声だった。けれど、確かに言葉になっていた。

 

食堂にいたスタッフ全員が、動きを止めた。

 

看護師は目を潤ませながら、笑顔で言った。「おはようございます。よく眠れましたか」

 

彼は小さく頷いた。そして、もう一度、少しだけ大きな声で言った。

 

「おはよう、ございます」

 

その瞬間、彼の中で何かが繋がった。声が、世界に届いた。人に届いた。そして、返事が返ってきた。

 

これが「再起動」だった。再起動とは、停電していた心身の機能が、少しずつ回復し始める過程を指す。止まっていた声が、再び動き始める。完全に元通りになるわけではない。けれど、「声を出す」という、人とつながるための最も基本的な機能が、ほんの少しだけ戻ってきた。

 

 

「おはよう」は、単なる挨拶ではない。

 

それは、「私はここにいる」という存在の証明だ。そして「あなたを認識している」という他者への承認だ。

 

たった一言の挨拶が、孤立した世界に橋をかける。

 

彼が「おはよう」と言えたことで、周囲の人々の反応が変わった。

 

他の患者が、彼に話しかけるようになった。「おはよう」と彼が言うと、「おはよう」と返してくれる。その小さなやり取りが、彼に「会話」という感覚を思い出させた。

 

ある日、作業療法室で、彼が隣に座っていた患者に自分から話しかけた。

 

「それ、上手ですね」

 

相手は折り紙を折っていた。その言葉を聞いて、相手は笑顔で答えた。「ありがとう。あなたも折ってみる?」

 

「……いいんですか」

 

「うん、一緒に折ろう」

 

二人は並んで、折り紙を折り始めた。会話は多くなかったけれど、時々「ここ、どう折るの?」「こうだよ」と言葉を交わした。

 

その光景を見て、私は深く感動した。

 

数ヶ月前まで、誰とも話せなかった彼が、今、自分から会話を始めている。

 

「おはよう」という一言が、彼の世界を開いたのだった。

 

その後、彼は少しずつ言葉を増やしていった。「ありがとう」「いただきます」「おやすみなさい」日常の言葉が、少しずつ戻ってきた。

 

半年後、彼は退院することになった。

 

退院の日、彼は作業療法室に立ち寄り、私にこう言った。

 

「先生、ありがとうございました。僕、また話せるようになりました」

 

その声は、しっかりとしていた。

 

「これからも、毎朝『おはよう』って言います。それが、僕が生きてる証拠だから」

 

その言葉を聞いて、私は深く頷いた。

 

 

作業療法士として、私は多くの統合失調症の患者と関わってきた。その中で学んだことがある。

 

声を出すことは、「存在を世界に返す行為」だということだ。

 

沈黙は、時に安全だ。話さなければ、傷つかない。拒絶されない。けれど同時に、沈黙は孤立を深める。

 

声を出すことは、勇気がいる。特に、幻聴に苦しむ人にとっては、恐怖との戦いだ。

 

けれど、その一言が、世界とのつながりを取り戻す。

 

「おはよう」という言葉が、彼の孤立した時間を溶かし始めた。

 

彼は今、地域の作業所に通っている。毎朝、スタッフや仲間に「おはよう」と挨拶する。その声は、彼が再び社会の一員として生きている証だ。

 

声が、彼の人生を再び動かした。その瞬間を、私は忘れない。

 

 

※本文における用語の定義

 

停電: 心身の機能が一時的に失われ、感じる・考える・動くといった活動が停止している状態。統合失調症においては、幻聴への恐怖から「声を出す」という基本的なコミュニケーション機能が遮断され、世界とのつながりが断たれた状態を指す。

 

再起動: 停電していた心身の機能が、少しずつ回復し始める過程。完全な回復ではなく、音を出すことから始まり、声を出し、言葉を発するという段階的な変化を通じて、コミュニケーション能力が徐々に戻ってくる過程を意味する。

 

❏ライタープロフィール

内山遼太(READING LIFE公認ライター)

千葉県香取市出身。現在は東京都八王子市在住。

作業療法士。終末期ケア病院・デイサービス・訪問リハビリで「その人らしい生き方」に寄り添う支援を続けている。

終末期上級ケア専門士・認知症ケア専門士。新人療法士向けのセミナー講師としても活動中。

現場で出会う「もう一度◯◯したい」という声を言葉にするライター。

2025年8月より『週刊READING LIFE』にて《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》連載開始。

 

 

 

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

お問い合わせ


■メールでのお問い合わせ:お問い合せフォーム

■各店舗へのお問い合わせ
*天狼院公式Facebookページでは様々な情報を配信しております。下のボックス内で「いいね!」をしていただくだけでイベント情報や記事更新の情報、Facebookページオリジナルコンテンツがご覧いただけるようになります。


■天狼院カフェSHIBUYA

〒150-0001 東京都渋谷区神宮前6丁目20番10号
MIYASHITA PARK South 3階 30000
TEL:03-6450-6261/FAX:03-6450-6262
営業時間:11:00〜21:00


■天狼院書店「湘南天狼院」

〒251-0035 神奈川県藤沢市片瀬海岸二丁目18-17
ENOTOKI 2F
TEL:04-6652-7387
営業時間:平日10:00~18:00(LO17:30)/土日祝10:00~19:00(LO18:30)


■天狼院書店「京都天狼院」

〒605-0805 京都府京都市東山区博多町112-5
TEL:075-708-3930/FAX:075-708-3931
営業時間:10:00〜22:00


■天狼院書店「名古屋天狼院」

〒460-0002 愛知県名古屋市中区丸の内3-5-14先
Hisaya-odori Park ZONE1
TEL:052-211-9791
営業時間:10:00〜20:00


■天狼院書店「福岡天狼院」

〒810-0021 福岡県福岡市中央区今泉1-9-12 ハイツ三笠2階
TEL:092-518-7435/FAX:092-518-4149
営業時間:
平日 12:00〜22:00/土日祝 10:00〜22:00



2025-11-17 | Posted in 心と身体の再起動スイッチ

関連記事