第9回:ウルトラトレイルランナーは「成長ジャンキー」《ウルトラトレイルランナーが案内する日本一過酷な鎌倉・湘南観光》
2023/5/1/公開
記事:佐藤謙介(READING LIFE編集部公認ライター)
「成長実感は麻薬である」
あなたはこれまでにどんな成長実感を味わっただろうか?
・受験勉強で努力した結果、大学に合格できた
・頑張って仕事をしたら成果を出すことができ周囲から認められた
・昔に比べて遥かにお金を稼ぐことができるようになった
私たちは生きていれば何かしら成長を期待し、それが叶ったときに「成長実感」を感じることができる。その時に感じた喜びがまた自分を動かす原動力となり、次の目標に向かうためのエネルギーになる。
しかし成長実感はいつも感じられるわけではない。一定の努力期間があって初めて感じられるものなので、1年に一回、もしかしたら数年に一回でも感じられれば普通なら「自分は成長している」と感じることができるのではないだろうか。
ところがこの成長実感を味わうことに取りつかれてしまった人たちが世の中にはいる。
ビジネスで成功した経営者や、強い権力を手にした政治家、株の売買で大金を手にしたトレーダー、そしてウルトラトレイルランナーである。
「成長実感」は脳内で創り出されている
こうした人たちは「報酬系」と呼ばれる脳内のドーパミン経路が異常な作用を及ぼし、自分が常に成長していないと我慢が出来なくなってしまった人たちだ。
人間は自分にとって嬉しい出来事が起こると、脳内でドーパミンというホルモンを生成する。これは「快楽ホルモン」と呼ばれ、それが放出されることで私たちは快感を得ることができるようになっている。
そしてこれが異常な状態になった人たちを私たちは「ジャンキー(中毒者)」と呼ぶ。
例えば覚せい剤やコカインといった物質はこの報酬系に強く働きかける薬で、本来であれば自分たちが努力した結果得ることができるドーパミンを、薬の力を使って強制的に放出させ快感を感じているのである。
この中毒状態の厄介なところは「より強い刺激を求め続ける」という点にある。
これはノーベル経済学賞を受賞したダニエルカーネマン教授の「プロスペクト理論」でも証明されているが、人間は「変化量」に対して満足度が変わるように出来ている。
例えば、毎月アルバイトで10万円稼いでいた人が、正社員の仕事を手にして月額25万円稼げるようになったとしよう。すると変化量は10万円→25万円となり、収入は250%アップということになる。
しかし、その後仕事を一生懸命頑張って月額30万円になったときには、その変化量は120%アップなので、以前より高い収入を得ているにも関わらず、10万円から25万円になったときほど嬉しさを感じることはない。
つまり人は、自分が手にした報酬の「絶対額ではなく変化量に対して喜びを感じる」ように出来ているのである。これが「ジャンキー」たちがより強い刺激を求めてしまう原因である。
そして我々ウルトラトレイルランニングにハマっている人たちも同様に中毒状態になっているのだ。
成長意欲は止められない
トレイルランニングの特徴の一つは距離が長いことだ。
マラソンであればほとんどの人にとって42.195kmが最長距離だと思うが、トレイルランニングにおいてはこの距離はミドルクラスである。トレイルランニングなら80km、100km、160km(100mile)と異常な長さのレースが存在している。
これまで学生の時に構内マラソン大会などで最長10kmしか走ったことがないひとが、トレイルランニングのレースで20kmのレースに完走したとする。すると成長率は200%となり強い快感を得ることができる。すると次はもっと長いレースに挑戦しなければ同じ満足感を味わうことが出来ないため距離は40kmに伸びるのだ。すると私たちはまた200%の成長率を感じることができるため「あ~、こんな私が40kmも走ることができたぁ」と脳内ではドーパミンがバンバン放出され、MAXの気持ちよさを感じているのである。
ロードのレースであればこれ以上の長い距離を走るというのはほとんどないが、トレイルランニングの場合は、80km、160kmとさらに距離を延ばすことができるため、同じ「成長率」を感じ続けることがある意味容易なのだ。
だからトレイルランナーたちはより長い距離を求めて「100mileレース」に挑戦をしたくなるのである。
ところが100mileという距離は一般的な人間が持っている能力の限界を超えた世界であるため、完走するのはそう簡単ではない。明らかに難易度は20km、40kmよりも上がっている。だからこそ、成長実感は単純に距離に比例したときよりも高くなり、どうしてもそこを目指したいという欲求が産まれるのである。
UTMF
そんな国内のウルトラトレイルランナーたちにとってやはり特別な存在が「ULTRA TRAIL MT.FUJI(通称UTMF)」だろう。(今年から改名して「FUJI」となっているが、本記事内では私の気持ち的に「UTMF」と呼ばせていただく)
このレースは国内トレイルランニングにおいては特別な存在として位置づけられており、トレイルランナーにとっては憧れであり、また誰しもが一度は完走を夢見るレースだ。
【コースMAP(公式HPより転載)】
私は、ひそかに今回のUTMFには自分に期待していた。
この数年、年齢とともに怪我が増え満足に走れない期間が増えていた。また減量も年々難しくなり、食事を減らして運動量を増やしたとしても体重が全く減らなくなってしまった。それでも成長したいから強度の高い練習をした結果、怪我をしてしまい結局走れなくなってしまうという悪循環を繰り返していたのである。
しかし、その反省を踏まえて2022年の冬場に私は「怪我をせずに減量をする」ことを心に決め、これまで怪我に繋がっていた、減量と強度の高い練習のバランスを見直し、まずは減量することに焦点を当て、トレーニングの仕方を変えることにした。その結果、体重は3ヶ月で約6kg減らすことができ、且つ小さな痛みなどは仕方ないにしても怪我をせずに冬場を乗り越えることができたのである。
そして体重が減ったことで、以前よりも楽に走ることができるようになった。峠走を行っても今までよりも速いタイムで走れるようになったし、強度の高い練習を行っても以前よりも疲労感が減ったのである。
そのため私は密かに「今回のUTMFは今のコンディションだったら以前よりも良い結果が出るのではないか」と自分への期待を高めていた。ところがこの自分への期待値の高さが、全て裏目となって出てしまったのである。
高速レース
今回のUTMFは事前の天気予報では雨マークが出ていたため、大方の予想では当日は小雨か曇り空、もしかしたら気温も下がるのではないかと予想していた。ところがスタート当日の天気は晴れ。翌日も曇りとなり、雨が降ることはほぼなさそうだった。代わりに天気が回復したことで日差しが届き、むしろ暑さを感じるぐらいだった。
当然こんなことは想定内で、暑くなれば大量に汗をかくため脱水に気を付けなければいけないことは容易に想像できた。またこの時期まだ体は熱さに慣れていないので、想定している以上に水分補給が必要だと思った。
【スタート直前、会場は熱気に包まれていた】
スタート前に諸々準備を整え、私はゴールゲートの前に立ちスタートの合図を待った。
今回は参加者が2000名を超え、観客も合わせればものすごい数の人が会場に集まり、熱気が高まっていた。私はいくらかの高揚は感じていたものの、いたって冷静なつもりであった。
そして4月21日(金)14時30分にレースはスタートした。
スタートしてみると、体は思った以上に軽かった。レース直前で少し右大殿筋に痛みがあったが、この数日殆ど走らずに回復に専念していたため、走り出しても痛みはほぼ感じることはなかった。体調は悪くない、そう思えるレースは何年ぶりだろうと嬉しさが込み上げてくるのを感じながら、私は走りだした。
第1エイドの富士宮エイドまでの23kmは緩やかな下り基調でロードとトレイル(林道)を繋ぐためほぼ100%走れるコースとなっている。しばらく走るって時間を見ると、普段練習で走っている速度と変わらない速さで走っていることに気が付いた。
「ん? さすがに速くないか?」
10kmを過ぎたあたりで、さすがに序盤でこのスピードは自分には速すぎると感じ、スピードを落とそうと思ったが、そこからはシングルのトレイルが続き、後続ランナーが次々と来るため、一人二人に抜いてもらってもすぐに後ろから迫られる状況になり、思うようにスピードを落とすことができなかった。
しかしメチャクチャ苦しいかというとそんなこともなく、比較的気持ちよく走れている状態だった。
ところが第1エイドに到着したタイムが2時間16分。これは自分にとっては明らかなオーバーペースであった。
この後はレース最大の難所である天子山地を超えなければならない。次の第2エイドまでは27km、最低でも5時間は補給を取ることができない。私は十分に水分とエネルギー補給を行い、ソフトフラスクも満タンにして第1エイドを後にした。
「魔」の天子山地
【遥か前方には最難関の天子山地が見える】
しかし、このとき既に時は遅かった。
私は最初の20kmで大量の汗をかき、足を必要以上に使ってしまっていた。そのツケは天子山地に入ってすぐに現れた。
脚が重く、体がだるく、のどが渇いた。
まだ天子山地の半分にも満たないところで全く体が動かなくなり、切り株に座り込むようになってしまった。次々と後続のランナーに抜かれるが全く走ることができず、残り10kmを残したところで既に水は切れてしまった。
幸い後半はロードだったため、トボトボと下りを走りながら麓エイドに辿りついたが、その時には完全に潰れていた。
麓エイドで楽しみにしていた富士宮焼きそばをもらった。
「面が太い……」
また水分が足りてないのか、飲み込みづらかった(きっと普段なら美味しく食べられたのだと思うが)
そこでコーラをもらおうとしたら「250ml缶一人一本」と書かれていた。でも「命には代えられん」と思いこっそり二本もらい、そしてしばらく焚火の近くに座って補給をした。
ここまでくると精神が削られ、レースをやめること以外考えることができなかった。
【焚火に集まり無言で焼きそばを食べるランナーたち】
何が良くなかったのか?
しばらく考え続けたけど、その時は何も答えが出なかった。
しかし「レースをやめることだけはやめよう」と考えることができた。
私は秋に海外レースに参加することが決まっている。もしこれが本命の海外レースだったら、簡単にレースを諦められるだろうか?
そう自分に自問した。答えは明らかだった。やめられるはずがない。
であれば、今回のレースは秋の海外レースの予行演習だと思えばいい。もしかしたら同じことが起きるかもしれない。その時にどんな対処をするかを今、自分が体験しているのだと思うことにした。
全ての期待を捨てる
そして私は自分への期待を全てそこで捨てることにした。
もしかしたらあわよくば30時間を切れるかもしれないと思っていたが、記録にこだわることは全て諦めた。
レース前の準備や努力してきたことをこのレースで発揮したかったが、そういった気持ちも全て捨てることにした。ただ、完走さえできれば良い。それ以外のことは何も望まないことに決めて、私は麓エイドを後にした。
その後も、走ることができずに何度も立ち止まっては自分の身体と対話し続けた。
思考力、精神力、体力、足の痛み、補給具合、それだけを考えて前に進み続けた。
途中でいつも一緒に走っている仲間や知り合いに追いつかれ、追い越されたけど、悔しいとかそういった気持ちは浮かんだ瞬間に捨てた。いまここで前を追って体力を使ってはいけない。
とにかく1kmずつ残りの距離を減らしていくことだけに集中した。
これまでレース中に仮眠を取ったことは一度もなかったが、途中の精進湖エイドでは初めてレース中に仮眠を取った。ここで1時間以上タイムロスしてでも少しでも良いから身体を回復させたかった。
【精進湖エイドの仮眠場所は野戦病院さながら】
中間エイドの富士急ハイランドでは、チームメイトが沢山ボランティアで参加していて、多くの仲間に声を掛けてもらい元気をもらうことができた。
【仲間の声援はいつでも元気をくれる】
それでも足は全く動かなくて、登りは全部歩き、平坦なところも歩くところが多くなった。
最後の力を振り絞る
そしてようやく最終エイドの富士吉田エイドにたどり着いた。
残すは「霜山」ただ一つ。
これさえ超えればゴールすることができる。ここでしっかり補給をして霜山に挑もうと思った。
そして富士吉田エイド名物の田舎うどんをもらった。
「面が太い……」
【太麺の田舎うどん】
飲み込むのが大変だったが、補給しないわけにはいかないので、頑張って食べきった。
しかし、エイドを後にした瞬間から気持ちが悪くなった。
ここまでの道のりで胃の消化機能が極端に落ちていたにも関わらず、うどんを無理して食べたのが良くなかったのかもしれない。
またレースは二晩目に入り、眠気もピークとなっていた。
途中で強い吐き気に襲われ、全て吐き出してしまった。それでも気持ち悪さが消えずに何度も嗚咽を繰り返した。最後には吐き出すものが何もないのに胃だけが逆流するような感じになり、背中の筋肉が痙攣し始めた。600m登るだけなのに結局3時間以上費やしようやく山頂にたどり着いた。
あとは下山してゴールの富士急ハイランドを目指すだけである。
ゴール付近は深夜1時過ぎにも関わらず多くの人たちが残っていた。
ゴールゲート近くではチームメイトが声を掛けてくれた。
そしてすべてがギリギリの状態でゴール。
タイムは35時間7分。
自分が期待していた時間より遥かに遅いタイムだった。
しかし、こんな時間にも関わらず仲間が待っていてくれて、感謝と申し訳なさが入り混じったが、とにかく完走することができた安堵感で満たされた。
【ひきつった笑顔とよく分からない「やったねポーズ」が精一杯】
今回のレースで自分は果たして成長できたのだろうか?
本心を語れば経験を積んだという意味でわずかに成長実感を味わうことができたが、しかし「成長の変化量」としてはわずかであったと言わざるを得ない。そのため満足度は決して高くない。
しかし、自分の理想と現実との「ギャップ(不満足感)」こそが、自分を成長させるための原動力であることは間違いない。「不満足感」が無くなったときは自分の理想が無くなったときか諦めたときだ。
それだけは嫌だと強く感じられたことが今回のUTMFに参加した最大の収穫なのだろう。
私もまた「成長ジャンキー」なのである。
□ライターズプロフィール
佐藤謙介(READING LIFE編集部公認ライター)
静岡県生まれ。鎌倉市在住。
幼少期は学校一の肥満児で、校内マラソン大会では3年連続最下位。ところが35歳の時にトレイルランニングに出会い、その魅力に憑りつかれ、今ではウルトラトレイルランニングを中心に年に数本のレースに参加している。2019年には世界最高峰のウルトラトレイルランニングの大会「UTMB」に参戦し完走。普段は鎌倉・湘南エリアを中心にトレイルランニングを日常として楽しんでいる。
この記事は、人生を変える天狼院「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」をご受講の方が書きました。 ライティング・ゼミにご参加いただくと記事を投稿いただき、編集部のフィードバックが得られます。チェックをし、Web天狼院書店に掲載レベルを満たしている場合は、Web天狼院書店にアップされます。
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